電子書籍
久しぶりに読んだ
2020/11/13 04:05
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けい - この投稿者のレビュー一覧を見る
遠藤周作さんの中でも大好きな本で、こういう形で後世に残るのは、とても嬉しく思います。
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キリスト者の彼だから、シンプルでストレートなキリスト教礼賛ははばかられるのだろう。
キリスト教を知らない人の質問に答える形式でキリスト教をわかりやすく解説していて、押し付けがましくなく、しかも深いから面白い。
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クリスチャンでもある作家遠藤周作が、様々な基本的な質問に答えるという形式で、彼なりのキリスト教観を解りやすく解説している。神?奇跡?復活?そんなの信じられるわけないよ、という人に是非読んでもらいたい。神は存在ではなく、「働き」なんです。
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「深い河をさぐる」は相手によって態度を変えているというか、はぐらかして言う風なところがあり、いまいちだったが、この本は真摯に応えて自分の信仰の核や考えについて説明してくれている。
神が働きである、という考え方は納得でき、神を母的なものとしてとらえていることも親しみやすい。
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新興住宅街に住み、特に周囲に宗教を持つ人がいなかった私には、神様を信じるという感覚はとうしても呑み込めないものでした。
それには、小学生のときに起きた地下鉄サリン事件で受けた「宗教」のイメージも手伝っているのかもしれません。
それぞれの神様はその人にとっては強烈に正しくて、疑問を差し挟む余地はないのだろうと。何となく、触れてはいけないような気がして距離をとっていました。
だから、この本のタイトルには心惹かれるものがありました。
この本ではキリスト教を信じる著者が、信仰について率直に語っています。
本当に神様なんて信じているのか?なぜ日本人なのに仏教ではないのか?など、質問を設定し、それに答えていきます。
とくにおもしろかったのが、
・100パーセントの信仰はない。90パーセント疑い、10パーセントの希望。
・母親がすでにキリスト教徒だった。すでに環境が整っていたという意味では、恋愛結婚というよりは許嫁との結婚のようなもの。
・聖書はキリストの弟子たちが、弱虫から強虫になる過程が楽しい。
など、著者自身も迷いながら、掴み取ってきた感覚が新鮮でした。
あくまでこの本は信仰を持つ人のひとつのケースではありますが、
神様を信じるということが、そんなに離れた対岸にあるものではないのかなという感買うを持ちました。
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今まで宗教について考えたことがなかった自分にとっては、とても難しく感じた。いつか、信仰について考えるときがきたら再読してみたい。
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遠藤周作と小林秀雄のブクログ登録はキリがないので避けていたのだけれど、ある友人がくれたきっかけで再読したのでここに。
宗教書のカテゴリに入れるにはちょっと躊躇われたけれど…
僕自身がキリスト教について考えるときになかなか言葉にしにくかった思いをこの本を通じてかなりの数「ああ、そうだ、これだった」と認めることができた。
信仰というものを行うのは未熟で不完全である、われわれ人間という生き物なのだもの、僕は決して100%の完璧で隙のない忠誠や信仰心を神に捧げなくてもいいのだろうと…不義ながらも安心することができた。
苦しみ続けることへの許しを頂けました。
余談だけど僕の持ってる本と表紙の装丁が違う。
初版はこんなデザインだったのか…
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遠藤周作氏が自身の生涯からキリスト教の神と日本人の宗教観や日本人の神との違いをわかりやすく説明してくれました。氏の著作が好きな方、一度どこかでこれを読むと、他の作品も深みを帯びて理解できるかと思う。
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遠藤周作の全著書に貫徹するテーマ、神の存在と働きについてどのように考えるのかを述べた書。日本人が取っ付きにくいとする宗教=ここではキリスト教に対し、いかに日本という土壌に照らして解し、神と向かい合って来たかを述べる。その取っ付きにくさの前提は、日本での教会のあり方に帰せられている。
キリスト教徒と言えば「敬虔な」という冠が付くような、どこか隔絶された超然としたイメージが形づくられているとする。そうではなくて、自らの弱さに自覚的な「無理をしない」信仰のあり方もあるのだと述べることで、キリスト教および宗教一般に対する誤解を解こうとしている。
本書において、遠藤は、日本の教会が現世における共同体としての役目、良さを出し切れていないとして、それを批判する。
本書では神が、形而上で説明し得ないものの総称にまで広げられていることから、あくまで遠藤周作にとっての「神」/「神的なるものの概念」を説いた書であると思う。彼の著作を深く理解するには重要な書に感じる。今後、遠藤の著の読み方が変わるだろうし、『沈黙』を読み返すのが楽しみになる。
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筆者がなぜキリスト教を信じるようになったのか、神とは、三位一体とは、キリストとは、といった質問に対して筆者個人のキリスト教感で以て答えている本。筆者は日本人としての仏教、神道的感覚も持ち合わせているおり、そことの折り合いをつけながら帰依したキリスト教は日本に住んでいると遠い存在のキリスト教を身近に感じさせてくれた。
特に印象的だったのは「神は存在しているのではなく、働きである」という考え。一神教を信じていない身としては、神の存在は全くぴんとこないが、人の心の底にあって、そこで働く何かが神ということならば何となくだが自分も感じることができる。
筆者が迷いながらもキリスト教を信じることとなった経緯や想いが書かれているこの本は、明確な宗教を持たない今の若い人たちにキリスト教を知る良いきっかけになるのではないだろうか。
最後に、宗教倫理と社会道徳の違いについて、筆者「社会道徳を守っている人間の心の中には自己満足、偽善、他人を裁く、そういう宗教倫理からみると汚らしいものが生じているはずです。」30年以上前の内容だが、宗教色が薄れた今の日本社会で発生している問題に非常に当てはまっており、宗教というものがなぜ多くの社会で必要とされているのかを考えさせられた。
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無宗教の日本人にわかりやすくキリスト教(カトリック)を説明してくれている。キリスト教徒でありながら、キリスト教をどうも身近に感じることが出来ない日本人の気持ちをよくわかってくれている。
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作家の目線で、聖書を史実か伝承か、効果的な創作としての一面などを説明してくれていて、私には非常に分かりやすい。聖書の別の一面を見ているようだった。
ハッとすることが多い内容だった。特に、清浄であるということ、つぐなうということ。日本の文化として当たり前に受け入れてきたことがキリスト教の考え方との違いを生んでいるなんて、考えたことがなかった。
著者の小説をより深く楽しむ手助けになる、興味深い一冊だった。
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キリスト教徒だった遠藤周作が語る神と信仰についてのエッセイ。キリスト教の理念はどうにも馴染めないけれど、遠藤周作が語るそれは不思議なほどすっと入ってくる。日本人流に「仕立て直した」からであろう。「信仰というのは90%の疑いと10%の希望」であるとし「神は働きによってそれを感じる」と言う。「神というのは、存在を証明することはできない、しかし、その働きを感ずることはできるものだ。神は、目の前に置いて見えるものではありません。対象として証明することはできません。しかし、背中からだれかが押してくれているという感じ方でとらえることはできます。あるいは無意識の中で、神が働いているという感じでとらえることはできます」と何か目に見えない力を遠藤周作は神や信仰だと述べる。これを自分の感覚に置き換えると色々な人との繋がり、「縁」ではないかなと。イエスが起こした奇跡についても遠藤は「奇跡とは常人のできぬ愛の行為」だと言う。イエスはただひたすらに愛の行為を行った。遠藤周作が見ているイエス像は数々の奇跡を起こした超人でも何でもなく、何処までも深い愛情を持ったひとりの人間だ。そんなイエス像に私は親しみを感じる。
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中高時代はプロテスタントの学校に通っていたのに、キリスト教がなんなのかちっとも説明できない自分が残念で勉強として読んでみる。遠藤周作のわかりやすい解説で目からうろこなのは、新約聖書の福音書は、各民間信仰をベースに書かれているため、なにが真実かはわからないということ。いってしまえば壮大な二次創作?!という。遠藤周作も強調しているのは、神とは存在ではなく、「働き」という言葉になんとなくしっくり。また民間信仰ベースだからこそ、自分にとってしっくりくるイエス像があってもいいのではないか?と私には読めた。父性的なイエス、母性的なイエス。神とは非常にパーソナルなものだ、という解釈に聞こえた。
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めちゃくちゃ良かった。高野山に行ってから、信仰や宗教というものの"実態"とはなにかを知りたいと思っていた。しかし「仏教とは」とか「わかりやすいキリスト教」といった本はなんだか表面的でしっくりこない。
やはり実体験を伴った個人の思想や解釈、その欠片を集めたものが宗教というモザイク画になっていくのだろう。宗教や信仰というものは、思っている以上に曖昧で融通の効くものらしい。
本書はキリスト教の立場から見ているが、仏教との比較もあるし、キリスト教のここはちょっと嫌みたいな意見があけすけに聞ける。
宗教に対しての意識が変わる一冊。「沈黙」と同時に読み始めたがおもしろくてこちらが先におわってしまった。