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栄花物語 みんなのレビュー

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みんなのレビュー21件

みんなの評価3.8

評価内訳

2 件中 1 件~ 2 件を表示

紙の本

田沼時代に仮託された第二次世界大戦前の日本

2011/10/28 17:53

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:saihikarunogo - この投稿者のレビュー一覧を見る

冒頭、中洲の料亭で逢曳をしている男女の会話から始まっている。風と大川の波に洗われる音が部屋の中まで聞こえてくる。その男、青山信二郎は、松平定信の部下の注文で田沼意次の誹謗文書を作成して、田沼憎しの輿論を盛り上げるのに成功し、多額の報酬を得ていた。

そして、小説は、青山信二郎が、もう一度、女に逢うために、中洲へ行こうとするところで終わる。そのときまでに青山信二郎は、田沼意次と松平定信、両者に会って話をし、両者の政治家として人間としての力量識見を知り、意次への誹謗文書作成を断るようになった結果、定信の一派に狙われ、抹殺されようとしていた。今しも中洲へ向かう青山信二郎の跡を、二人の男がつけていた。

この構成と描写を、うまい、と思う。この小説ではそこまで書かれていないが、中洲の歓楽街は田沼時代に繁栄したものの、意次が失脚して定信が老中首座に就くと、風紀紊乱のもととして撤去されてしまうのだ。この小説を読むのは二度目で、十年以上前、初めて読んだときには、私は、中洲にまつわることを知らなかった。今でこそ、佐藤雅美の多数の小説で読んで知っているけれど。

山本周五郎は、田沼時代を借りて、周五郎自身が生きていた時代の出来事を書き込んでいると思う。青山信二郎と藤代その子との逢曳のさなかに踏み込んでくる、目付とその配下の役人たち、将軍の狩りの一行を迎えた小金ヶ原(佐藤雅美の小説では小金牧)で、田沼暗殺を企む男「田舎小僧」に少年が語り聞かせる、郡代役人の悪辣さ……、

>そしてかれらの悪質なやり方について、少年はひどく能弁に語り続けた。それはどこにでもある話であり、多くは事実より誇張されていることのわかるもので、大人たちの茶飲み話をそのまま口写しにしたということも明らかであったが、しかもそのなかには、長い年代にわたる農民たちのひそめられた怨嗟や、深い溜息の声が聞えるようであった。

また、一揆を起こした農民を捕える役人たちの、必要以上の暴力、残酷さ……。

それは、私にとっては、1960年代ぐらいまでの日本の小説や映画やテレビドラマで読み慣れ見慣れた、特高警察とか、小作争議か労働争議かなにかの描写を、彷彿とさせるものだ。

また、たとえば、青山信二郎の親友の河井保之助の実家の、ひどい吝嗇で家族みんなに憎まれている父親と、その反対に浪費家で怠惰で親族みんなから疎まれている叔父、また、保之助の養子先の藤代家の、人が好いのは結構だが職場でも家庭でもいていなくてもいい人として軽んじられ、その境遇に甘んじて飄々とつつがなく人生を送っていければ満足というようすの義父。

武家の多くが貧乏で、倹約をしなければならなかったのは事実だが、そのなかでもとりわけ厳しく神経質なまでに倹約して何の楽しみも潤いも余裕もなくただ倹約のための倹約をしている……、いや、実際に、そうであるかもしれないし、あるいは、倹約を強いられる家族にはとりわけそう見えるのかもしれない。

そういう倹約と吝嗇とその反動の浪費の例は、山本周五郎が生きていた時代にもあり、また、私の子供時代にも、似たような例を、見聞きした。

>「いやだね」信二郎は盃を取った。「以前ならともかく、こんな恰好を見られるのはまっぴらだ」
>「だって寝言に名を呼ぶくらい案じているんだぜ」
>そう云われたとたんに、信二郎は酒を飲みそこねて激しく噎せた。

この会話だけでも、青山信二郎と保之助とその子の性格がわかっておもしろい。その子は、信二郎が指摘したとおり、初めは、その無邪気さゆえに、世間の常識や道徳を軽々と乗り越えて魅力的だった。しかし、彼女の心に、信二郎への怨みが芽生えてからは、残酷な毒婦に変貌している。彼女は、愛する男が、彼女への愛よりも友情を優先しているように見えたことが、許せなかったのだ。

彼ら三人を中心とする話だけならば現代小説でもよいが、信二郎と保之助が巻き込まれる、開明的であるがゆえに理解されず憎まれ中傷される老政治家の悲壮な負け戦を描くために、田沼時代をもってきた。「田沼の」悪政に苦しむ庶民の呻吟と怨嗟と抵抗と破滅、または、サバイバルの種々相が、手に汗握る事件の連続によって生き生きと語られていく。ことに「田舎小僧」の話は切なく、彼を主人公としたピカレスクロマンもあったらいいのに、と思う。

『栄花物語』は、田沼時代であるとともに、たぶん、1920年代~40年代の日本でもあった、といえるだろう。その当時の言葉遣いで、江戸の街並みと情緒をみごとに再現し、人々の哀歓、弱さとたくましさとを描いている。

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紙の本

山本周五郎らしい作品。

2002/08/01 00:00

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:凛珠 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 私は山本周五郎ファンを気取っているくせに、まだ『樅の木は残った』を読んでいない。だが、本書は悪徳政治家の代名詞のような田沼意次を先見の明のある政治家として評価している点が、いかにも山本周五郎らしいと思った。今でこそ田沼意次は評価されつつあるようだが、昔はもっと酷い扱いだったろう。私はあまり詳しくないが、悪と言われた反動で極端に善に片寄ってしまうのも危険だとは思う。また、哀しいが私は、歴史に名を残すほどの立場にいた人で、全面的に評価できる人間など皆無に近いと思っている。
 山本周五郎は、例えば義賊とか英雄とか渡世人とかを美化して書いていない。終生「やくざ者はやくざ者、義賊などは存在しない」という姿勢を変えなかったという。山本周五郎作品が人々の心情を綴りながらも単なる娯楽的な人情物になっていないのは、この姿勢ゆえだと思う。この姿勢が、人を山本周五郎はへそ曲がりだというように誤解させたかもしれないが、真実はそうではないのだ。
 この作品では、不良旗本で戯作者の青山信二郎を中心に、様々な人々が織り成されて物語が進み、田沼の失脚とともに幕を閉じる。丁度田沼の「時代」を描いたようだ。人々のドラマはそれぞれ興味深く、田沼の妾のお滝が自分の身体をさわってくる男に対して、私を触ればお前自身が穢れるのだ、と言った台詞が印象的だった。全くその通りで、自分で自分の存在を貶めることになるのだ。
 田沼の失脚と重なるように、人々の人生もまた悲劇を辿る。それはそのまま「田沼時代」であった。

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