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みんなのレビュー36件

みんなの評価3.8

評価内訳

4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本

静寂。

2005/01/14 04:14

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る

レイモンド・チャンドラーの小説が優れている点のひとつは、その余韻の静かな味わいにある。どの小説を読んでも、余韻の静けさをあなたまかせにしてしまうことなく、丹念に、それでいて押し付けがましくない「おわり」を書き込んでくれている。物語が終れば、事件が解決すればそこで終りというわけではないということを、彼はとてもよく理解していて、そういうことをあまりよく理解していないように思える人々の思いや行動が世界を息苦しい場所にしてしまっていることを、やさしく語りかけてくれる。

「強くなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」というフィリップ・マーロウの有名な台詞も、そんな静かな余韻のなかで語られる。

“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive.
If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”

「おわり」の「おわり」。レイモンド・チャンドラーの遺作『プレイバック』には、他の作品にはない息苦しさがある。終らせることの困難に真っ向から挑んでいるような、息苦しさが全編に漂っている。世界の息苦しさが、チャンドラー自身にまとわりついて離れない、そんな印象さえある。死の予感さえあるのかもしれない。

「私ほどの歳になると、楽しみはほんのわずかしかない。はちどりとか、ストレリチアの花のふしぎな開きかたとかいったようなものだけだ。なぜ一定の時期になると、つぼみが直角に向きを変えるのだろう。なぜつぼみが徐々に裂けて、花がいつも一定の順序で開き、まだ開いていないつぼみのとがったかたちが小鳥のくちばしのように見え、ブルーとオレンジの花弁が極楽鳥のように見えるのだろう。神さまはどんなにかんたんにもつくれたはずなのに、なぜこんなに複雑につくったのだろう。神は万能なのだろうか。万能といえるのだろうか。世の中には苦しみが多く、しかも、多くの場合、なにも罪のないものが苦しんでいる。母うさぎがいたちに追いつめられると、子うさぎを背中にかくして、みずからののどを咬みきられるのはなぜだろう。なぜそんなことが行なわれるのだろう。二週間もたてば、母うさぎは子うさぎを見わけることもできなくなるのだ。君は神を信じているかね」

ホテルのロビーで、ヘンリー・クラレンドン四世とかいう老人がマーロウに語りかける。事件とは無関係な長い長い与太話。マーロウは「ながい廻り道だが、どうしてもこの道を通らなければならないようだった」とひとりごちる。一読者としては、まったく退屈ではない。

クラレンドン四世は長い与太話に終止符を打つようにして、おだやかに言う。「私はいつも際限なくおしゃべりをするが、自分の声が聞きたくておしゃべりをしているのではない。だいいち、みんなの耳に聞こえるようには聞こえない。なにかしゃべっていると、礼儀を失しないで人を観察することができるのだ」……「私は握手をしないよ」……「わたしの手はみにくくて、いたいたしい。だから、手袋をはめているのだ。おやすみ。もうお目にかかれなかったら、幸運をいのる」

まだ事件は終っていない。そして(しかし)すでに静かな余韻が漂い始めている。というか、260頁あまりの小説の四分の三を終えたばかりだというのに、静かな余韻にどっぷりと浸り込んでしまっている感じさえする。マーロウは自分に言い聞かせる。「ヘンリー・クラレンドン氏はなかなか抜け目のない人物である」と。

そんなわけで、やはり『プレイバック』はとても素敵な、とてもチャンドラーらしい小説だと思います。僕は一番好きです。もしかすると『長いお別れ』より好きかもしれないぐらいに。

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紙の本

闇のなかのただの足音さ

2015/11/22 09:27

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:saihikarunogo - この投稿者のレビュー一覧を見る

>誰だというのかね。誰でもないよ。闇のなかのただの足音さ。

『プレイバック』のなかで、一番、私の印象に残った一節だ。
 訳者の清水俊二は、あとがきで、『プレイバック』はフィリップ・マーロウものの長編小説群のなかで一番短く、異色で、謎が多いと指摘し、そもそも、タイトルがなぜ『プレイバック』なのかということからして謎である、としている。私も同感である。
 この小説は、その内容よりも作者よりも、次の「名文句」が有名ではないだろうか。

「男は、タフでなければ生きられない。優しくなければ、生きる資格がない」

 出典を知る前から、この「名文句」だけを、テレビや新聞などで、私も覚えていた。
 1988年に亡くなった清水俊二氏は、この「名文句」をどう思っていただろう。
 この「名文句」は、一晩一緒に過ごした彼女を、別の男のところに送っていくときの会話に出てくる。清水俊二訳の『プレイバック』では、次のようになっている。

>「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」と、彼女は信じられないように訊ねた。
>「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない」

 私が思うに、「男は、……」のほうは、男らしい男たるものはかくあるべし、と述べている。
 一方、清水訳の「しっかりしていなかったら、……」のほうは、余人は知らずこの私フィリップ・マーロウは、これこれこういう人間で、これ以外の生き方はできない、と述べているように思う。
 この一節の前半は、やくざや警察と渡り合う探偵稼業一般の事実だ。後半は、マーロウが、やれやれ、それで一文の得にもならないどころか損することさえあるけれど、やめられないし、やめたら自分でなくなってしまうんだよ、と言っているように思えるのである。
 マーロウの「やさしさ」は、たとえば、次のようなものである。
 村上春樹訳だが『大いなる眠り』では、下半身不随で温室かベッドでしか過ごせない老人のために、たばこの煙を吹きかけてあげた。

>私は腰を下ろし、無意識に煙草を探りかけてやめた。老人はその仕草を目にとめ、微かな笑みを浮かべた。
>「吸ってかまわんよ。煙草の匂いは好きだ」
>私は煙草に火をつけ、煙を思い切り老人に吐きかけた。彼は野ネズミの巣穴を前にしたテリアのようにくんくんと匂いを嗅いだ。微かな笑みが口の両端の影になった部分にまで広がった。

 この老人を安らかに「大いなる眠り」につかせるために、マーロウは依頼された内容以上の仕事をした。そして、こんな述懐をする。

>どんな汚れた死に方をしようが、どんな汚れたところに倒れようが、知ったことではない。この私はといえば、今ではその汚れの一部となっている。……(中略)……しかしあの老人がそうなる必要はない。

 清水俊二訳『高い窓』では、高い窓のある部屋で為された犯罪にとらわれていた娘を救い出した。これも依頼の内容とかけ離れたことだ。十日間、街を離れて、彼女の故郷の両親の家に送り届けた帰りに、こんなことを思う。

>自分が詩を書き、とてもよく書けたのにそれをなくして、二度とそれを思い出せないような感じだった。

 そしてもちろん、酔っぱらって妻の車から放り出されたテリー・レノックスを拾い上げたことから、『長いお別れ』が始まったのだった。

>私はドアがしまるのをじっと見つめた。模造大理石の廊下を歩いて行く足音に耳をかたむけた。やがて、足音がかすかになり、ついに聞こえなくなった。私はそれでも、耳をかたむけていた。なんのためだったろう。

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紙の本

「男はタフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」書評ではありませんがこの誰もが知っている名セリフについて、なにげなくBK1で引用してしまった僕からいいわけをひと言

2005/12/16 10:05

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

女にモテる男を象徴する名セリフです。カッコイイ!!!これはレイモンド・チャンドラー『プレイバック』にある私立探偵マーロウのセリフだと、いつごろからか僕の頭にインプットされ、なにかと便利に使用しておりました。
だからこのBK1の書評欄でチャンドラー『長いお別れ』を投稿した際にもついつい引用してしまったのですが、実はとんでもない誤解だったのです。そこでお詫びかたがた本当のところを紹介させていただきます。
『プレイバック』を昭和30年代に初めて翻訳した清水俊二は次のように表現しています。
「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きていく資格がない」
原文はこうなっています。
“If I wasn’t hard、 I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle、 I wouldn’t deserve to be alive.”
『プレイバック』ではマーロウが「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなに優しくなれるの?」と女に訊ねられて「わたしは」としてこのようにこたえるのであって、あの名セリフのように「男は」と一般論として表現されているのじゃあない。
だが男の魅力としては「タフ」のほうが「しっかり」よりふさわしいではないか。清水俊二訳よりはるかにインパクトがある。「しっかり」では教育的見地からお小言を言われているイメージですよ。
そして僕は一般論として表現したこの名訳を丸谷才一がどこかで取り上げていた記憶からてっきりこの才人の手になるものだろうとエッセー集を何冊も調べてみるハメになりました。
そもそも昭和37年に丸谷才一は「チャンドラー論」で清水俊二訳のこのセリフを取り上げた。それが反響を呼んだ。先生は16年を経て昭和53年「週刊朝日」でこの反響を次のように述べている。
「念のため断っておくが、当時はチャンドラー論なんてアメリカにもなかったし、従ってその手のものを私は参考にしてゐない。全部自分で考へたのである。このマーローの台詞も、わたしが名せりふだと指摘する前は別に大向こうをうならせてはゐなかったもので、つまり誰も注目していなかった」
「が、わたしのこの文章によってマーローのこの台詞はたちまち名声を確立した」「なるほどイカす、と感心して、いろんな人がこれを引用した」
ところがどっこい、上には上がいるもんだ。
昭和53年のある日、突然「男はタフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」と空前のキャッチコピーが全国を駆けめぐったのです。
丸谷先生は怒った。
なんと「森村誠一原作の角川映画『野生の証明』の宣伝に使はれ、しかもこの台詞の原作者がチャンドラーであることも、チャンドラーがこれを言はせたのがマーローであることも断ってゐない」「角川映画の関係者なんていふ、チャンドラーなんか一ぺんも読んだことのない人たちの耳にまではいってしまって、心に焼き付き、その結果、今度のやうなことになったのだらうと思ふ」なんておっしゃられている。
しかし、あの当時の角川春樹というのはすごい商才だったんですね。ホリエモン並みでした。映画屋じゃあない身分で、たいした内容のない作品に膨大な制作費と宣伝でもってあれだけの観客を動員したのですから。映画を媒介にして、流行語を創造し、音楽と歌で主題歌をヒットさせる。新人のスターをつくる。それまでの文庫本といえば文化の香がする岩波文庫的存在だったイメージを一変させ、文庫本をもっぱらエンタテインメントのベストセラーに仕上げる。メディアミックスのはしりでした。
丸谷先生の胸のすく皮肉も既成の文化的秩序を破壊するこの勢いの前にはごまめの歯ぎしりでしかなかったんでしょう。

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紙の本

あの台詞!

2003/06/05 00:01

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:遊撃 - この投稿者のレビュー一覧を見る

あの有名な台詞がでてくるお話だ、というので、一度読んでみなければなりますまい、という感じで読みました。でてきました。覚えてたあの台詞とは訳し方が違ったので少し感じが違いましたが、いや、カッコ良かった。

チャンドラーに関しては耳年増、というか、リアルタイムで読んでいるハードボイルド系に対して、「チャンドラーの系譜」や「フィリップ・マーロウの正統なる後継者」とかの賛辞が冠されてるのから逆算して、たぶんこんな感じ?とゆう薄弱な世界観しか持ち合わせていなかったせいか、思ってたより薄いのね、マーロウ。なんか顔とかはっきりしない「かっこいいオトコ」のイデア的なものが拳銃を持って歩いてる感じ? でもそれがまた、こっちの勝手な「かっこいい」イメージをおっかぶせやすくて良かったりもするんですが。

ただ、イキナリこれを読んだせいか、このお話については、予備知識がない分自由に読めたかなあと。というのも、訳者の方が、わからないと言っておられる「プレイバック」というタイトルの意味が、まああくまで自分なりになんでしょうけれど、え、コレじゃなくて? とあっさりストンと納得がいってしまったのです。

それも、たぶん、本筋に関係がないので(たしかに関係ないし)どうして登場してこういう話をするのかわからない、と評されてる(笑)クラレンドンというおじいちゃんの台詞を読んでて、あーそうなのかなと思ったのですが。
たしかにこのおじいちゃんは突然現れて自分の人生観とか宗教観みたいなものを長々と語るので、なんなんじゃい、という感じはたいへんにするんですけれども、その中で、「いつか自分は、人生で繰り返されないただ1つのこと(=死)をする」というような内容のことを言うのですよね、うろおぼえですが。
そのあとですぐ神さまの話だかなんだかになって、世の中がうまくいかないことがあるのは、創った日に神さまが調子が悪かったからだ、とか思いきった仮説を述べるのですが。

このお話には、過去に何やらあって、それを帳消しにしたくて、これからもう一度やり直したい、という状況に立ってる人物が、私の数え方では三人、出てくるように思うのですが、そのやり直そうとする先も、やっぱ人生はいろいろ大変そうでフクザツそうで、その「やり直し」っていうのも、すごく大局的には、神さまが、あー、ここ上手くいかなかったんだよね、つって「再生」ボタンを押して、失敗したその同じ音楽を聞き返してるのと、同じくらいの意味しかないのかもしれない、ということ。
人生では、終えて来たことの繰り返しでないことは、死ぬことくらいしかないんじゃないの、みたいな、感じの、「再生」、プレイバック。

でももちろん、それは神さまがいるとすればそうかもしんないけど、みたいなちょっと斜に構えての立場というかで、人間にとってはそうじゃくて、大局的じゃないその再生ごとのちょっとの差が重要なこともあるかもしれないし、わかんないじゃない、みたいなところを、最終的なメッセージとして自分的には読みました。だから、あえて、あのラストの一文になるんじゃないかと。マーロウ。

それにしても1つ確かなのは、「プレイバック」は、最後だったということです。これから読もうとしている方は気をつけてください。
「プレイバック」は、最後です。あっ「遺作」って裏に書いてあるじゃん。だめじゃん自分。

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