紙の本
「思想」に根ざした経済学
2002/06/23 20:48
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ケインズは『一般理論』の最後に「危険なものは、既得権益ではなく思想である」と書いた(らしい)。中沢新一は『緑の資本論』で千年、あるいは一万年単位の人類の「思想」に根ざす経済システムを論じたが、神野直彦は重工業から情報・知識への百年単位の産業構造のシフトを踏まえた経済の転換を説く。著者は本書を次の言葉で締めくくっている(それもまた一つの「思想」だ)。《未来をあきらめてはならない。人間は未来を構想し、創造することができる。(中略)そうした未来を創造するには、人間が個人として知恵を出すよりも、協力して知恵を出しあったほうが実現性が高いに決まっている。人間が協力して知恵をしぼれば、未来を創造できるはずである。》——著者は宇沢弘文との共著を準備中だという。本書にも出てくる欧州のサスティナブル・シティの話は、その研究の一環である。
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雑感
この前読み終わった。
○人間回復の経済学 神野直彦著 岩波新書
以下雑感。
単なるブームという可能性はあるのだろうか。(あるのか無いのかを管理人は知らないわけだが)
80年代だったろうか、日本型経営が非常に賞賛されて「輸出する価値がある」などと言われていた時期があったと聞いたことがある。
同じような感じで今は「スウェーデンに学べ」ということになっているだけということはありえないのか。
とはいえ、倫理面からのアプローチは好きだ。ユートピアだ、という指摘も聞こえてきそうな気もするが(つまり現実性が無い)、
いや、しかし倫理面からの接近はどんな経済理論よりも勝るものがあると思うのが。
根底に必ず倫理的なものが無いとだめだと思うわけです。(当たり前だったか・・・。)
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ケインズ型福祉国家の行き詰まりを指摘して、シュムペーター型「ワークフェア」国家を提唱。スウェーデンとは人口規模も全く違うこの国で、「知識集約型産業」立国はどれだけ現実的になるか。
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10年以上前から言われていた少子高齢化社会となる将来の日本をどのような形にしていくのかを新古典派の経済学理論やケインズ経済学を否定し、知識社会の到来にあわせてどのように社会と経済に対する人々の姿勢をとるべきかを、スウェーデンでの取り組みを混ぜ込みながら紹介しています。現代経済の根幹を成しているともいえる新古典派経済学の理論を、経済学者がまっこうから否定しているという点で希有な書物と言えそうです。
著者の論点にはつよく同調できる所が多く、読みながら「日本人の多くがそうおもっているはずなのにこんなにも買われないのは何故なのかな?」と不思議に思えてしまうところも多いのです。ホモ・サピエンス(知恵のある人)と称される私たち人間が、自分たちの手で生み出した経済学からなぜ「見えざる手」という言葉で価値・価格・需給バランスが人の手を離れたところで決められるという発想にいきつくのか?人間の生み出したものだし、市場に参画しているのは人間自身であるということは分かってもそれをコントロールできないこのもどかしさは何故なのか?
経済学の原論に触れたことのある人ならば、著者である神野直彦・東大教授の指摘は「確かそうかも…」って思えるポイントが多いのですが、どうすればこうした現代の日本社会を根幹から変えるか?というところへの著者なりの行動計画は示されていません。それだけの大転換が必要だということは十分認識できますし、そこにたどり作るためのグラウンドプランを示している政党や政治家も見当たらないのも分かります。
著者は小泉改革に反対する立場にたっているようにも見えます。本書が発行されたのが2002年ですから、劇場型政治によっては国民が本質を見抜く努力を、かれの単純で伝わりやすいメッセージ性が削いでしまった時に、その将来どうなるかを見通していたような内容の本は2002年に出されていたというポイントは押さえておくべきだと思います。発刊から6年を経て、金融危機という新たな経済に関わる問題が浮上し、世界はその対応に追われている中での、人間本意の経済学の確立というところはなかなか見えてきません。
特に、家父長制の二次的影響ともいえる名残からか、長時間労働が英雄視される傾向がまだ企業に残る一方で、核家族化した家庭を担う中年世代は育児と介護も同時にこなすような時代になりつつあるなかで、日本人の「労働」観そのものを転換する必要もあるのではないか?とも思えます。その労働観の転換が何によってなし得るのかを知りたいとこの本を読み終わった後の私はそう思えるようになりました。問題を深く知るためにステップを一つあがれたと思える、そんな読了感の持てる本です。
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経済学者なのに、牧師さんのような神野先生の講演会、忘れられません^^
内容も、タイトルからすると難しそうに感じますが、
中身は私たちの生活に密着していて、とても読みやすいです。
これからの社会を担う人材育成をしている親として、読んでおきたい1冊。
そういう意味で、「育児書」♪
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日本の歴史を省みない政策により日本の危うさが語られている。
印象が強かったのは対照的に取り上げられた知識社会を実現するスウェーデンについて。
例えばカルマー工場は流れ作業ではなくチームで一つのものを作り上げる。これにより「何を」作っているのかを意識でき担うことができる。これは本著の中で語られたマズローの欲求の目的を持つことをうまく充足させた考え方であるといえる。
また、学習サークルも魅力的だ。参加者の意思によって幅広い学習プログラムを受けることができる。参加は有料だが5人以上など一定の条件をクリアすれば補助金も受けられる。
日本に対して厳しい目を向けていると思いきや結びには励ましの言葉を綴っている。確かに悲観的な見方ばかりでは社会の成長は滞おる。しかし2002年にかかれたこの本の日本への指摘は現在でも当てはまりむしろ悪化の一途を辿っている気がしてならない。不安を覚えつつも自分たちが何ができるかについて考えさせられた。
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小泉政権時代のきわめて強権的な構造改革が行われていた時期に、その改革に異を唱え、衰退していくばかりの日本が進むべき方向を示した本。
著者によれば、サッチャリズムに始まる新自由主義は、19世紀に起こった構造改革の根底に流れていた自由主義思想とは、似て非なるものであったという。
古典派経済学に基づく自由主義思想は、それまでの中央集権・私的国家からの脱却であり、言うなれば国家の民主化を進め、市場を開放することにその本質があった。ところが新自由主義思想は、第2次大戦後、そろって福祉国家を目指した大国が経済的に行き詰ったところで打ち出した、市場の創成を目的とした思想であった。結果、所得の低い者ほど租税負担率が高くなる構造を生み、人頭税を導入したところでサッチャーは指導者の立場を追われる。こうした不幸な過ちを、米国、日本は先例に忠実に再現しようとしているのである。
著者の主張に目を向けると、人間を「経済人」としてとらえる古典派経済学、旧来の「遠い政府」による所得再分配を行うケインズ的福祉国家を見直すべきであるとする。人間は「知恵のある人」であり、人間的な生活のために経済活動を行うべきであって、所得の再配分は自治体の責任において行う(なお足りない分については中央政府がその責を負う)という社会の構造を目指すべきとしている。
モデルとしてスウェーデンでの教育制度、福祉制度等に触れられており、かの国の社会を、国民の知識の向上を国を挙げて行う社会という意味で「知識社会」と名付け、これこそ目指すべき社会であると説く。
ただし、国土面積こそ広くはあるが人口も経済規模もまったくことなり、また国の成り立ちや意識(特に国防に対する)が大きくことなっている日本において、類似の改革ができるかと考えるとやはり疑問符が付く。とにかく現在の日本は、地方が疲弊している。福祉を「参加型」のものにすると言って地方自治体の責任の下で大規模な福祉政策を進めることはかなり難しくなってしまったのが現実だろう。市場原理の闇は根が深く、すでに日本経済の深部まで侵されてしまった。私自身、地方の出身だが、地元に帰るたびにさびしくなる街並みには毎度驚きと悲しみを覚える。しかし、その地域に住む人は、すでに新しい経済構造に順応しているのだ。この現実はどう打開できるのであろうか。老人や障害を持つ人は郊外の大型ショッピングモールに一人で買い物に行くことが困難なのである。
どうしても大学者の崇高な理論を語られている感がぬぐえないまま、読み終わってしまった。本書の締めくくりは非常に甘美な結論となっているのだが、途中の説明も概念的な部分が多く、門外漢である私にはやや難しく感じられたことが、さらに著者との距離を感じることにつながったようにも思える。
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[ 内容 ]
好況時は過重労働、不況時はリストラ。
私たちはまるで経済に従属して生きているかのようだ。
これは本来の姿なのか?
現在の閉塞状況は「構造改革」で打開できるのか?
いまこそ人間に従属する経済システムをつくる絶好の機会であり、それが閉塞打破のカギにもなる。
社会、政治、経済の三者のあるべき形を提案する、斬新な経済社会論。
[ 目次 ]
1 経済のための人間か、人間のための経済か
2 「失われた一〇年」の悲劇
3 行きづまったケインズ的福祉国家
4 エポックから脱出できるのか
5 ワークフェア国家へ
6 経済の論理から人間の論理へ
7 人間のための未来をつくる
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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・新自由主義的な発想に基づく日本の構造改革は人間的な能力を必要としない職務を増加させることによって、コストを低下させる改革である。
・ケインズ的福祉国家は、現金給付による所得再分配で社会的セーフティネットを張り、公共事業を実施して需要サイドから経済システムに介入するものだが、もう時代にそぐわなくなっている。知識資本を蓄積して、イノベーションを巻き起こす、供給サイドからの経済システムへの介入が必要となる。
などと偉そうに述べているが、考察が希薄で説得力がまったくない。
人間回復、人間同士に絆などの美辞麗句を随所に挟んで議論をごまかしているだけのように思われる。
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読み終わりました。
読みやすい方だと思います。
10年位前に書かれた本だから、今はどう考えていらっしゃるのかしら~?なんて思いがわきました。
スウェーデンの政策について、今は?というのも気になりました。
知識社会ということを改めて考えさせられる内容でした。
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日本社会事業大学現学長である著者がバブル崩壊前後の日本経済施策をバッサリと切り捨てる。20年近く前の論旨が今の状況にも当て嵌まってしまっていることを実感せずにはいられない。
「財政民主主義といわれるように、財政は民主主義にもとづいて運営されなければならない。「主」とは支配する者を意味する。民主主義とは民つまり統治される者が、主つまり支配する者になることを意味する。」
「知識社会における生産性の向上には、二つの要素が重要になることがわかる。ひとつは、個人的な知的能力である。もうひとつは、知識を自由に与えあう人間のきずなである。前者の個人的能力と、後者の人間のきずなをあわせて「知識資本」と呼ぶと、知識社会では知識資本の蓄積が生産を決定することになる。」
「自由時間とは本来、人間が人間としての幸福を味わう時間である。人間とふれあい、愛しあい、学びあい、ともに遊ぶ、それによって人間の文化的豊かさを体験しつつ、人間としての力を発揮して人間の文化を創造する時間である。」