紙の本
卓見を随所にちりばめた絶望の書
2006/05/08 10:38
21人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
装丁を新たにした岩波新書の第一弾として刊行された書物である。あとがきには、2001年以降の自分の仕事を分かりやすくまとめたものだ、と書かれている。
最初に私事を記すことをお許しいただきたい。私は柄谷が評論家としてデビューした頃からその活動をずっと追ってきたが、2000年の『可能なるコミュニズム』『原理NAM』『倫理21』を最後に読むのをやめている。だから岩波の著作集には目を通していない。最近『近代文学の終り』を読んだ感想はこのBK1の書評に記したとおりである。
なぜ読むのをやめたかというと、あくまで「国家」を敵視し、「可能な」コミュニズムを追求する柄谷の姿勢に違和感を禁じ得なくなったからだ。一定の抽象性を保った議論としてなら面白いが、現実と接点を持つ活動や政治的提唱となると首を横に振りたくなる。当時の柄谷はNAMなどの具体的な活動に熱中していた。そして(言うまでもなくと言いたいが)見事に失敗したのである。
さて、この『世界共和国へ』である。タイトルや副題だけ見て目を背ける保守派の方々には、先入観を持たずに読んでごらんなさいと薦めたい。逆に、確固たる新しい展望が提示されているのではと期待する左派の方々には、心を引き締めて読むよう助言したい。
なぜなら、これは大いなる絶望の書であるからだ。2000年段階での柄谷は、生活協同組合にコミュニズムの可能性を見いだそうとしていたし、「国家」の廃棄をあくまで執拗に追い求めていた。しかし本書ではそうしたスタンスに少なからぬ変化が見られる。
まず、生活協同組合によるコミュニズムの可能性は明快に否定されている。プルードンによって提唱されマルクスによっても受け継がれたこの思想は、そもそも産業がマニュファクチュア段階にあった時分に考えられたもので、その後の高度な資本主義段階にあっては協同組合は私企業に太刀打ちできなくなる。柄谷は言及していないが、これは戦後日本の生活協同組合の歩みを見ても分かることで、現在大学などに残っている生活協同組合は一般のスーパーに限りなく近づいているし、100円ショップなどの進出によりその存在基盤を脅かされている状態なのである。
また、「国家」の廃棄にしても、柄谷はそうした方向性を捨ててはいないが、実現は容易ではないという認識に到達している。それはロシアや中国、その他途上国で実現した革命を見ても分かるとおり、社会主義は国家廃棄につながるどころか、むしろ逆に国家を強化するものでしかないからだ。また、地球のグローバル化によって国境が解消されていくのでは、とする近年の「帝国による国民国家の解消」説をも明快に否定し、かつてナポレオンの帝国主義が他民族の国民国家形成をむしろ促したという事実などをふまえて、国家が他国家との関係において存在するものである以上、経済が国家を解体することはあり得ない、と断じる。その際に、B・アンダーソンの言う「想像の共同体としての国民国家」説を援用し、「想像」に積極的な近代的価値観を見て、単に国民国家をフィクションとしておとしめる見方を斥けているのも注目される。
その他、我々が漠然と抱いている歴史観を転倒させるような卓見が随所にちりばめられていて、いわば柄谷らしさがよく出た本であると言えよう。
私はこの本が絶望の書であると述べた。柄谷は最後に日本国憲法第9条と国連を引き合いに出して、この方法によるしか国家揚棄の道はないととってつけたように書いているのだが、私は残念ながら同意しかねる。ただし、カントを引用しつつ、国家並立による戦争や大規模資本主義による環境破壊を防ぐために、「一つの世界共和国という積極的理念」ではなく「持続しながら絶えず拡大する連合という消極的な代替物」に希望を見いだそうという箇所には、共感できると言いたい。
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新たな国家論?今、カントの理想を蘇生させる世界共和国建設へ
2006/08/08 07:31
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:黄河 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は、マルクス主義の理念と社会主義国建設の失敗という経験とを踏まえて、資本主義体制での国家の「楊棄」(止揚)をいかに実現させるかのテーゼといえる。
著者は、「各国が主権を放棄することにより形成される世界共和国」により実現されるとし、カントの「世界共和国」理念を現在の時代に再生させようとしている。
最初に著者は、下部構造の「生産様式」をより空間的な「交換様式」という新たな観点を提起し、「資本=ネーション=国家」という概念を使ってマルクスの史的唯物論を組みなおしている。このためにマルクスの『資本論』の引用が多用されている。このより空間的な「交換様式」は「国家」概念の一国から多国間への観点への導入ともなっていて本書の中心テーマである。
著者はマルクス主義での問題点として「国家を、文学や哲学その他と同じようなものであるかのように『上部構造』においたことです」と断定したところから論を展開している。「国家の自立性を無視し」「国家が資本主義経済とは別の源泉に由来することをみない」ため「経済的な階級対立が揚棄されるならば上部構造である国家は自然に消滅する」としたことは誤りであったと論じ何度も触れている。
この論拠はたとえ一国で社会主義革命が成功としても他国の干渉により社会主義国家はさらに国家を強固にしていかざるをえず、死滅とは逆方向の道を進むという、歴史的事実から導かれている。この教訓も他国の存在を前提とする「国家の自立性」論の正しさを明らかにしているとしている。
しかし、社会主義革命後の国家について「他国の存在」を前提にするだけで、「国家を内部からみる」ことに否定的である著者の見方はやはり国家について理解は十分とはいいがたいと思う。それは著者がマルクス主義理論では社会主義国になれば「簡単に国家は死滅する」との安易な思い込みを持っているように思えるからだ。はたして現代のマルクス主義はそんな地平に止まっているだろうか。たとえば毛沢東は社会主義国家建設後の国内での資本主義復活の可能性を指摘し、これをかなり重視し継続革命の必要性を提起した。これは機械的唯物史観では出てこない発想である。生産様式が社会主義になれば資本主義の発生はありえないことになる。著者はこの機械的唯物史観にまだ捕らわれているようである。資本主義以前の経済構造の分析では弁証法的方法で重層的に把握されているのに残念である。
このような国家にたいする見方をふまえて、世界共和国を長い射程で目指す理念を提起している。しかし、その実現は各国による国家主権の放棄が前提になっている。
著者によれば国家とは他国の存在がある限りなくならない、したがって世界各国が主権を放棄すれば国家そのものが必要ないものとなる、その場は質的転換した国連である、としている。これはあまりにも楽観的想像力としかいいようがないのではないだろうか。レーニンが提起したように「国家は自らその国家権力は放棄しない」が真実と思う。
また著者のような機械的唯物論からの見方をすれば資本主義生産様式(交換様式)に変わる世界共和国建設を可能にする生産様式が準備されなくてはならない。それがアソシエーション(社会主義的共同体)としても、その構築できる萌芽なりがあるのだろうか。これについては理念だけで具象化されていない。
ただ現代資本主義において労働者は消費者でもあるという観点からの示唆は「下からの」新しい運動を想像させてくれる。
著者は「あとがき」で「普通の読者」に読んで理解できるものにしたいと述べているが、『文学界』8月号でのインタビューでは、その読者とは官僚やビジネスマンを想定していると語っている。国家の実体は軍隊と官僚であり、国家主権の放棄を希望する著者の子供らしさが感じられ微笑まえずにはいられなかった。
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世界共和国建設に必要なもの
2007/11/29 23:17
8人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:読み人 - この投稿者のレビュー一覧を見る
柄谷行人は、批評家、評論家の論壇でよく耳にする名前です。
全然詳しく知らないのですが、読んでみました。
ちなみに、「新書365冊」には、この本、本文中には載っていませんでしたが、
話題の一冊だったみたいで、巻末のインタビューでイの一番で編者が
宮崎哲弥に尋ねていました。
現在、本書の副題のとおりネットや、その他交通手段、輸送技術、情報のやり取り、
資本の移動で、国家の枠をこえて色んなものが行き来しています。
つまりもう、世界共和国が出来ていると定義づけてもいいのですが、
人間は、社会運営の組織として、中間的共同体として、依然、国というものを
保持しています。(正に、保持って感じでしょ)
で、その国という概念をこえて、
世界共和国を作り上げるには、本当に必要なもの、必要な要素は、
なにかを、著者お得意の(←多分)マルクス、カントの著作から
紐解き、共同体運営の歴史なんかも合わせて、書かれています。
実は、本書、読めば読むほど、
人間、国家を維持しながら、もう現実的には、世界共和国を
獲得しているように思えてしかたありません。
又、こう思う、もう一つの理由として、
カント、マルクスなんかの著作から導き出している
世界共和国への必須の各種要素ですが、
実際、世界共和国建設に向けては、どうすれば、よいか
具体的なことは、書かれていないので、余計にこう、思ってしまいます。
理想論としての世界共和国は勿論けっこうなことなのですが、
実は、前にもこのブログで何度か書いたのですが、
SFで描かれる未来社会、生きる上での未来共同体でも
もう国という単位は、捨てられています。
しかし、アイデンティティというものは、人間どうしても捨てられないようで
宗教、部族、民族、会社、地位的利益共同体、なんかは
捨てられず、小さく固まって生きているというのが、描かれています。
県の財政を立て直した、田中元知事が選挙で負けたり、
この辺は、人間の度し難さかもしれませんね。
紙の本
読み進めるのに苦労した
2017/10/01 20:44
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
難解である。あとがきによると普通の読者が読んで理解できるようなものにしたいといことで、それまで書いていたことをコンパクトにわかりやすくまとめたものだそうである。それでも読み進めるのに苦労した。なんとなく言いたいことはわかったという感じである。
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戦争を超えるための方法が、すごくシンプルにわかりやすく書かれている。日本の憲法9条の重要性を改めて認識させてくれる名著。
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今年のベスト候補だな、こりゃ。すんげー分かりやすい。だけど、これって真面目に勉強している学生にとって大部分は普通に知っていることだったりして。一応、資本主義の自由と国家社会主義や共産主義の平等の両立を目指すアソシエーショニズムについて書いた本。mixiで長く書いたから説明は以上で終わり。思想的にはマルクス(実践で失敗)とカントが正解らしい。んで、9条護持と。他のいろんな人の考えがどうダメか、っていうのを順に説明していくのが面白い。分かりやすい。あんまり引っかかる部分がなかったんだけど、無学な俺はこれを鵜呑みにしていいかどうかが分からん。ただ理想でそこに目標を持つべきってのは分かるんだけど、日本の国益追求のほうがそれが身勝手でも、俺にとって支持したい姿勢になるということはありうると思うんだが。
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新聞で紹介されていたから読んでみたけど、よくわからなかった。そもそもなんで「世界共和国」を目指さなきゃいけないの?なんでネーションだけ、カタカナ??国民じゃダメなの??これ理解できる人って優秀な人だと思いました。僕がバカなだけかっ(爆)
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柄谷行人が久しぶりに新著を出したと思ったら、岩波の新書版。しかも中を見ると「ですます」調。そんな人ではなかったはずでは...
2001年の『トランスクリティーク』でまとめられた内容から基本的には進展はありません。なるほどあとがきで書いているように「『トランスクリティーク』は専門的すぎたので、普通の読者に理解できるものにしたい」 ということで書いたらしいので、それでいいのかもしれない。ただ、「普通の読者」をどのあたりに置いていたのかどうか不明ですが、その意図が成功したのかどうかは怪しいところです。まさか、ですます調にすると簡単に見えると思ったわけでないでしょうが、内容が変わっているわけではないので、逆に論理が飛んでいるように感じたところもあります。例えば、中心理念となっている「資本=ネーション=ステート」は、最重要概念だだけに最初にもう少し言葉を費やす必要があるのではと感じられます。まあ薄くなって、安くなったのは「普通の読者」が手に取りやすくなったのは確かかもしれません。
また『トランスクリティーク』で提案され、NAMで実践に移された、「権力のくじ引き制」と「LETS (地域通貨)」は基本的に触れられていません。『トランスクリティーク』では、確か「資本=ネーション=ステート」を乗り越えるための重要な要素であったはずです(たぶん)。NAM活動の頓挫を経て、やはりそこには限界があったということだったのでしょうか。
著者は、理想とするアソシエーションについて、「もちろんその実現は容易ではないが、けっして絶望的ではありません。少なくともその道筋だけははっきりしているからです。」と最後に書いています。しかし、少なくとも私たちにはその道筋ははっきりしたものではありません。
やはりこの本を読むよりも、時間はかかると思いますが『トランスクリティーク』を読んだ方がいいと思う。続編がほとんどできあがっているということなので、そちらを期待しています。
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Amazonの書評を見ていると、なんかえらくボロカスに言われているみたいですが、そんなにヒドく無責任な本ですかねえ……? 例えば「交換様式X」という非在の様式を想定することに嫌悪感を示す人が多いようですが、実在しないものを具体的に論じていないから、というだけの理由で斥けようとするのはどうかな、と思います。私としては、この「交換様式X」なるものを措定することによって、それ以外の「交換様式」がどういう対立軸でとらえられるべきかがクリアーになる、という点を買いたいと思います。そしてその試みは、決して失敗してはいないと思うのです。同様に、すべての国家が主権を放棄して国際連合に譲渡することによって成立するという「世界共和国」の構想が、非現実的だとか理想論だとかいうだけの理由で斥けられるべきではないと思います。「理想」を描き出すことの意義と、それの実現可能性は常にイコールではないと思うわけです。というわけで、あえて高めの評価。(20070926)
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日本精神分析も参照のこと。こちらのほうがより思想書となっている。まぁ一読して是非より良い未来へ。実家へ
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思想的な側面から「世界共和国」の可能性を考えているんだけど
その歴史的系譜をみるのがつらかった。。。
カントだのマルクスだのよくわかんないし。
世界共和国には資本=ネーション=国家という状況を越える必要がある
みたいな事を説いてたと思うんだけど、
ネーションという聞きなれない言葉が出てきて、他にもわからない言葉が多いせいで
理解度が低いんだと思う。。。
ネーション=理想的な共同体、みたいな定義をしてたと思うけど、
共同体、という言葉も普通に出てくるし、共同体と理想的な共同体の違いも
はっきりかかれてなかったと思うし。。。
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カントのいう統整的理念として大事な1冊。学問を志す者として理想を追うに当たってこれだけ過去を考察、再考できるのには憧れる。
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カントの「永遠平和のために」の理想を掲げながら、法的な共同体を徐々に拡大していき、世界共和国を作ろうと主旨
また、「反社会性的性質」を持っていることを前提のうえで、戦いなどからの、経験的な論理の帰結により、争いが無くなっていくとしている。
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岩波新書赤版。先日岩波文庫版で出た「トランスクリティーク」を平易な文章でまとめたもの。時間がない人にはおすすめ。
マルクス主義・資本論って何だ?という人の一夜漬けにも最適だ。タイトルが残念だ。
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ひさしぶりに,一冊の本を堪能しました。柄谷行人が『隠喩としての建築』を出版したとき,だれかが書評で「これは失敗作だ。しかし,なんと素晴らしい失敗作だろう」という意味のことを書いたように覚えています。本書は,そのフレーズを思いださずにいられない,本当に素晴らしい失敗作だとわたしは思います。
本書が意図しているのは,資本制,ネーション,国家という三者を止揚する方法を模索することです。従来ほとんどの共産主義者は,資本制を止揚すれば,その結果ネーションも国家も止揚されるだろうと考えていました。しかし柄谷氏によれば,近代社会では,資本とネーションと国家とが結合体を形成しているといいます;その三者は,近代社会で相互補完的な機能を有しているが,それぞれ固有の原理にもとづいて成立している;したがって,資本制を止揚するには,その三者の原理を把握したうえで,三者すべてを止揚する必要がある,と。彼の思想は,共産主義の一変種ですが,彼自身は自分の思想をソ連型の共産主義と区別するために,それをアソシエーショニズムと呼んでいます。
資本制,ネーション,国家という三者それぞれに固有の原理を説明するために,柄谷氏は「交換様式」という概念を提唱します。彼の挙げる「交換様式」は,「互酬」,「略取-再分配」,「商品交換」,「X」の四種です。前三者は歴史上実在した交換様式ですが,最後の「X」は,来るべきアソシエーショニズムのために彼が予約している空席で,理念上のものです。共産主義者のみなさんには容易に察せられるように,柄谷氏の言う「交換様式」は,マルクスの「生産様式」を新たな角度から解釈した概念です。そして,マルクスと同じように,柄谷氏もその概念で人類史を説明します。彼によれば,「互酬」,「略取 -再分配」,「商品交換」という三種の交換様式は,歴史上つねに存在していたといいます。そして彼は,原始社会から絶対主義国家までのさまざまな社会の特徴を,交換様式という概念で分析します。その手際は鮮やかですが,ここで触れていると長文になるおそれがあるので,話を近代社会に進めます。
柄谷氏によれば,近代社会でも,「互酬」,「略取-再分配」,「商品交換」という三種の交換様式が機能しているといいます;資本制は「商品交換」の原理に基づいている;国家は「略取-再分配」の原理に基づいている;ネーションは「互酬」の原理に基づいている,と。国家は,他の諸国家にたいして国家として成立している,と彼は言います。近代的な主権国家は,主権国家でないどんなものから「略取」することも合法化されている;主権国家を「略取」しようとするのは他の主権国家だけであり,そのさい戦争が起きることがある;主権国家は「略取-再分配」を独占しており,その実体は常備軍および官僚機構である,と。一方,資本制は,「互酬」に基づいていた旧来の農村共同体を解体します。国家の「略取」や資本制の「商品交換」によって,現実には多くの人々の自由と平等とが損なわれますが,それを想像的に補填する存在がネーションである,と彼は言います。ネーションを形成する人々とは,絶対王制以後の主権国家のもとで��質化された国民=臣下(subject)たちである;ネーションにおいて,人々は感情(sentiment)を「互酬」的に交換している,と。
では,柄谷氏の言うアソシエーショニズムとはなんでしょう,そしてそれに固有の原理となるべき交換様式「X」とはどんなものでしょうか。歴史上実在してきた三種の交換様式はいずれも,交換に関与するだれかの自由を奪います。それらすべてを否定する理念上の「X」は,自由の相互性という倫理を伴っていると彼は言います。彼によれば,「X」は,普遍宗教の預言者たちの主張に現れていたといいます。すなわち,彼ら(仏陀,イェス,マホメット)は,生まれながらの共同体の拘束から人々を解放することによって「互酬」を否定し,国家の一角を占める祭司階級と対立することによって「略取-再分配」を否定し,資本の蓄積を伴うような「商品交換」を否定した;たしかに「X」は理念上のものであるが,歴史上の社会運動は,そういった信仰共同体を志向する宗教運動の形態をとって現れた,と。「X」に基づくアソシエーショニズムとは,「商品交換」の原理が存在する都市空間で,国家や共同体の拘束を斥けるとともに,共同体にあった「互酬」を高次元で取りかえそうとする運動である,と柄谷氏は言います。「互酬」を高次元で取りかえすとは,交換において自由の相互性を実現することである;言いかえればそれは,カントの言う「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という道徳法則を実現することである,と。プルードンのアナルコサンディカリズムはアソシエーショニズムの一例であった,と柄谷氏は高く評価します。しかし,アナルコサンディカリズムによってたとえ資本制が止揚されたとしても,主権国家が止揚されるわけではありません。国家の「略取」が合法化されている現状を改めるには,究極的には,諸国家が主権を放棄して世界共和国を設立するしかない,と彼は言います;当面の目標としては,諸国家が軍事的主権を国際連合に譲渡するように「われわれ」が働きかけることである,と。
以上,柄谷氏の言葉をそのまま用いていない箇所がありますが,本書の内容はおおよそ上のとおりです。素晴らしい失敗作だとわたしが思った理由は,以下のとおりです。
* 時代が下るにつれて「生産様式」が変遷する原因として,マルクスは「生産力」という概念を立てた。それは,時代に沿った変遷を説明するためのものであって,同時代の地域に応じた「生産様式」の差異を説明するにあたっては弱点を有している。一方,柄谷氏の「交換様式」が時代に沿って変遷する原因は,本書を読むかぎり明らかでない。
* 上の疑問点に関連するが,柄谷氏の言うアソシエーショニズムを推進するのがどんな人々であるか,本書を読むかぎり明らかでない。たとえば,上のまとめの最後の文に現れる「われわれ」とは,だれを指しているのか分からない(もしこの「われわれ」がレトリック上のフュア・ウンスであるのならば,アソシエーショニズムを推進するのは柄谷氏だけということになりかねない)。
* 上の粗っぽいまとめでは分かりづらいが,アソシエーションとネーションとの違いが不明瞭である。アソシエーションは「X」に基づいているという点がネーションと異なる,と言ったところで,「X」が明示されているわけでない。ネーションが想像上の存在であるのにたいして,アソシエーションは生産者協同組合などの具体的な集団を指す,ということになるのかもしれない。しかしそうならば,生産者協同組合(アソシエーション)の連合会(アソシエーション)が結成されたりすると,アソシエーションはネーションのように徐々に想像上の存在と化していくのではあるまいか。
* 上の疑問点に関連するが,ネーションはどのように止揚されるのか。ネーションは,資本制と国家とを結びつける輪の役割を果たしていると柄谷氏は考えているようだが,それは,資本制と国家とが止揚されたらネーションはひとりでに解消される,という意味であると考えていいのか。
* 以上の疑問があるにもかかわらず,この本は,おもしろいし,人々を運動に誘っている。柄谷氏が New Association Movement を始めたとき,わたしは参加したいと思わなかったが(それでもなぜか加入したのだが),この本に基づいた運動が起こったら参加したいと思った。止揚する相手が三者もあったら,いろんな人々が集まってきそうだし,いろんな人々が集まらないと運動が運動を始めないからだ。