紙の本
記憶の外側
2009/03/03 00:00
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ショートチョット - この投稿者のレビュー一覧を見る
「なんでも知っているバカ、知的メタボリック」
なんとも強烈だ。
「忘れ方の学習を試みるということは、古来、なかったであろう」
たしかにその通りだ。
「忘却は排泄作用を頭の中でしている」
これまた痛烈だ。
「年老いて詩人であるのが難しいのは、ことばを知りすぎたためであろう」
知識をえるたびに、硬い殻を作り、いわゆる固定観念を強固なものにしていき創造性が失われる。
知ることに喜びを感じているうちに、忘れ方についても学びたい。そう思える本書であった。
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エッセイ集?です。タイトル通りの内容を期待して買うとたぶん裏切られます。が、視点が面白くひとつひとつの記事も短いので寝る前におすすめです。が、値段がちょっと高いです。
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昔の人が出家したのも身近なわずらわしさを捨てるためであったと思われる。それがかなわない現代のわれわれは、旅に出たり、書斎をつくったり、外に仕事部屋を求めたりする。
かつての貧しい家庭の若者は、読書によって身のまわりに目に見えないカーテンをめぐらし、頭の中に「自分だけの部屋」をつくった。まわりの、わずらわしさから逃れるいじらしい術だったのである。(p.87)
教育も、視覚中心である。偏っているとしてもよい。目の人間の育成はしているが、耳、手足、口舌、嗅覚といったものの育成はほとんどなにもなされていない。そのためか、教育を受けるほど勘の悪い人間が多くなる。勘は、英語のコモン・センス(良識)である。コモンというのはありきたりの、普通という意味ではなく、五感に共通し、それを総合したというのが原義である。
五感のすべてを育成、洗練することによって、われわれは、真に人間らしい人間になることができる。(p.146)
もうひとつの忘却法は、新しいことを考えること。浮世ばなれた、空のそらたることを考えていると、おのずと、多くのことが消えていき頭がさっぱりきれいになるような気がする。新しいことを覚えるのではなく、新しいことを考えると、おのずから頭は整理され、その分、頭のはたらきもよくなる。はっきりそう断言できるわけではないが、乏しい経験に鑑みて、満更のあてずっぽうでもないように思われる。いわば、仮説である。本を読むよりものを考える方が、頭のはたらきがよくなるのはほぼたしかなようである。(p.182)
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新書や実用書の読書の後、本書のような手練の文筆家の滋味豊かな文章を読むと、ホント心が和む。実用本は、データ・経験・事実の積み重ねで論理を展開し、確証に裏打ちされた筆致で断言していく。鼓舞され、前向きにはなるが、「まぁ、これは栄養があるから食べなさい!」と勧められ食べさされている感じがする。こういう食傷気味の時にもってこいの読書といえば、エンタメかエッセイの類い。
外山滋比古の随想の醍醐味は「思索の散歩」を愉しむことに尽きる。話の展開が時に跳躍、時に道草。でも蛇行はしない。“おもねり”や“説明”が一切なく、清々しい。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と詠った室生犀星は、ふるさとというものを誤解した。観念の中にのみあるふるさとは誰だって訪れることはできない。行ってみれば幻滅があるのみであるのはわかりきっている。芭蕉にしても、想像と実在とを混同していたのであろう。名だたる歌枕の実地にふれたいと願って旅に出た。「奥の細道」は幻を追って、それにうっすら欺かれた作品である。歌枕は憶うべきで、訪れるべきでない。
<P5 青い山より>
という書き出しで始まり、著者は遠くからは青く見えた山もふもとに行ってみれば、雑然たる風景となるのが関の山だと。外国の古典が自国の現ら代文学よりも深く心ひかれるのは当然。遠くにありて思うことができる昔の山は、近くの山より青いのである、とまで言い切る小気味良さ。
読み終え「蝉脱(せんだつ)」という言葉を想起した。セミの抜け殻から転じて、「迷いから覚め、悟りの境地に達する」意味だけど、この迷いの無さ・闊達さにほれぼれとする。
著者は齢93のおじいちゃん。アタマはまだまだキレキレです。
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科学書だと思っていたらエッセイだった。 こうした文章を最近読んでいなかったので新鮮だった。 ひとこと一言噛みしめながら読むのが向いていると思う。