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1800年6月、忠敬が渡った蝦夷は外にロシア、内に公儀(おかみ)・松前家・アイヌが策略に策略を重ね、だまし合いの地だった。陰謀家の間宮林蔵、変な剣客平山行蔵ら、敵か味方か。アイヌ青年と仲良くなった忠敬に起る、事件につぐ事件、喘息をかこつ忠敬の愚直な一歩は、血みどろ泥まみれの闘いだった。
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アイヌの地で次から次へと騒動に巻き込まれながら歩く忠敬一行の珍道中。実におもしろい。飽きさせない。読み進むのが愉しくてしかたがない。
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第一巻を読み終えたのは随分と前だった。
これから蝦夷地に足を踏み入れるというところで終わっていたのだが、
今回も色々な事が起こる。
アイヌの人々と本州からきた人々
幕府と松前藩
さまざまな二極対立の構造のなかにも、
必ずその両方の間にたち、
客観的に見る目がある。
それが伊能忠敬であり、読者でもある。
アイヌが出てくると高校時代の公民の先生を思い出す。
一生懸命にアイヌのことを教えてくれたっけ。
この本が面白いのは、
史実が基盤となっていて、
にもかかわらず内容が古くないところだ。
本当に毎日わくわくしながら読みすすめた。
1巻では伊能忠敬が測量の旅に出るまでの
前振りや、桃太郎のように弟子が増えていく過程が描かれる、まさに旅立ちの章。
2巻は民族の問題と世界の中にある日本への気づきの章となっている。
3巻を急いで買いに走らなくては。
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蝦夷上陸からビロウ(広尾)まで.忠敬が蝦夷の権益にかかわる闇の闘争にまきこまれながら測量行をすすめるのだが,本業の測量の話だけではもたないのか,この権益に関わる話が作り込んであってそして長い.ほとんど無駄口のない忠敬の日誌から,これだけ詳細な話を作り上げる想像力の逞しさに感心する.
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ただ測量を無事に終わらせたいのに、色々なしかもあまり測量と関係ないところからからまれていく忠敬が不憫ですが、それが面白かったりします。
蝦夷の測量の大変さが要所でわかりました。
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忠敬一行は、旅の本来の目的であった本邦子午線1度の距離の測定にも成功し、この巻では表向きの目的地であった蝦夷地に到着。各地を測量踏破するのだが、そこで見聞きしたものは、和人によるアイヌの人々への苛烈な行いの数々だった。井上ひさしは1976年に約1年間オーストラリア国立大学(キャンベラ)に客員教授として招かれたが、そこでも先住民であるアボリジニの人々に想いを寄せ『黄色い鼠』を書いている。本編も、まったくその延長上にあり、アイヌの人々への共感がベースになっている。中央と辺土の構造もまた、一貫したテーマだった。
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(*01)
テクストが重層する。
原基のテクストに忠敬の日記がある。第二に忠敬の時代のテクストがある。第三にこれら二つに解釈を施した井上のものと他の史学者らが記したテクストがある。第四にこれら三つを踏まえた上でこれら三つに記されなかった部分を井上が創作したテクストがある。第五にまえがきやあとがきとなる第四までの創作を記しての自己批評的であり私事的なテクストがある。
第一と第二の関係は、正統的な歴史理解と照らし穏当に読むことができる関係にある。歴史物として、忠敬周辺と近世後期に現われた新たな経済関係や文化諸相に対する知識を深めてくれるもので、コンテクスト-背景として読めるものでもある。
厄介が生じるのは、第三と第四のあたりで、井上の主観やそれに基づく創作が混じり、第一第二が正典ないし聖典となり遊びの余地を孕まずにカテキズムとして作用した反動として、物語と堕する。戯曲をよくする井上としての真骨頂はこの物語パートであり、固定化された正典を脇に置きつつ遊んだ結果のテクストともいえる。
ただし、現代感覚からすると、この物語は黄門的であり、やや近代的な苦悩が絡んだ漫遊記の様にも読める。つまりは、この物語部分は普通に読むと、安定的につまらないものである。事件がある、陰謀がある、色や女がある、孝行がある、忠義がある、貧富がある、しかし、それらの物語は、定めし平板である。
中盤の蝦夷の道のりは長く、アイヌと和人との交易やいざこざ、ひっくるめて未開と文明のコミュニケーションの問題に、創造の翼を広げて筆を大いに振っている。これは当時のアイヌに関する記録、北辺北方に関する資料が、化政文化や地方資料などに比して少ないため、創作の余地が生まれたと解することができよう。
それにしても、当時の文化の交差点として歩き続ける男忠敬を配したのは面白い。山東京伝、松平定信、山片蟠桃、菅江真澄、木食上人、間宮林蔵、平山行蔵、十返舎一九、葛飾北斎、二宮尊徳、鶴屋南北といった多士済々が、虚実はともかく、忠敬の旅程で交錯する。また、街道の宿場、後背地/搾取地としての農地、漁船や通商船が行き交う沿岸、こうしたそれぞれの場を舞台として、経済を営む民、そして徳川政権を筆頭とする権力としての武家などがしっかり描かれており、やがて近代を迎える、あるいは近代化を遂げつつある総体としての社会を読み物として学びとるテクストとしても有用である。
もちろん、忠敬の晩年に専門とした星学とその応用である測量と地図のあれこれについても教えられる。忠敬の一歩一歩と四千万歩は、地球における国土の相対的な位置を読み取り、歩測により正確に国土の姿をとらえる行為であった。地をテクストとして、忠敬は歩により読んでいたことになる。伊能地図とは表現である前に、読みであった。
私たちは地図を読むことはできるが、地を読むことのできるほどの学を修めていないし、一字一字一歩一歩読んでいる暇もない。伊能忠敬の偉業は、地図を表したことの前に、地を読んだことにあった。
本書を読むことの意味はそこにある。井上は伊能に習い、忠敬の一歩一歩を読みつつ、読み物としてのテクストに表したかったのだ��うと思う。果たしてその試みは、自称するところ、1/7で頓挫してしまった。
井上に継いで、この先の伊能忠敬の足跡を読み著す者がいつかは現われることと思う。伊能忠敬の一歩一歩は詰まらないが、一歩一歩が紡いだ全体の図像と物語には読み解くほどの価値がある。
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蝦夷の地へとわたった忠敬一行は、公儀、松前藩、アイヌの三つどもえの抗争に巻き込まれ、さらに間宮林蔵の謀略によって振りまわされることになります。
前巻同様に破天荒なストーリー展開になっていて、いかにも著者の作品らしい内容です。とくに印象的だったのは、ロシアにわたりロシア人と通商を結ぶことを夢見る大司馬伊織という人物でした。鎖国政策を守りつづける公儀に対して、ペテルブルクで日本語を教えているという噂があることを聞いた忠敬に、著者は「それに対抗するには大司馬伊織のような人物があと十人ぐらいはいないと困る」という感想を述べさせています。