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紙の本
もろい市民的幸福、その愛と死。『レイテ戦記』の兵士たちの生と死に呼応する。
2010/05/03 08:11
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:風紋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、風俗としての愛の諸相を描く連作小説である。
愛はもっぱら男女の恋愛だが、家庭をもった夫婦の愛情も勿論あるし、親が子に子が親に対する愛がある。恋愛まで展開しない友情があり、アイドルへの憧れがあり、年上の同性に対する慕情がある。不倫もあれば、火遊びもあり、ありとあらゆる愛がすくいとられていて、無いのは人類愛くらいだ。昇天してなお愛に悶える魂魄を描く、SF的な一章さえある(第九章「地球光」)。
本書で記される愛は、いずれも不安定だ。相互に愛し合う堅固な夫婦関係のように見えて、いや、たしかに愛し合ってはいるのだが、妻が夫に隠していた過去があって、それが亡霊のように甦ることで新たな秘密が生まれ、結果として二人が引き裂かれるケースもある。
再三登場し、全体の主人公の位置をしめる織部春夫は、二つの愛を経験する。路傍で話しかけられたのをきっかけに結婚し、2年間、幸福を味わう。これが第一の愛。その妻を交通事故で失い、亡妻の面影を求めて別の少女と出会って、同棲する。これが第二の愛。
妻には過去があって、その過去は別の物語をなす。
少女には最初の男がいて、これまた別の物語が展開する。少女も交通事故に合うが、命は助かる。しかし・・・・。
小説の至るところで、愛についての考察が入る。
たとえば、「ロミオとジュリエットの悲劇は、突然知った恋の情熱に、若い恋人達が適応を誤った例といわれる。/二人がかいま見たのはまさしく人生を美しく楽しく、生きるに値するものとする感情だった。しかし二人はあまりに若く、ものを知らなかったので、モンタギュ、カピュレット両家の争いという現実を前にして、どうしてその恋を実現してよいかわからなかった。二人は、自分の恋を実現するために、何の努力もしなかった。/悲劇の本質は、主人公が何事かをなし遂げようとし、神や運命にはばまれて、破滅するところにあるとすれば、『ロミオとジュリエット』は悲劇とはいえない」
著者の愛したスタンダールによれば、小説のなかに政治をもちこむのは音楽会で発砲するようなものだが、小説の中に批評が挿入されるのも似たようなものではあるまいか。ただし、スタンダールはかく言うものの、平然と政治を持ちこんでいるし、『愛について』の作者もまた批評は小説の一部と心得ているらしい。
毎日出版文化賞、新潮社文学賞 を受賞した『花影』では、磨きあげた文体でヒロインの死にいたるまでの緊迫した刻々を謳いあげた。しかし、その後大岡昇平の文体は変わった。どうやらモデル問題でいろいろ言われて嫌気がさしたらしい。
『野火』にせよ『武蔵野夫人』にせよ、初期の作品では作者は、いわば登場人物とともに作品のなかを生きていた。だから、ストーリーがどう展開するのか、作者自身にも予想がつかない、とでもいうべき緊張感が全編に漲っていた。しかし、『花影』以後、作者は作品の外側に位置し、初期作品のようには作品のなかに没入しない。構成は安定するのだが、作品は小粒になった印象をぬぐいがたい。作者の厳格なコントロール下におかれた登場人物は、しばしばあやつり人形のように動き、なまじ作者が先を見とおし過ぎているため意外性を欠いた。
作者が作品のなかを生きるような作品の再登場は、『レイテ戦記』を待たねばならなかった。「死んだ兵士たちに」とエピグラフにあるとおり、作者は全身全霊を作品のなかに沈め、死者とともに作品のなかを生きた。歴史だから、結末は明かなのだが、資料を発掘し、読みこみ、事実を再構成する過程で、作者自身予想のつかなかった世界が展開した。そして、『レイテ戦記』は空前の傑作となった。
本書は、『花影』以後の風俗小説のうちで、もっとも充実した作品だ。やはり作者は作品の外に身を置いているし、登場人物はチェスの駒のような動きをするのだが、それぞれの存在感を発揮している。これは、『レイテ戦記』とほぼ同時期に刊行されたことと無関係ではない、と思う。
『愛について』は1970年刊、『レイテ戦記』は1971年刊だが、前者の後者に対する関係は、『野火』に対する『武蔵野夫人』の関係にあるのではなかろうか。『武蔵野夫人』は『野火』と前後交錯して書かれ、『野火』のモチーフが一部こちらで使用されている(『大岡昇平集 第3巻』の「作者の言葉」、岩波書店、1982)。
本書は、平和ニッポンを舞台とし、戦争はちっとも登場しないが、登場人物の市民的幸福はもろく、その愛は死と隣合せである。『レイテ戦記』の兵士たちの生と死に呼応している、と思う。
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