紙の本
人間釈尊の生活感と人生観がみえる
2022/10/24 09:41
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投稿者:あっち - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、シャカブッダつまり人間釈尊の晩年の言行を伝承したパーリ経典の、日本語訳。
大乗経典では超人的で崇拝の対象になるようなブッダが描かれているのに比べれば、パーリ経典のほうが史実に近いといえる。そこに記録されているのは元来のブッダの姿だ。
もっともこのパーリ経典ですらも、後世になって付け加えられたとおぼしき創作が混じっていたり、伝承の過程で誇張されたとおぼしき箇所があったりするので、眉唾ものではある。後世の口伝や布教教化の過程で、釈尊がいわば「神格化」されてしまったからである。
まず、一見して判るような、科学的にありえない叙述がある。例えば、ブッダは死期が選べ、寿命が意のままに延ばせる、というような叙述がそうだ。
つぎに、釈尊が説いた元来の内容であるところの原始仏教について理解が進んでいれば、原始仏教と矛盾するかもしれない疑問のあるエピソードに気がつくかもしれない。
このような思考判断力を身につけるためには、同じく岩波文庫から出ている中村元先生訳の「ブッダのことば スッタニパータ」や「ブッダの 真理のことば 感興のことば」なども読んでおくとよいだろう。またそれらの内容が思想哲学的で抽象的な思考が多いのに比べると、本書は具体的で生々しいエピソードが語られているのでかなり読み易いと思う。
この経典から垣間見えるのは、釈尊の人間らしい温かみのある姿だ。そして、元来の仏教の本質である。
思想家としての釈尊と、思想哲学としての仏教である。
紙の本
ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 改版(岩波文庫)
2020/07/04 20:19
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投稿者:n - この投稿者のレビュー一覧を見る
現代語訳に加えて解説と経典の中で使われる専門用語の注が付いているので読みやすい。分らない場合は、解説から読んでも意味が分るようになっている。中村元先生だからこそできる編集方法ではないかと思う。
電子書籍
電子書籍で大般涅槃経
2020/01/12 18:15
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投稿者:Otto Rosenthal - この投稿者のレビュー一覧を見る
ブッダの最期を語る大パリニッバーナ経(大般涅槃経)の邦訳本が遂に電子書籍になりました。経典を電子書籍で読む時代なりました。
紙の本
経典です
2020/01/12 18:09
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投稿者:Otto Rosenthal - この投稿者のレビュー一覧を見る
『ブッダ最後の旅』という素敵なタイトルがついていますが、大パリニッバーナ経(大般涅槃経)という経典の邦訳本です。
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『大般涅槃経』ともいいますが、お経のような難しいことが書いてあるのではなく、ひとつの物語調に書かれていてとても面白いです。
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p156
「アーナンダよ。わたしが亡くなったのちには、修行僧チャンナには、<清浄な罰>(ブラフマ・ダンダ)を加えなさい。」
「尊い方よ。<清浄な罰>というのは、そもそも何ですか?」
「アーナンダよ。修行僧チャンナは、自分の欲することを何でも言ってもよい。しかし修行僧たちはかれに話しかけてはならないし、訓戒してはならないし、教えさとしてはならない。」
※チャンナーChannaー車匿.
かれは気むずかしく、かたくなで、教団内部にあっても他人と協力せず、とかく摩擦・抗争を起こした(詳しくは赤沼智善『印度仏教固有名詞辞典』p128−130)しかしここで述べられている罰を受けてのちには、人格も円熟したと言われている。
Wikipediaー
チャンナは釈迦と同じ日に生まれたという。チャンナは自分がクシャトリアであり、仏と最も親しい者であると思い込んでおり、しばしば悪口を働き、そのため悪性車匿(あくしょう・しゃのく)、あるいは悪口車匿(あっく・しゃのく)といわれた。舎利弗や目連に対しても嫉妬し悪口をいい、釈迦仏も幾度も彼に注意したが、その場では大人しいが、しばらくするとまた悪口を言うことを繰り返した。また戒律を犯しても認めようとせず、他の比丘衆からもよく駆遣呵責(くけんかしゃく=厳しくその責を咎める)された。
釈迦仏の入滅直前に、阿難(アーナンダー)がチャンナをどう扱えばよいかと問うと、ブラフマ・ダンタ(黙擯=だまってしりぞける、つまり無視する)の罪法を科した。アーナンダーは、それでもチャンナは気が荒く乱暴者であるから、そのばあいはどうすればよいか再度訊ねると、仏は大勢の比丘を率いていけばよいと答えた。しかして釈迦仏が入滅した後に、アーナンダーは500人の比丘を連れてコーサンビーのゴーシタ苑に彼を呼び出し、仏から伝えられた罪を申し渡した。彼はそれを聞き、気絶して倒れたが、それを機に心を入れ替え修行に励んだ。
p313
「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。それら(つくられたもの)のやすらいが安楽である。」
というこの詩は、釈尊の亡くなったときに唱えられた詩である。
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釈迦の最期の日々が、事実・創作入り乱れて詳細に綴られている。
永遠の命であるはずの神格化されたブッダと、生身の人間として必ず臨終があるブッダに、どう整合性を持たせるか。
そんなことに後代、経典をつくった人々は悩んだに違いない。
もちろん、下痢をしたとか腹痛を起こしたなどの生々しい描写のほうが、惹きこまれる部分だ。
詳細な訳注とともに読めば面白い。
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苦からの解脱を解き続けた釈迦、最晩年も説法の旅を続けた。病気に苛まされながらも訪れた村々で渾身の教えを説く。比較的史実に近いのではないかと推測されている涅槃経です。
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一周するとここに辿り着く本。
ウンベルト・エーコが「全編アクション、現代の読者が現実から逃避するために書物にもとめるすべて、セックス(それもたっぷり)、不倫、男色、殺人、近親相姦、戦争、虐殺、なんでもござれときている」とおちょっくっていた「聖書」とか、その親戚(「聖書」で反省したのかかなり堅物)の「クルアーン」よりは面白くないけど。
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先に、渡辺照宏先生の『涅槃への道―仏陀の入滅』(ちくま学芸文庫)
http://booklog.jp/users/murasakiasano/archives/448008956X
を読んでから、こちらに取りかかるほうが、一般の読み手には
都合がよいと思います。
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仏陀の死までの最後の旅を描いた仏典。
仏典にしては珍しくストーリー性が有り、
死という結末に向かって話が展開される。
阿南尊者が懇願すれば死ななかった事になっていたり、
地震が起こったりと神話的な描写もあるものの、
驚くほど人間らしい「死」の様子が描かれている。
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ブッダに最後に供養をささげたチュンダに注目です。
カーストの外にある鍛冶屋の息子チュンダの供養の食事を
ブッダは快く受けてその結果死へとむかうのですが・・・
この供養は釈尊がお悟りを開かれたときのスジャータの
乳粥の供養と同じように尊くおおlきな功徳があるということ・・
チュンダは日本では純陀尊師といわれ在家仏教の祖といわれるかたですね。
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『大般涅槃経』のパーリ語(サンスクリットの俗語の一つ)からの翻訳である。ほかの仏典と同様にくり返しが多いものの、ガウダマの死に関する物語であり、ストーリー性があって比較的読みやすい。興味深いと感じたのは、アーナンダがガウダマに死なないでくれと懇願しなかったため、もはや弟子たちがガウダマから独立して教えを説けるといった悪魔の言葉をゴウダマがききいれ、寿命の素因を断つ所である。キリスト教でもそうだが、奇跡を行う教祖の死には愚かな弟子がつきものなのである。ガウダマは鍛冶のチェンダが捧げたキノコ料理を食べ血を吐いて、沙羅双樹の所まで歩いて、そこで死ぬ。死ぬ前に、チャンダの不安を取り除いてやること、修行・布教・葬儀(千枚の布にくるんで、油につけて火葬)、教団内の不満分子に「清浄な罰」(教えないこと)をするように等と言い残す。また、修行者は葬儀に関わらず、在家信者の王族にまかせるように言うのだが、アーナンダや大カッサバらが遺骨の分配をとりしきる。そして、あちこちにストゥーパ(卒塔婆)が建つことになる。
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ブッダの「教え」として読むよりは、「修行を完成させた者」の最期の「物語」として読んだ方が味わい深いように思う。
非常に、詳細にブッダの入滅までの様子が描かれている。
教え自体にはあまり踏みいって描かれてはいない。
ブッダが、側近に若き人アーナンダを連れて、余命が三カ月であることを知りながら、心を落ち着かせ、町や村を回って教えを説く様が描かれている。
「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。智慧とはこのようなものである。戒律とともに修行して完成された精神統一は大いなる果報をもたらし、大いなる功徳がある。」云々・・・。
しかし、その言葉のなかに、「尊師」の、心の統一と清らかさ、そして物事の道理に通じている聡明さを感じることができる。
同じ言葉の、確認するような、繰り返しの多さも、この仏典に挙げられる大きな特徴。
「諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
アーナンダよ、このようにして、修行僧は自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないのである。」
と、ブッダは、最期の旅で繰り返し、「自灯明・法灯明」の教えを説く。
また、悪魔がブッダのところにやってきて、「弟子たちも立派なのだから早く入滅されたらどうですか」と繰り返し勧める場面もあり、それを止めなかったアーナンダがブッダに「おまえの罪である、お前の過失である」と諌められる場面もあり。
ブッダは、鍛冶工チュンダの提供したキノコを食べて、激しい下痢、血便が出るほどになったというが、それでも精神統一を保って、旅を続けたという。
それでも、ブッダは「尊い供養である」と言う。
世話役のアーナンダが、水を汲みに河へ行くとその水が澄んだりして、「すごい神通力だ!」と驚いたり。
沙羅双樹の花が季節でもないのに満開となった話は有名ではあるが、ブッダが、それを見て、「修行完成者は、このようなことで供養され尊敬されるのではなく、正しい理法に従って実践した者であるからこそである」と言っている話は興味深かった。
入滅時には、誰の入る隙間もないほど、神霊たちがブッダを取り囲んだという。
最期に、ブッダは修行僧たちに「何か、疑問はないか」と何度も問うが、最期にアーナンダが、「ブッダに関し、法に関し、集いに関し、道に関し、実践に関し、ひとりの修行僧にも疑い、疑惑が起こっていません」と答える。
ブッダの最期の言葉は、「諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい。」であった。
あとはブッダ入滅後の、遺骨の分配やストゥーパについても生前ブッダは詳しく指示しており、その通りになって、遺骨は天でも地でも尊ばれたということである。
私たちは、自分自身の死に際して、こんなに落ち着いていられるであろうか。
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