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約一月前に読み終わっていたけれど、感想を書くのをめんどくさがって忘れていました。
五木寛之の『親鸞』を読了したあとに読んだのですが、正解でした。それがなかったら、そもそも読みきれなかったかもしれない。
その『親鸞』の感想でも書いたのですが、この時代、つまり戦乱や天災が続いて、河原に人の死体が棄てられたままになっていたような世の中では、信仰というのは現代の我々が考える以上に切実なものだったのでしょうね。ただひたすら仏の救いを信じる「他力本願」という考え方は、人力ではどうにもならない現実に立ち向かうための、人間のギリギリの知恵なのかもしれないです。
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吉本隆明が自身の著書で親鸞についてたびたび紹介していたので興味が湧き、読んでみることにしました。(「歎異抄」自体は親鸞の弟子である唯円とされています。)
思えば日本史では必ず出てくる、日本人なら名前を聞いたことがない人はいないのではないかと思えるほどの有名人物ですが、親鸞の思想自体にふれる機会はかなり少ないのではないでしょうか。
かの有名な「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」のくだりをはじめ、親鸞の思想の数々に触れることができます。
浄土真宗内部の異義、異端を嘆く内容になっており、「〜〜と説く人がいるがそれは誤りで、〜〜ということなんだよ」というスタイルで書かれています。「◯◯でない」という書き方がなされていることで、親鸞のメッセージをより理解しやすくなるかもしれないなと感じました。
「達観レベル」でいうと、これほど達観している思想は他にないんじゃないか、もう行き着く所まで到達してしまっているんじゃないかとさえ思います。
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この書籍は、親鸞上人の真言真宗の考えや当人の日頃の政治情勢などが、当時の本文、要旨を付けて説明しています。また、後半に現代語訳付きになっていますで読みやすくなっています。
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最後に著者自身がこの歎異抄を読んでいても全く感動しないのは何故かと書いていて笑った。喜びがないのは煩悩の仕業であって、こういう煩悩に悩む者を救うのが阿弥陀様である、と親鸞が言っているという。「他力」も専修念仏も一種の了解放棄である。それが早道かもね。
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100分で名著にて紹介されていたので読んでみましたが上手く理解出来ません。
訳文を読んでいても睡魔が襲ってきてページがなかなか進みませんでした。
念仏を唱えさえすれば極楽浄土へ行く事ができる、と現代ではかなり怪しい思想となりそうであるが決してそういう事ではないという事だけは何となく理解できる。
悪人正機説など当時はかなり危険思想だったかもしれない。
正しい人間しか救われない、ではやはり救いがない。だって人間なかなか自分が正しく生きられてるなんて思えないもの。
そういう大部分を占めるであろう普通の人に対して救いがあると訴えれば、世捨て人みたいにならず頑張って生きていこうと思う人が増えていくのかもしれない。
そんなところなのかな。
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読了
他力本願の極まった境地
自分の信じる人から殺人をしろ、と、言われても殺せない、それは、縁がないから。
救われる為に念仏するのは、自力で、本願ではない
阿弥陀如来をただ信じて念仏すれば、その瞬間に、死後の浄土が約束される
福音書みたいすわ
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親鸞の教えが書かれています。
・極楽へ行く為には、念仏以外に他の善い行いは必要ない。
・ただひたすら本願を信じればよい
このような教えなので、庶民にとってはなにも考えずに信じればいいだけなので楽だとおもいます。なので教えが広まったのだとおもいます。
私には、この教えは人を思考停止にさせているようにしか思えませんでした。
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”・第三条 善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。(p.16)
・第九条
「念仏を申しておりましても、おどりあがるような喜びがありません。また、急いで浄土へまいりたいとい心もおこりません」
喜ぼうとする心をおさえて、喜ばせないようにしむけたのは、煩悩のしわざです。しかし、阿弥陀さまは、そのようなわたしであることをはじめから知っておられて、煩悩からのがれることのできない愚かなこのわたしたちを、なんとか救おうという願いをたてられたのでした。(p.85)
・第十三条
善い行いも悪い行いも、すべては過去の縁によるものと考えて、それにとらわれることなく、ひとえに仏さまの本願力をおたのみすることが、他力ということです。
・第十四条
一生の間となえる念仏は、みなすべて阿弥陀さまの大いなる慈悲とかお徳に感謝するものでなければなりません。(p.100)
・後記
幸いにも念仏する身となりながら、ただちに真実の浄土に生まれることができないで、返地の浄土にとどまることがあれば、それはまことに悲しいことです。そのようなことがないように、同じ念仏の行者の中で信心が異なることがなく、正しい信心をいただいてくださるようにと、涙しつつ筆をとり、これを書きました。『歎異抄』と名づけます。念仏者以外の人には見せないでください。(p.114)
<キーフレーズ>
・南無阿弥陀仏
・自力聖道門、他力浄土門
・縁
殺すべき縁がないからです。(略)縁がもよおせば、百人も千人も殺すこともあるでしょう。
<きっかけ>
2015年7月の人間塾読書会 課題図書。”
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この歎異賞を読んで少しわかったことを書いておく。
・この世の中に性のあるものは生と死を繰り返して存在している(=輪廻転生ということか?)
・その繰り返しの中で時には善人となり時に悪人となって生まれ、宿命?として善でも悪でも行ってしまうことがある。
多分の子の考え方が底辺にあって、その上で
・自力作善(自力本願と同じことか?)を行う人と阿弥陀仏の救いの力で救われる本願他力(=他力本願)という二つの念仏の唱え方がある。
・自力作善は自ら善を行い、浄土に生まれようと試みる人であるが、所詮、人は輪廻転生の中で悪人にも善人もあっており時に動植物にさえ生まれ変わっている...
阿弥陀仏の「本願」は全ての生きとし生けるものを救うということである。
南無阿弥陀仏、この6文字は阿弥陀仏が自分のために与えてくれたものである。
なんとなくここまではわかった気がした。
そして
この本では
阿弥陀仏が全ての人を救ってくれると「信じて」念仏を唱えることで成仏する...と読めるような書き方だったが...
「信じて」というところに少し違和感を感じる。
「信じる」よりもっと強く「成仏を確信」してその感動で
自然と南無阿弥陀仏の6文字が口から出る...
以前に読んだ『歎異抄をひらく』の解釈の方が個人的には腑に落ちた。
それでも
この本の凄いところは
歎異抄の全文の解釈が載っていて特に11~18条の解釈は勉強になる。
歎異抄のことは詳しくないが
現存する最古の本を「底本」として読みやすく翻訳?していてさらにその要旨が各条ごと載っている。
最後に現代語訳、そして解説と続く。
そういう意味では歎異抄を三回読むことになるのかな??
あと、仏教の専門用語の解説も載っている。
いつものように図書館肩借りてきたが
思わず、せんを弾きたくなる箇所も多々ある。
一冊560円。
これは買って、線を引きながらもう一度読みたい。
そんなことを思わせる内容。
忘備録//
第13条
善い行いも悪い行いもすべては過去の縁によるものと考えてそれにとらわれることなく、ひとえに仏さまの本願力をお頼みするのが「他力」ということです。