紙の本
方便としての仏教経済学
2005/09/16 10:09
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yukkiebeer - この投稿者のレビュー一覧を見る
葬式のための宗教に過ぎないと揶揄されがちの仏教を、信者にとって魅力あふれるものに新しく生まれ変わらせるにはどうしたら良いか。その方策を探るために、お寺が担う様々な宗教行為を経済学の視点から改めて読み解いていくという趣旨の本です。興味深く読みました。
例えば著者は、お寺と檀家との関係を、宗教サービスを提供する側とそのサービスを購入する消費者との関係に置き換えて見せます。そもそも檀家制度はキリスト教徒弾圧のために幕府が導入した政策です。この制度のもとでお寺は長期的な固定客を確保することができ、また檀家はキリスト教徒である疑いをかけられずに済むというサービスを享受できたわけです。
しかし近代化の過程で、檀家と地域社会との長期的関係が崩れ、それに伴って檀家は寺の固定客ではなくなっていきます。寺の経済基盤は今後弱まる一方です。
新たな信者を確保するためのサービスをいかに生み出すか。そのためには現世利益という、これまで仏教界が難色を示してきたサービスも、顧客ニーズに対応する手段として必要なのではないか、という具合に本書は、経済学の視点から仏教活動に提言をしていきます。
本書にはお墓の値段や僧侶の年収といった生臭い数字が羅列されているのではないかと想像しながら頁を繰り始めたのですが、そういう類いの書ではありませんでした。
慶応大学商学部の教授である著者自身がまず仏教についてきちんと学び、その上で日本各地へ、そしてタイにまで足を運んで仏教関係者を取材したことがうかがえ、その真摯な執筆姿勢に好感が持てます。
仏教には「方便」という用語があります。真の目的のために便宜上用いる手段、という意味です。本書の場合も、経済学的解析は、寺院側のみならず信者側にとっても最も好ましい道を探る上での「方便」といえます。であれば、本書は大変意義深い書物になっていると私は感じます。
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「坊主丸儲け」のカラクリを暴く!的な本かと思って手に取った。
お寺の現状に対して厳しい目を向けているのは確かだが、批判も提言も真摯な姿勢からなされている。それは、もともと仏教に無関心だったという筆者が、取材を通じて仏教や個々の僧侶の魅力を発見していったことと無縁ではあるまい。
仏教の本というと、どうしても教義を解説するものや生き方のヒント的なものが多いので、この本のように歴史や組織構造についてわかりやすく教えてくれる本は貴重だ。
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最近実家の2か所ある墓のひとつを墓じまいした。先祖の歴史と弔いの場である墓に自分が手をつけることに躊躇しなかなか決断がつかなかった。この本はそんな自分の背中を押してくれる一助になった。江戸時代に確立された檀家制度を基盤とするお寺が今日大きな曲がり角を向かえており、今後どのように変わっていくのかという視点を中心に置きつつ、仏教の歴史、お寺に関わる諸制度、現場が抱える様々な課題など
が経済学的な視点から広く多角的に論じられていてとても興味深かった。私の中にあったお寺と墓に関する一種のタブーが取り払われた。
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一般的な日本人にとって「お寺」「お坊さん」「仏教」といえば、「葬式」「法事」「お墓」といった連想が働くわけですが、これらは日本ローカルなもので、タイなどの他の仏教国では同じ発想は全く通用しない。
日本において、仏教と葬式やお墓が結び付いたのは、江戸時代に徳川幕府の統治体制に寺院が組み込まれ「檀家制度」として全国に行き渡ったことが起因している。
そのあたりの歴史を紐解きながら、現代のお寺・仏教を取り巻く状況を経済学的見地から眺めた一冊。
それにしても、オフィシャルな制度としての檀家制は明治以降存在しなくなったにも関わらず、現代においても寺壇関係というものが「文化」として社会に根を張っていることを考えるに、徳川幕府がこの制度をいかに強固にあまねく根付かせたかが痛感させられます。
まあ考えてみれば、明治以降まだ150年ほどしか経っていないわけで、徳川の260年はやっぱり日本人の生活のかなり深いところまで刻み込まれてるんだなあ、と。
同じ著者の「大相撲の経済学」に比べると、経済学的観点での掘り下げという意味ではやや物足りないところもあるんですが、雑学的にはなかなか面白かった。
特に、お寺と葬儀社・石材屋の関係を分析したあたりとか。
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引用1:人間の行動には合理性があるという前提の下で世の中を見ていくのが経済学である。―中略― 仏教の目的は、「苦から解脱して仏になること」あるいは「苦からの救済の方法を見つけること」である。これほど人間の合理性にかなった目的はないだろう。
引用2:仏教の基本的な考え方を示すものとして次のような方程式がある。
満足=充足/欲求 この式によれば、人生を幸せなものとするには二通りの方法がある。一つは分子の充足を大きくすることである。欲しいものが手に入れば満足は高まる。もう一つは分母の欲求を小さくすることだ。欲しいという気持ちそれ自体を消してしまえば、手に入らないからといってイライラすることもなくなるだろう。
引用3:仏教と経済学は高度な論理性によって感情の起伏を抑える効果を持つという点で共通項がある。
引用4:住職の家族だけがいる小さなお寺は個人商店のようだ。一方、大勢の僧侶や職員がいる長野の善光寺のような大きなお寺は会社といってもいいかもしれない。しかし、ほとんどのお寺は入り口に守衛がいて訪問客をチェックするわけではないし、だれもが自由に山門をくぐってお参りすることができる。ならば公園のような公共施設ともいえる。
引用5:かつて地域コミュニティが堅固であったころ、お寺の経営は近隣住民によって支えられて成り立っていた。近所の人々が家でとれた米や野菜などをお寺に寄進する一方、お寺は彼らに宗教活動を提供するとともに子供たちの遊びや習い事の場としても利用された。お寺のパトロンが互いに持ちつ持たれつの関係にあったために、改まったガバナンス・システムなどは必要としなかったのだ。
引用6:「僧侶は本来無職業であるべきだ」インタビューの時に、ある住職はいった。確かに仏に仕える身である僧侶にはこれといった仕事があったわけではない。救いを求める人がいれば誰に対しても手を差し伸べる菩薩行を実践するのが僧侶の務めである。しかし、近代的な分業体制が進むにしたがって、僧侶も何か「仕事」をしなくてはならなくなった。仕事はいつしか生業となり、僧侶は生活のために就く職業の一つとなってしまった。
引用7:お寺の場合、檀家という長期契約者がいるおかげで直ちに経営が傾くようなことはない。そのため危機感が芽生えず、新しい教え(苦から人々を救済する方法)の開発という本来ならば本山が真っ先に取り組むべき仕事がなされないままになっているのである。現在では当たり前になっている念仏や坐禅なども、鎌倉時代の仏教にとっては画期的な新しいノウハウだったのっだ。だから当時の保守派といわれた比叡山から批判や弾圧を受けた。しかし、法然や道元はそれに屈せず普及に努め、結果として武士階級や大衆から幅広い支持を受けるようになった。
引用8:補助金が入っておらず、公益性が担保されない宗教法人の場合、料金を提示しないということが公益性の高さを証明するための具体的手段となる。―中略― かつてお寺と檀信徒の関係が親密であったころは、お互いによく事情が理解できていたと思われる。普段の付き合いから、檀信徒はどの程度お礼をすればお寺の経営の足しになるかわか��ていたし、住職も檀信徒の支払い能力について知っていただろう。
引用9:自然葬は墓地を所有しているお寺にとっては逆風だが、墓地のないお寺はむしろ形勢逆転のビジネス・チャンスとなりうる。
引用10:住職が檀家たちの気さくな話し相手であり、お寺が近隣住民の集う憩いの場となっている地域密着型の寺院の場合、信仰心云々とは関係なく、この先もお寺は今まで通りの形で存続していくだろう。長期契約に基づく檀家制度も十分に機能を発揮すると考えられる。しかし、こうした状況が当てはまらないか、あるいは今先崩れていくと予想されるお寺にとっては、今後も生き残っていくためには基本的に三つの道があると考えられる。一つは葬儀全般のサービス業に特化する道、もう一つは現世利益という信仰サービスを提供する道、そして、最後は宗派としての布教活動に注力する道である。