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『意識の病』に取り付かれた主人公が『地下室』と称する自分の部屋でひとり書き綴る手記。後の『五大長編』へと繋がるドストエフスキーにとって『転換点』となった小説です。凄まじいばかりの陰鬱さです。
『ドストエフスキー文学を解く鍵』
後にフランスの作家アンドレ・ジッドをしてこう言わしめた本書は40歳の元小官吏が『地下室』と称する自室に閉じこもり、誰にあてるでもなく書かれた、この世全体をを呪うような内容の『魂の記録』です。具体的には大きく分けて2部構成になっており、第1部では『地下室』と題され、「闘争宣言」といいたくなるような「自意識の病」に取り付かれた文章が延々と続きます。
第2部はその地下室人が16年前の24歳のときに経験した「旧友」たちと娼婦・リーザとの間に起こった出来事をつづった『ぼたん雪にちなんで』であります。全体を通して滲み出てくるのは、本当に巣食いようがないほどの陰鬱さで、本書を読んで地下室仁に向き合うのは相当の『覚悟』を強いられるかと思われます。実を言うと僕はかつて別な方の役でこの小説を読んでいたのですが、『カラマーゾフの兄弟』の翻訳でおなじみの亀山郁夫教授による新訳で本書が刊行されたというので、また性懲りもなく再読を試みることにいたしました。
内容の大半を忘れてしまっていたので、初独と同じような気持ちで読むことが出来ましたが
『こんな内容だったのか…』
ということに改めて気づかされ、読了後はしばらくの間、陰々滅滅たる日々を送ってしまった程でございました。
第1部『地下室』では
「わたしは、病んだ人間だ……」
というなんとも陰鬱な告白体の書き出しでスタートします。ここでは地下室人のいささか長い『前口上』という意味合いがどうやらあるかと思われます。彼は縁に当たる親戚の一人が6,000ルーブル(日本円で約600万円)の金を遺言にして残してくれたことをきっかけとして、長年勤めていた官吏の仕事をさっさと退き、ペテルブルクのはずれにあるアパートへと住み着くのです。そこで彼は誰に見せるともなく『手記』をしたためていくようになっていくのです。地下室人は手記を書くに当たって、自らを取り巻く「世界」を片っ端から否定しにかかるのです。さらには
『歯痛にも快楽はある』
『ニニが四とは、諸君、もはや生命というより、死の始まりではないのか』
という言葉に象徴されるような支離滅裂な『持論』が展開されていくのです。地下室人はいったい何と戦っているのか?読みながら僕の頭の中でこんな疑問が去来するのでした。おそらく『自分自身』と戦っている比率が一番多いのかとは思っているのですが…。
第2部は『ぼたん雪にちなんで』と題され、地下室人が24歳の頃に起こった出来事を描いたお話です。彼の学生時代の同級生と娼婦であるリーザが登場します。個人的には第1部の『地下室』よりも圧倒的に面白かったです。その当時から地下室人の暮らしはだらしがなく、孤独で。職場でもおしゃべりをすることはほとんどなく、職場の人間からも疎んぜられているといううだつのあがらない日常は、本当に読んでいて息が詰まります。そんな日々の中で彼の心を慰めるのは読書でありました。しかし、次第に夜遊びに地下室人はふけるようになります。そんな日々を送る地下室人。
彼の学生時代の同級生であるシーノモフのアパートにフェルフィーチキンとトルドリューホフが来ておりました。その目的は同窓の将官であるズヴェルコフが遠方の地に赴任するというのでその歓送会をしようと打ち合わせをしているところに地下室人がやってきて、自分もそれに参加させろとしつこく食い下がります。
「本気で加わる気ですか?」
とシーノモフに言われたとおり、はっきり言えば『招かれざる客』である地下室人、同級生とも中は決してよくないのになぜ参加したがるのか?なんとか参加の許しを得た彼はオテル・ドゥ・パリで『5時』に行うということを知らされます。コレが後で問題になるのですが…。参加費がなく、手元には9ルーブルしかない地下室人。そのうちの7ルーブルは従僕であるアポロンへの給料へと消えていくのですから。
『囚人のような』学校生活という思い出に浸りながらも、翌朝には行く気満々という調子でおきるというところが哀愁を誘います。なけなしの50コペイカを払って辻馬車を使って会場入りするも彼にはわざと1時間早く時間を告げられ、本当は6時集合という『嫌がらせ』が行われたのを知って地下室人のはらわたが煮えくりかえるものの、宴会はスタートしました。その地下室人が行った乾杯の挨拶がこれまた悪意たっぷりのもので、
「(中略)ムッシュー・ズヴェルコフ。せいぜいチェルケス女をたぶらかし、祖国の敵どもを撃ち殺してください、そして…(中略)」
といい、最後まで彼は無視され続ける羽目になります。決闘まで仕掛けようとするも最後にはすごすごと引き下がってしまう地下室人。挙句の果てにはその相手から二次会の会場であるモードショップ(要するに売春宿)へ行くために6ルーブル借りるというこの女々しさに西村賢太氏の小説の主人公である北町貫多を連想してしまいました。彼は結局
「さぁ、取って。あなたがそこまで恥知らずとは」
という言葉とともに金を投げつられながら。
モードショップに送れて着き、受付に
「連中はどこです」
と問い詰めるも彼らはすでに客として散会してしまったのです。そこで彼は一人の娼婦に出会うことになります。彼女の名前はリーザ。20歳で、リガの出身でした。彼女と地下室人は互いに無言で体を合わせたあと、地下室人は彼女に対して延々と説教をするのです。僕が思うに彼は最悪の部類の客です。ですがここでリーザは彼にほだされ、父親に売られて娼婦になったことをほのめかし、地下室人は彼女に自分の住所を教えます。しかし、ここから彼は自らも惨めな生活を見られたくないがゆえに彼女がいつ来るのか、いつ来るのかということでおびえるようになっていくのです。その間にもシーノモフに借りた金を返すためになりふり構わない行動に出、上司であるセートチキンしに15ルーブル丸まる借金をし、うち6ルーブルを謝罪の手紙とともにアポロンへ届けさせたりしているのです。
そのアポロンとは彼の給料をめぐって陰惨なやり取りをスルのですが、なんとその真っ最中にリーザが彼の元をたずねてきてしまうのです。
「さぁ、出ていけ!出ていくんだ!」
アポロンに買い物に行かせた後で地下室人は『めらめらと燃え上がる支配と所有の感情の中で』リーザを暴力的に抱いてしまいます。
コトが終わった後でリーザは
「さようなら」
といって『ドアのほうにむかいながらはっきりとつぶやいた』のです。テーブルの上には彼女に渡したはずの5ルーブル紙幣が置かれてあり、彼女を追って通りに出てみるもすでに彼女の姿はなく、しんしんと降り積もるぼたん雪の中にたたずむ地下室人の姿があるだけでした…。
彼の『手記』を最後まで読みながらこの陰鬱極まりない世界、自意識のメタファーである『地下室』の存在は自分の裡にも濃密に存在するのだ、ということを再認識しました。そして、巻末に収録されている亀山郁夫教授のエッセイ『革命か、マゾヒズムか』も非常に読み応えがあるものでございました。
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亀山郁夫訳、ドストエフスキー『地下室の記録』新潮社、読了。亀山訳には批判が多い。ただ難解さをありがたがるのではなく、読みやすいのは評価すべきなのでは。文豪の出発点といえる本書が、長編大作への先駆けとなることがよく分かる。巻末には訳者の論考「革命か、マゾヒズムか」が掲載、秀逸なガイドになっている。
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いきなり訳者の論評が載ってるって、おかしいだろ。
最初にそれ読んだら、ニュートラルな状態で、物語が読めないだろう。
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正直に言うと、前半は読み進めるのがしんどかった。
読み進める度に、「こんなに自意識過剰なのでは、どうやって生きていけるのか」と頭を抱え、思考がそこにとどまってしまった。
しかし、後半を読んでなぜ主人公がこうなってしまったのか、納得ができた。
「罪と罰」の主人公には、助けようとする友人や家族、恋人とのやり取りがあり、他者へと開かれている部分があり、それが救いにつながっているような印象を受ける。
そういった他者への希求が全て内向きになってしまっているから、救いのなさのようなものを感じさせるのだろう。
風穴という言葉の大切さに気付かされた。
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筑摩版小沼文彦訳に較べると、亀山訳の主人公は、やや男性的な感じ。
ただ、主人公は、もっとだらしなくみっともない、卑小な人物のはずなので、小沼訳の方が、本来のイメージに近いのではないかと思う。
それから、亀山訳では、「まったく」を「ったく」と訳すなど、ウケを狙っているのか、妙な言葉遣いが違和感。
こういう「新しい」コトバは、すぐに古びるし、作品の品格も落とすので、やめた方がいいと思う。
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言い回しを現代風にするなど、読みやすさに特化した新訳です。
うだつが上がらない地下室人の雑記がひたすら続くという内容ですが、この整然としていない点に人間性があります。
普通の人間が無理矢理に自分の思いを書いている勢いを感じました。
引っ込み思案で苦労する彼の手記には続きがあることになっていますが、その後の人生を色々想像してしまう一冊。
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トルストイ(1828〜1910)、ドストエフスキー1821〜1881)と時代が重なり合う同士であったが、若い頃のドストエフスキーは社会主義の運動で逮捕、死刑執行直前で保釈、小説家となりこの「地下室の記録」をあたかも病んだ、意地悪い男として表現、社会に間接的に抵抗していたのである。巨匠二人ともに時代の背景にある合理化一辺倒の社会主義国ロシアで「幸福、希望、夢」を追った作品は現代では理解できない厳しい規制社会だったに違いない。