紙の本
近代的な身体の終わり
2010/01/01 22:23
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
誰も自分の身体を選べない。自分の親は選べないという言い方はよく
されるが、気が付けば自分の身体も選べるものではない。選べるような
錯覚が生まれるのは、身体はどうにでも加工が可能だ、というような
幻想が市場に流布されるからで、加工可能な身体が「発見された」のは、
実はつい最近のことのようだ。本書はそんな『身体の零度』をめぐる
めくるめく考察の書。
「人はほとんど生まれてきたその瞬間に強力な意味の磁力を浴びせられる。
その社会の言葉によって、表情によって、仕草によって染め上げられるので
ある。」
長らく身体は、単なる生身の身体ではなく、意味の呪縛を大量に
抱え込んだ物体であり、道具であり、兵器であった。
纏足にもコルセットにもその社会特有の意味があり、役割があった。
言い換えれば、身体こそ人間にとっての原初的な文化であった。
では、いかにして人間はまったくのまっさらな身体の零度を
取り戻しつつあるのか?
本書は身体がその社会の生産様式に規定されると語る。
貴族には貴族的身体があり、農耕民には農耕的身体があり、遊牧民には
遊牧民的身体があるように、産業革命以降、人間の身体は、産業的身体、
あるいは戦場的身体を獲得するために、体操や体育や衛生観念や
スポーツを発明してきた。社会に合わせた身体という文化を発達させる
ため、近代の西欧はオリンピックまで復活させてしまった。
身体の零度が生まれてきた背景にあるもの、それは社会の零度、
言い換えれば、ニヒリズムの膨張がみてとれる。そんな意味のない世界に
意味を生み出すもの、新たな価値を創出するものを仮に芸術とすれば、
その根本である身体から様々な虚飾を剥ぎ取った上でさらに芸術的身体を
創りあげることで、人類は初めて、人類として世界を搾取することない
身体を獲得できるのではないだろうか?
日本レコード大賞も紅白歌合戦も、だんだんだんだん踊ってきてる。
天皇陛下がEXILEを鑑賞し、マイケル・ジャクソンの圧倒的影響下で
育った黒人大統領がリーダーシップを振るう世界はやがて、身体の零度的な
フットボールと踊りが日常の南に磁場が移りそうだ。2012年のロンドン
オリンピックにある意味身体の零度の化身のようなスーザン・ボイルが
歌うとしたら、それが近代的産業的身体の終焉を告げるのかもしれない。
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近代化を「身体」を軸に。
農耕的か遊牧的かで舞踏が違う話が面白かった。
全体としては、どこかで聞いた事のあるものが多かったが
(ナンバとか、軍隊とか工場とか体育とか)
その流れをまとまったものとして読めたのは良かった。
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身体の変容から近代化を語る。
特に興味深かったのは「表情」の章。
泣きや笑いというのはそもそも社会から求められているものであり、個人のものではなかったという話。パールバックの「大地」からの引用も面白かった。
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人間の身体とはなんであろうか。それは近代においては、とりもなおさず、「裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体」を意味する。これを著者は身体の零度という。しかしながら、このような身体は「きわめて後世の一般的ではない文化的成果」の結晶なのである。
なぜか。初期の人間は身体を素材とし改良することこそが自然であったからである。つまり、現在自然と思われてることこそ不自然であったのである。
<追記>身体の零度の増幅装置としてレオタードが最も最適な装いであったため、バレエ・ダンスの領域において爆発的に広がったのである。
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高校の教科書にも乗せられたかもしれない。この国の近代社会の成立を「身体」という視点から解きほぐそうとした、ポストモダンが流行っていたそのころ、もう一度近代を見直そうという画期的な仕事だと、印象深く覚えている。ここから、三浦のダンス、舞踏への執着が始まるのかな?
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1. 「身体の零度」を読む
衣服は寒さを防ぐために発明されたものではない、
刺青と同じく機能を持った装飾が起源だというのだ。
だから、衣服は衣装なのだ。
装飾であった衣装が寒さを防ぐ機能的な衣服となったのは近代になってからなのだ。
軍隊は、武器が必要だ。
軍隊は産業を推進することはいまも昔も変わりはない。
近代の機械的工業生産を生み出したモメントのひとつが軍隊だった。
そして、近代機械工場の労働者の理想的身体のモデルも規律化された軍隊だった。
身体を規律して変容させる仕組みを暴いたのはミシェル•フーコーだが、三浦はフーコーの方法論を踏まえて、軍隊の規律が工場労働者の身体的ばかりか、学校に「体育」として埋め込まれて、年少の頃から身体は近代的身体として矯正されていくことを暴いていく。
身体は軍隊のように均一化され、平均化されていく。
我々が当たり前だと思っている身体の仕草、行動、表情までが深く規律によって近代化されていることに慄然とする。
タイトルの「身体の零度」とは、真っ新な身体、生まれたままの裸の身体、刺青も施さない身体、当然衣装を纏わない身体、可塑的で何にでも変容できるニュートラルな身体のことだ。
ただ、そんな理想的な身体(=身体の零度)は存在しない。
現実に自然に産み落とされた身体は、自然に対応するだけで既に不自然な身体に変形されてしまうからだ。それが、存在被拘束性だ。
その拘束から逃れることは現実には不可能だ。
だが、現実には存在し得ない「身体の零度」をフィクショナルな、理念形として設定するのが三浦の戦略なのだ。
理念形としての「身体の零度」を座標軸として設定することで、近代が生み出した身体の変容が見事に捉えることが出来るのだ。
この「身体の零度」が無ければ、近代的身体は生まれない。
そして、その「身体の零度」と言う思想を準備したのが、ルソーだと言うから驚きだ。
ルソーが理想としたのは、本来の人間である自然な身体だ。
自由と自然を理想として打ち出したルソーの啓蒙思想こそが、近代的な規律的身体を生み出す土壌を用意したと言う洞察が鋭い。
後半は、バレエの歴史に紙幅が裂かれる。
後に三浦はバレエへの思いを爆発させる。
その爆発のスプリングポードが本書であったことが分かる。
2. 「身体の零度」を実践する
ここからは、本書を読んでからの実践編だ。
本書を読み終わったら、「身体の零度」を取り戻す実践に進むべきだ。
「身体の零度」は理念形だから、実践は、「身体の零度」を目指す、決して到達しない、ネバー•エンディング•プロセスとなる。
ここで言う「身体の零度」とは、人体の持つ骨格、筋肉を「正しく」使うことだ。
「正しく」とは、骨格と筋肉を無理なく、身体合理的に使うことだ。
言い換えると、人類がその歴史の大半を過ごし、身体を作り上げてきた、狩猟採集時代の身体を取り戻すことだ。
長時間のデスク•ワークで肩と腰がガチガチになる。
時には、ぎっくり腰で動けなくなることもある。
これは、身���が近代的規律に悪矯正されて、「身体の零度」から遠ざかっているからに他ならない。
小学生時代から、授業中は、木の椅子と机に縛り付けられて、身動きは許されない。
教師は、教室全体を見渡して、規律の徹底を強要する。
「身体の零度」をまだ多少は残している小学校低学年にとっては辛い。
じっとせずに歩き回りたい。
すぐに伸びをしてあくびをしたい。
これらは「身体の零度」を取り戻す行為だ。
人は、15分以上同じ姿勢を取ると身体に不調を来す。
学校でも職場でも、15分毎に身体を動かすことが必要なのだ。
お尻を動かす程度でも良い。
でも、伸びをしたり、立って歩いたり出来ればもっと良い。
小学校の授業で15分毎に立って伸びをするだけで、身体は零度の状態を回復するのだ。
小学校の授業には15分毎のリラックスタイムを導入しよう。
人は、座り方を教わったことがない。
しかし、骨盤を後ろに倒した座り方は、腰痛を作っているだけだと言うことを知るべきだ。
特に、柔らかいソファは危険だ。
「身体の零度」を破壊して、ギックリ腰を常態化してしまうからだ。
小学生時代から、「身体の零度」を取り戻す座り方を教えることで、将来のギックリ腰、腰痛から解放される。
小学校で教えるべきは、まずは「身体の零度」を取り戻す座り方なのだ。
一日8000歩歩くと健康に良いと言われる。
しかし、歩行後、足や腰の痛みを感ずる人は多い。
それは、「身体の零度」からかけ離れた歩き方をしているからだ。
足を逆ハの字にして、エラそうに歩く人を良く見かけるだろう。
自分が歩く姿を誰かに動画で撮影をしてもらうと良い。
自分もエラそうに歩いていることに気が付き、愕然とする筈だ。
こんな歩き方をしていたら、歩けば歩くほど身体は「零度」から遠ざかっていくばかりだ。
そして、腰や膝に負担が掛かり、身体は変形していく。
「身体の零度」に基づく歩き方とはどんな歩きかたなのか?
まず、歩き出す前に、両足を平行に並べる。
自分では両足を平行にしているつもりでも、逆ハの字になっていることが多いので、それを正す。
平行にしたまま歩くと、太腿の外側の筋肉が使用されるのが分かる。
狩猟採集民と同じ筋肉の使い方だ。
頭は真っ直ぐに前を見て、背骨を真っ直ぐにする。
背骨を真っ直ぐにする、と言うと大体、胸を反ってしまう。これはバツ。
壁に、踵、ふくらはぎ、お尻、肩甲骨、後頭部を順次付けてみると分かる。
脊骨を真っ直ぐに保つとはこう言うことなのだと、大体驚く。
視線がこんなにも高いのかと感動する。
その姿勢を保てれば、骨盤が後ろに倒れることはない。
ただ、気を抜くと骨盤はすぐに後ろに反ってしまうので、下腹部の腹筋を使って支えてやる必要がある。
あくまで使うのは、下腹部の腹筋だ。
こうして歩くと骨板が固定され、いくら歩いても疲れることが無い。
この歩き方は、人類が狩猟採集時代から行ってきた歩き方だ。
狩猟採集時代といえども文明化が進み、既に「身体の零度」は失われているとは言え、限りなく「身体の零度」に近いも��だ。
「身体の零度」を取り戻すとは、近代に入ってのこの数百年で忘れ去ってしまった、長い間、人類が使用してきた仕方で骨格と筋肉を使うことを思い出すことに他ならない。
少しでも「身体の零度」を取り戻すことで、突然ギックリ腰に襲われることは無くなり、慢性的な腰痛、肩凝りから解放される。
それは、頭痛やその他の身体不調も解消してくれる。
本書からの得た最大の収穫は、慢性的な腰痛から解放されたことだ、と言える。
3. 「身体の零度」の実践者
「身体の零度」は生まれたままの姿だ。
これで思い出すのは、途方もない巨人、南方熊楠だ。
昭和天皇にも侍講し、貴重な粘菌のサンプルをキャラメルの箱に入れて天皇に贈呈したという愉快な人物だ。
熊楠が死去したと聞かされた昭和天皇は、熊楠を偲んで歌を詠んだ。
「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と。
昭和天皇にとってどれだけ忘れ難い人物であったかが窺える。
昭和天皇は、熊楠に「身体の零度」を感じていたに違いない。
その紀伊の巨人熊楠は、山中で粘菌採集に余念がなかったが、家では全裸で過ごしていた、と言う。
正しく、「身体の零度」を日常生活で実践していたのだ。
イギリス大英博物館で研究を進めて、「ネイチャー誌」に多くの英語論文を発表した熊楠は、帰国後は、どの大学にも属さず、在野の学者として、未だ全貌が捉えられない途轍もない業績を残した。
その洋行帰りのエリートが、スッポンポンで生活していた、と聞いて奇異の念に打たれていたが、本書を読んで腑に落ちた。
熊楠は単なる「変なオジサン」ではなかったのだ。
熊楠は、全裸で生活することで、「身体の零度」を取り戻そうとしていたのだ。
彼こそ、正しく、「身体の零度」の実践者だ。
良く、カラオケ•ボックスで興が乗ると、服を脱ぐオッサンがいる。
「見苦しい」と目を背けてきたが、それは「身体の零度」を取り戻すための、熊楠の行為に匹敵する、果敢な試みだったのかもしれないと、本書を読んで考えを改めた。
カラオケでドンドン衣服を脱いでいく「オッサン」と一緒になったら、今度はもっと、温かな眼差しを向け。。ることは出来そうもない。
イギリスで「とにかく明るい安村」が受けたのは、イギリス人が、自分たちが忘れていた「身体の零度」を目の当たりにしたからに違いない。
ただ、安村が「身体の零度」に徹底しきれないのは、残念ながら、安村が近代の生み出した全裸を恥と見做す眼差しを払拭しきれていないからだ。
安村が「安心して下さい」から「安心しないで下さい」に進化した時、彼は真に南方熊楠の境地に達することになる。
安村が真の「身体の零度」の実践者となった時、彼の芸能人生は終焉を迎えることになるが、「身体の零度」の体現者としての栄誉(?)は手にできるだろう。
4.「身体の零度」の射程
「身体の零度」は人類の持つ原初の、フィクショナルで理念形としての身体のあり方だ。
それは、人類の歴史を直線として眺めるとよく分かる。
ホモ・サピエンス登場から250万年。
その大半は、狩猟採集時代だ。
しかし、他の��モ族を含む人類の登場は、600万年前だ。
人類(ホモ族)はその大半を狩猟採集によって生存してきた。
農耕の開始は、たかだか1万年前。
これは人類600万年史の0.00004%に過ぎない。
こうしてみると、狩猟採集と農耕を併置することがいかにミス•リーディングなことであるかが分かる。
そして、人類の身体を零度から大きく引き離した近代は、ほんの200年に過ぎない。
これは人類600万年の0.00000033%に過ぎないのだ。
身体の零度を取り戻すことが、近代以前の農耕時代の身体を蘇らせることではなく、それに遡る長大な狩猟採集時代の身体を取り戻すことであることが分かるだろう。
それが一番人体に負担の無い身体の使い方でもあるのだ。
この600万年にもわたる長大な射程を「身体」にではなく、「知性」に焦点を当てたのが中沢新一の「カイエ•ソバージュ」(野生のノート)だ。
中沢はその「知性の零度」を「流動的知性」と呼び、その復権を企てる。
そんな太古の知性など近代的知性に比べたら大したことないだろう、などと言う勿れ。
太古の知性の、その凄まじい衝撃力のヴェールを初めて剥いだのがレヴィ•ストロースだった。
彼はオーストラリアの未開民族のインセスト•タブー(近親相姦の禁止)を探ることで、複雑な親族構造をさぐり当てる。
それを現代数学の天才アンドレ•ヴェイユ(哲学社シモーヌ•ヴェイユのお兄さんだ)は、20世紀になって作り上げられた現代数学の最先端である「群論」の一部であることを見出したのだ。
つい最近発見された現代数学の最先端理論を、人類は何万年(若しくは何百万年)も前に知っていたのだ。
知っていただけではなく、有効活用していたのだ。
これこそ「知性の零度」「流動的知性」に他ならない。
現代数学は、「知性の零度」「流動的知性」と言う豊穣の成果の中から、成果の一部を拾い出してくる作業なのかもしれない。
全ては太古の思考に存在している。
レヴィ•ストロースは600万年にもわたる「知性の零度」「流動的知性」を、「野生の思考」=パンセ•ソバージュと呼んだ。
そして、次々と発見される「野生の思考」を、「構造」と呼んだのだ。
だから、構造主義は、イデオロギーではなく、方法論だ。
その構造主義的方法論の一つの成果が、この「身体の零度」だと言える。
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身体の動きや認識・感覚を考えることで人類が生存してきた歴史における近代化・文明そして民族性などを省察する論考である。部分部分は面白く意表をつき納得できるが、読み終わって全体としては「はて、何を言いたかったのかな」という感じである。
「身体の零度」という言葉自体、あくまでも作者の思考のなかでの概念であり、自己満足の用語に思えてしまう。しかし幅広い読書による豊富な知識とユニークな切り口・説得力のある論理展開に惹かれて最後まで読めた。演劇や舞踊・ダンスの人間にとっての本質的な意味を問う評論でありエッセイであることはよくわかる。東洋的な摺り足の踊りに対して飛び跳ねるダンスは西洋的とし、最後のまとめで「舞踊は長く原初生産性のもとにあった。それは農耕民の舞踊であり、遊牧民の舞踊であった。だが、いまそれは、近代によってもたらされた身体の零度に根ざす総合芸術、いや、芸術以上のものになってきたのである‥‥身体によって、宇宙における人間の位置を確認する行為だった。」という。
たまたま、「大地」を読んでいる途中だったので、それを引用しての立論のくだりには共感・触発されるところもあったが、しかし何故ここで唐突にパール・バックの「大地」なのかという気もする、牽強付会を感じる。今読んでいる故に感じる微妙な違和感により、他の引用もこういう強引な面もあるのかと思えてくる。その本を読んでいない人には、自分はここに出てくる文献は殆ど読んでおらず作者の名前すら初めて聞いたものが多い、作者の訴えようとしているニュアンスは伝わりにくい。
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ー 身体が過剰な意味の場所でなくなったのはつい最近のことなのだ。人はタブラ・ラサの状態で生まれてくるが、生まれてきたその場所は濃密な意味の磁場なのである。人はほとんど生まれてきたその瞬間に強力な意味の磁力を浴びせられる。その社会の言葉によって、表情によって、仕草によって染めあげられるのである。
身体がたんなる身体、だからこそ貴重な身体と見なされるようになったのは、いったいいつの頃からなのか。そしてそれはどのような背景を、どのような意味をもつのか。この半世紀、日本人の身体は大きく変わったといわれるが、それは身体をめぐるタブーからの解放となんらかの関係があるのだろうか。あるとすれば、それはどのような関係なのだろうか。 ー
亀裂、加工、表情、動作、軍隊、体育、舞踏という章題の構成で面白い考察。
『かたちだけの愛』を読んで、鷲田清一を読みたくなり、その流れで読みたくなった一冊。
これも学生時代に買ったから積読20年物。