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我が国の家庭裁判所のありかた、その成立の経緯などを踏まえた上で、作者が一番興味を持ち取り組んでいたであろう、少年の更生、少年法についての考えを深めていく。
未成年が犯罪を犯すということ、その背景として考えられること。そして、その更生について、毛利氏の考えを遺すものとなった。自分に残された時間を見つめた上で書かれた言葉は、遺されたものたちに伝わるものとなった。
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タイトル通り、著者の遺言となってしまった。『家栽の人』は単行本でも文庫本でも読んだほど好きな作品だったけれど、その原作者である氏については何も知らなかった。『家栽の人』を書き始めたいきさつ、作品がヒットしてからの苦悩、少年法改正反対運動への関わり、そしてガン告知。「非行を犯した少年が自分たちの共同体の一部であり、やがて合流して社会生活を営まざるを得ないという、ごく平凡な事実」を受け付けようとしない日本社会への警鐘。非行少年の社会への合流を手助けしている人たちの実例が心強い。
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ウクレレのコードをひとつ弾けただけで、奇跡にでも出会ったように顔が輝く少年がいたりする。三ヶ月の間、押し黙ってひとことも発しなかった少年が、ある日うっすらと微笑みながらウクレレを抱いたりする。
少年の変化はまるで箱庭を見るように小さく、しかし劇的で、彼らは自意識が発達していないためか、変わった自分を隠すことも知らない。ぼくはそこに、自分の人生ではなだらかすぎて見えない人間の原型を発見して驚嘆しているのかもしれない。ほんとうにビックリする。そして、その法悦の味は、えもいわれぬ強烈なインパクトを持っている。
ごく普通の体験が、彼にとっては初めての、とても大きな体験だったのだと直感して、その変化を目撃するぼくもまた強い衝撃と快感を覚える。その喜びは突然やってきて、その場で消える。誰かに伝えようとしても、おそらくうまく伝わらないだろう。
しかしそのようなわずかな少年の変化を喜ぶことが出来るのは、そこが少年院という無菌室の中だからだ。少年たちは理解していないかもしれないが、少年院の中には保護主義と国親思想にのっとって少年を立ち直らせ、救おうと考える人間しか存在していない。
少年たちがいったん仮退院となり社会というリングに出て行けば、彼らは容赦なく能力差別のパンチを浴びせられてコーナーに追いつめられ、棒立ちになるだろう。(130p)
毛利甚八氏の文体には、大きく分けて三つの特徴があると思う。
一つは、「BE-PAL」や「山と渓谷」のライターを長年やって培ってきた、事実を丹念に取材し、それをわかりやすい文章に落とし込む技術をもったジャーナリストとしてのソレである。
一つは、志賀直哉やニューヨーカー派の短編の文体を模倣しながら小説家になることを夢見、「家栽の人」原作を受け持っても毎回最後まで唸りながら推敲を繰り返し完全小説体で原稿を渡す、詩人の魂を持った者としてのソレである。
一つは、「家栽の人」ヒットに溺れたりせずに却って桑田判事のような裁判官が居ないことに悩んで連載を中止し、その後に起きた神戸連続児童殺傷事件による少年法叩きに憂える。大分に住居を移したあとに少年院でウクレレを教えるようになるのもその憂いの一つであり、余命僅かな時に「少年問題ネットワーク」の代表として、佐世保高1同級生殺害事件の加害者を「安易に裁判員裁判にかけさせず、逆送を選択せずに家庭調査官の徹底した調査を行う」よう要望書を最高裁に提出するのもその一つである。まるきり家庭裁判所と関わりなかったライターが、一つの社会的な話題を作った物語を書いた者の責任として、「少年」のために生涯をかけた。そこにあるのは、まさしく「桑田判事そのもの」一言で言えば「優しさそのもの」の姿である。その姿が、含羞を含み思いやりに溢れた文体そのものにも現れる。
190pのインターネット上の「名無し」さん批判、193pの少年法批判は非常にコンパクトにまとめられていて説得力があるが、字数の関係でここには書けない。是非少年法叩きをしている人たちは読んで欲しい。
57歳の若さで癌のために逝った著者は、余命半年と言われて一���有半生きて、最後に佐世保高1同級生殺害事件の彼女のために4回に渡って手紙形式の文章を書いた。
ぼくは今、自分の生命について書くために、君という光を必要としている。自分の生命のとなりに、他人の生命を並べて眺めることによって、やっと朧げに生命の輪郭をさぐることができる。(178p)
著者の伝えたかったモノは何か。時には私小説風に、時には市民運動のルポ風に、時には自伝風に、時には仏教哲学風に、著者は書いた。それら文体の変化が、宝石のように輝いて、まるで中江兆民最期の華作「一年有半・続一年有半」とだぶって仕舞う。私には届いた。彼女に、届くことはあるだろうか。届いて欲しい、と切に想う。
2016年1月4日読了
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昔雑誌(多分ビックコミック?)でよく読んだ『家裁の人』
の原作者の毛利氏の遺作?
著者は昨年ガンで亡くなられていたことを知りました。
佐世保の高校1年生が同級生を殺害した事件の加害者に
あてた手紙という形式で著者の悩みと闇と加害女子に
あてたメッセージが心に残ります。
被害者や被害者の家族にとっては、そんなに甘い話
ではないかと思いますが(それも十分分かる気が
するのですが)、加害少年少女に対する暖かく
厳しいまなざしが本当に必要ではと思える内容です。
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家栽の人の原稿を書く中での苦悩の話を読んでいるとなんだか泣けてきた。
家栽の人は、当時の裁判所から取材拒否されたから、ほんとにモデルのいないまま、書かれたらしい。そして、漫画をきっかけに当時の実際の裁判所を知るようになり、裁判所に桑田判事がいないことが苦しくて、連載に悩むようになる。でも、その後、高校生時代に漫画を読んで法曹を志したという弁護士に会い、ああ、自分は未来の物語を書いていたのだとの思いに至ったとのことです。
実際の大きく報道された少年事件についてもいくつか書いてあるけど、毛利甚八さんの優しさがにじみ出ていた。
家裁の審判は、少年たちの人生の中では重要な転機ではあるけども通過点なのだと当たり前のことをおもう。
「裁判所に桑田判事はいない」と絶望されるのはかなしいことである。
自分としては、少年審判は、すごくやりがいと意気込みをもって、担当しているけども、少年や親にしみいるような言葉、っていうのは、どうしても、なかなかむずかしい。でも、考え続けている。同じことを思って、少年審判に臨んでる同世代は多いと思う。そもそも若い世代に少年審判を担当させること自体、よからぬと思われているのだろうか。