紙の本
「地図で戦争の時代を読む 戦争の時代の地図を読む」(「はじめに」から)
2011/08/14 00:07
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:玉造猫 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「地形図を作り始めたのは、どの国でもたいてい陸軍である。――国を守るためには正確な地図が必要であることは当然である。一方で、他国を侵略するにも、先立つものは地図であった」(「はじめに」)
世評によれば著者は地図読みの第一人者だそうで、厖大な地図のコレクションを下敷きにした鉄道や地名に関する著書がある。その著者が「世界を見れば戦争のない時代はなかった。今も戦争は続いている」という気持ちから、本書を書いた。
戦争への著者の視点は、次のようだと見てよいだろうか。
「東京大空襲で10万人以上が犠牲になったという記述ではなく、いつも買い物をしていた本所区亀沢町の乾物屋さん一家が一人残らず亡くなったという視点」
「原爆ドーム界隈にはかつて家が建て込んだ市街地があり、一発の爆弾によって住民の生活は一瞬にして消え去った、それが具体的に何を指すのか、戦争を知らない世代の一員であっても、少なくとも想像する力を持ちたい」(「あとがき」)
そうした視点で著者が地図の上に見る戦争は、空襲のほかに建物疎開、植民地の地図、戦時改描つまり軍事施設や工場・貯水池などを秘匿するため空白にしたり代わりに住宅地などを描いたもの、軍事施設がその後どうなったかなどの内容で本書に展開される。
どれも興味深いが、なかで日本領だった台湾の地図ははじめて見るものだった。
1927年大日本帝国陸地測量部発行の5万分の1地形図「嘉義」。駅前の東洋製糖工場を目指して線路網が集まっている。まわりは水田記号は少なく、畑地になっている。自給自足的な米作地帯に単一作物の砂糖の大規模農業を大資本の力ですすめたことが見てとれる。もう一枚は1936年発行の雑誌『キング』付録「日本遊覧旅行地図」で鉄道路線図だが、台湾西側の海岸線にぎっしり敷き巡らされた鉄道は新高製糖、台湾製糖など7つの製糖会社の鉄道である。地域がそれぞれ製糖会社に分割され、地域のサトウキビ農家が決められた会社に納入したと著者は書いている。
東京練馬区赤羽の戦中から戦後への変遷は、4枚の地図で移り変わりがまざまざと見て取れる。
1枚目、1928年の赤羽は東京近郊の農村地帯だった。1942年ドゥリットル空襲を受けてここに成増飛行場を突貫工事で急造した。2枚目の地図は集落や農地をつぶして幅広いL字型の地面にならしているが、当然だが飛行場の表示はなくて畑地のマークになっている。敗戦により飛行場を米軍が接収し、米軍の家族宿舎「グラントハイツ」になった。アメリカ第18代大統領グラントに因む名という。3枚目の地図では広い基地内にゆったり配置された住宅や学校などの様子がわかり、隣接する練馬区の住宅密集地帯との差が一目でわかる。池袋から進駐軍専用列車が直通したが記載されていない。その後1973年に基地は全面返還された。4枚目の地図ではグラントハイツの場所は光が丘と名が変わり、公園や団地を配置した広いニュータウンになっている。
現在の東京ドームが、かつては東京砲兵工廠だったことも地図から読みとれる。
それにつけても、大阪、それも大阪城のすぐそばに住むわたしとしてはやはりもうひとつ、この本で書いてほしかったことがある。
大阪城と大阪砲兵工廠の変遷を書いてほしかった。かつての軍都大阪の戦前戦後を地図の上で見せてほしかった。師団司令部その他の施設が大阪城と周辺に密集し、まわりに砲兵工廠が連なっていた。敗戦前日の大空襲で廃墟と化した後、工廠跡は長いあいだ鉄の残骸の山であったのが、大阪万博を機に公園に変身した。今、梅や桜のきれいなこの公園が東洋一の軍需工場だったことを思いだす人はあまりいない。この変遷は地図の上ではどう描かれていたのだろうか。
本書は、ウェブに発表された短篇を編集されたものということなので、大阪の地図上の戦争の時代については、本書の続きとして、またいつかの機会にウェブででも読ませてください。お願いしておきます。
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本屋さんで偶然見つけた本。この著者の他の本も読みたいな。面白かった。一枚の地図からこれだけ多くのことが読み取れるんだということが単純に面白く、その方面の才能に乏しい自分としては、こういう見方ができる著者のような方を尊敬してしまう。
残念なのは、作中の地図がモノクロでなので、慣れない私には見にくかったこと。カラーだったらもっと良かったのに。制作費の都合があるから仕方ないと思うけど。
戦時中に改描された地図がたくさん載っていますが、知らなかったらこれ、本物と偽者の見分けつかないよね…。間違った情報を信じて後世の人が判断を下すとしたら、改描の罪は大きい。私たちは地図についてもリテラシーを身につけなくてはいけないと思いました。
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例えば西新宿の異様なビル群だったりとか、再開発地域だったりとか、昔ここは何だったのか?ということが割と気になるので、かなり興味深く読みました。
第二次世界大戦後、ドイツで戦争未亡人たちが手作業で瓦礫処理をした結果、山ができた、みたいなびっくりするような話が満載です。
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著者は、鉄道を中心に地図を解説した著作を数多くだされている。あとがきにも“一介の地図愛好家”と書かれているが、その歴史観の根底には、しっかりしたものが流れている様に感じた。
本書の多くも鉄道が取り上げられているが、戦争との関係では重要なインフラであり、地図を語る上では避けられないだろう。そこから庶民の生活も読み取れる。
地図と歴史をお好きな方には、肩のこらない良書だと思います。
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今でこそ本屋さんに行けば(行かなくともネットで)簡単に地図を購入することができます、少し大きな書店に行けば、精巧な地図も手に入れることは難しくないことでしょう。
しかし今から60年ほど前の戦時中は、最大の国家機密であったと当時に、地図には敵を欺くための改竄までされていたそうです。
この本は、戦争前後の地図を見ることによって、それらが戦争によってどのような影響を受けたのかを解説しています。地図好きの私にとってはとても興味の持てる本でした。
以下は気になったポイントです。
・一日平均の乗客数が約350万人という世界一の新宿駅も、昭和7年(1932)に大東京として広大な郡部が編入されるまで、その所在地は東京府豊多摩郡淀橋町であった、それ以前に市内だったのは現在の新宿三丁目付近まで(p23)
・鉄道省は昭和になってから小回りのきく気動車を導入して専用駅を新設したが、石油禁輸後(1940)は気動車をとめて、駅も廃止した、電車の駅も利用者の少ない駅、間隔の狭い駅は廃止となった(p36、58)
・勝鬨橋の命名は、明治38年1月、日露戦争で旅順が陥落したのを記念してである、現在の町名が「勝どき」となっているのは、昭和40年当時に「とき=鬨」が当用漢字に指定されていなかったから(p63)
・満鉄付属地は、主要駅の周囲に指定されたエリアであり、内務省の若い官僚たちは、日本国内でなかなか進捗しない都市計画への夢をそこで思う存分に実現させた(p98)
・昭和4年ころのインドは、多くの港湾都市が、イギリス以外にも、フランス、ポルトガル、オランダ、デンマークによって植民地支配されていた、返還されたのは1950~60年代(p113)
・魚釣島は1884年ころから日本の羽毛採取業者が住み着いたが、島の大噴火により小笠原の鳥島のように島民全滅という悲劇を被っている(p119)
・ドイツ領だった東プロイセンの南半分はポーランドに与えて、北半分はソ連領としたので、ドイツ騎士団以来の歴史あるケーニヒスベルク町はソ連のロシア共和国の飛び地として編入、1946年にはカリーニングランドとして名前をも変えさせられた(p132)
・地図は基本的には軍事極秘(秘<極秘<軍事極秘<軍事機密)であったが、紛失した場合の厳罰のため、戦場の混乱の中で紛失した場合を考慮して「戦地に限り極秘」と秘密のランクを一つ落としていた(p151)
・日光と言えば観光都市が有名であるが、かつては山中の一大鉱山都市であった(p178)
・太平洋戦争の敗色が濃くなってくると、非常時を理由に全国各地の私鉄が買収された、南部鉄道もセメント製造にかかわる重要路線とのことで、国が買収し今に至っている(p183)
・新政府は水戸藩邸を接収して、明治11年に東京砲兵工廠を置いている、当時は、海軍造兵廠、横須賀海軍工廠、大阪砲兵工廠とともに四台工廠として、帝都の大武器製造工場として陸軍装備を充実させた(p199)
・後楽園球場のよこには競輪場もあったが、美濃部知事がギャンブル全廃を��言して、1972年を最後にレースは中止、東京ドームは競輪場跡(p200)
・昭和40年に開園した多自然型遊園地「こどもの国」は、戦前には東京陸軍兵器補給廠で(弾薬庫)であった(p208)
・船橋にあった送信所の活躍により、1923年におきた関東大震災で、大きな被害を受けた関東地方の状況を世界中に発信することができた(p218)
・近衛師団司令部の建物は今も残されて、国立近代美術館の工芸館として往時の姿を保っている(p228)
・山手線は日本最古の私鉄とされる日本鉄道が明治18年に開業した品川~赤羽の路線をルーツとする、上野と新橋は市街地が広がっていたので渋谷や新宿(山の手)を経由して上信越地方の産物(生糸)を横浜へ運んでいた(p245)
・新橋から品川を経て赤羽まで、蒸気機関車が1日数往復するローカル線、開通初年度にできた途中駅は、目黒、渋谷、新宿、目白、板橋のみ、環状運転となるのは大正14年(1925)であった(p245)
・明治31年(1898)には、横浜駅を経由しない列車が走り始めた、新橋発神戸行の急行列車は、品川をでると次は程ヶ谷(現・保土ヶ谷)に停車した(p250)
2011/7/24作成
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戦争(主にアジア太平洋戦争)にまつわる地図上の変化や痕跡を多数紹介.空襲の跡,鉄道路線の変化,植民地,戦時改描,軍事施設跡の利用状況など.深く掘り下げたものではないけどガイドとして有用
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本の雑誌で、「名指揮者が楽譜を読むように、地図も読み手によって見えるものが全然違う」と名言をおっしゃっていた今尾さんの本。地図の読み方がすごいのはもちろんだが、そのベースに、権力の地勢にとらわれずに土地上の人々の暮らしにもとづくものの見方が信頼できて、安心できる。自分が地図好きだったらもっと楽しめただろうな。
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特に目新しい(へーとかほーとか)思った内容はなかった。
内容の重複が多かったため、雑誌連載の書籍化と思って初出を確かめたら、出版社HPに連載されたものだった。要注意
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参議院議員選挙開票の日に読了。タイミング的にも内容的にもばっちり嵌ったかたちで読み終え、大いに考えさせられた。地図から読み解く戦争の経緯、そして爪跡。日本が何をしてきたか?または何をされてきたのか?
地図は冷静だ。思想の左右は関係なく図上に結果が記されている。なにかきな臭い機運が上がり始めている今こそ、この本をきちんと読み、これからのことを考えた方がいいかもしれない。学ぶ部分がとても多い。ここに載っている結果以外の選択肢を選ぶべきだと思った。
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昔の地図を眺めるのは楽しいけれど、改めて昔の地図眺めてみようかと思えた一冊。
戦時改描自体は知ってたけど、まぁこれほどまでに稚拙な表現だったとはねぇ。筆者は色々と考察してるけど、一番の理由は人出が足らなかったのではないかと思う。
なかなか面白く、読みやすく本だが、白黒のため地図が見づらいことと、筆者の要らぬコメントが何点か目についたのが残念。
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2枚の地図を比較することによって、戦争前と戦後の違いを見ることができる。また、戦局が厳しくなるにつれ、地図に記載される軍事的に重要と思われる情報(軍港、飛行場、師団本部等々)が消えていくことがわかる。
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自分も地図を眺めるのはキライじゃないが、これだけの情報を地図から読み取れるとは。やはりその道の達人は違うと感心する。
戦争を経て変わる土地の様子を年代ごとの地図で追うのと、軍事施設を地図上から隠してしまったりする戦時改描が2つのテーマ。
・観光用の路線などは廃止して線路を供出。鉄道の上り坂を迂回して補助機関車を不要にして輸送力アップ。駅を間引きして燃料節約。
知恵はあるが、余裕がない。。。
・ベルリン市街には瓦礫でできた小山がある。木造建築だった東京との違い。
・しかし、ちょっと前まで等高線を描いてあった地図を慌てて改描しても遅いのでは。やれることをやるということだろうが、やっている姿勢を見せるのが肝腎の官僚主義の香りもする。
・見知った場所の地図も。変なところだと思っていたのが腑に落ちたり。
新川崎の操車場は荒地に改描、しかし戦後にホントに荒地になる。。。船橋市行田の「丸」は通信所。光が丘公園は成増飛行場→グラントハイツ跡。
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戦時中に改描された地図(軍事施設や工場等を住宅地や畑などに偽装して書かれた地図)や、空襲で更地になった市街地の地図上の描写など。必ずしも笑えない今日この頃ですが。