紙の本
― 気になるバタイユ 熱くさまようその人物と思想 そして著者からのメッセージ ―
2008/11/05 19:19
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:レム - この投稿者のレビュー一覧を見る
バタイユ・・・実に気になる名前である。
フランスの現代思想家、ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille 1897-1962)は、「死とエロチシズムの思想家」と呼ばれた。 三島由紀夫にして「ぼくが現代ヨーロッパの思想家で一番親近感を持っている」と言わしめたバタイユである。 そして三島は、この発言の数日後に市ヶ谷駐屯地で自決する。
バタイユは、25歳でカトリック信仰を棄教してからというもの、連日連夜、売春宿で無節操な性生活に浸り、その凄まじいまでのエロチシズムへの追求を死姦の妄想にまで高めてしまう。 彼の多数の著作の中でも『エロチシズムの歴史』、『エロチシズム』や『エロスの涙』では、エロチシズムの臨界点と死との関係や、その境界を超越して到達できるとされる「聖なるものへの覚醒」について問い、人間が本来持っている思考の一端を露にしようと試みている。
そのバタイユとは、いったいどのような人間であったのか、そしてその思想はいかなるものであるのか。 本書は、バタイユの生涯を大きく第I期から第IV期まで四つの時期に分けて、彼の人生を織り交ぜつつ彼が繰り広げた複雑な思想と重要な関係者について解説する。
なお、バタイユの死については、本書の中ではある場所にそれとなく記述されているのみである。 これは、「西欧が西欧であり続ける限り、バタイユのエロチシズム論は滅びはしない」との著者の言葉通り、死後もなおその理論が生き続けていることの暗示に思え、本書をもって、「熱くさまよう」生きたバタイユの思想を広めたいという著者自身の意図をも体現した構成となっているように感じた。 また、あとがきには、バタイユ理解を深めるための推薦図書の標題とともに参考になる解説文が付してある。
著者は東京大学卒業後にパリ大学へ留学し、バタイユの研究で博士号を取得している。 ところが意外なことは、バタイユを研究対象としたことに対して、フランス本国のアカデミズムから著者自身が冷淡な扱いを受けたことだ。 西欧主義は、その思想を論ずる部屋に続く大理石の階段を上らない者を今日でもなお差別するのだろう。 つまり、その概念世界の洗礼を受けてこれに帰依することが議論を始める前提なのだ。 ゆえに、カトリックを棄教したバタイユは異教徒のごとく扱われ、その研究者に対しても理解の門戸すら閉ざそうとしたのだろう。
バタイユの思想は、反西欧近代的概念を打ち出しただけではなく、同時に既存の西欧思想との意識の往復をも提唱したのではないかと思う。 今日の西欧は、これを受け入れる前夜の状態で、翻って考えるに西欧思想にはまだパラダイムシフトの余地が残されているのかもしれない。 そして同時に、著者の手によるこの入門書を通じて、西欧主義に流されている我々日本人に対して、バタイユが遠くから警鐘を打ち鳴らしているようにも思える。
本書は、この手の図書ではとかく難解になりがちな哲学・思想が、平易な文章で表現されている。 このことは特筆すべき点であろう。 著者はこの姿勢について、「難解なことを難解なままに語るのは容易な作業」であって「平易に語る困難さを避けてきた知識人への批判意識」があるという。 全編を通じて綴られている贅肉をそぎ落とした明晰な文体も、この著者の努力の結実である。
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「大人は、「行動」を第一に重視するから、自分のなかの子供を悪とみなし極力抑圧しておこうとする。子供らしさを発露させたならば、とても「行動」など実現できはしないのだ。そして大切なのは、大人のなかの子供は、発露されると、抑圧されてきた分、子供の無垢な遊びからは想像もつかない恐ろしさを呈するということである(220)」…バタイユ難しい。倫理嫌いの自分にはハイデガーとか出てきた時点で頭が硬直する。この倫理恐怖症もなんとか治らないものか。
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[ 内容 ]
聖なるものへの覚醒とはなにか。
エロチシズムとはなにか。
熱き情念に突き動かされながら、人間の思考のあり方を問い、その限界の彼方を指し示した人バタイユ。
ヘーゲルを頂点とする西欧文明における理性の体系に対し、彼は「非―知」「好運」を看板に掲げて果敢に戦いを挑みつづけた。
現代のヨーロッパはいまだ彼が投げかけた問いのなかにあるといえるだろう。
そこにバタイユの思想を問う意味があるのだ。
「死とエロチシズム」の思想家といわれて久しい彼の活動の全貌を新たな視点から明快に解き明かす、若い読者のための入門書。
[ 目次 ]
第1章 信仰と棄教(生涯と作品 ベル・エポックと父親 ほか)
第2章 聖なるものと政治(スペインからシュルレアリスムへ 『ドキュマン』時代の試み―低い唯物論 ほか)
第3章 極限へ(「力への意志」から「好運への意志」へ 「非―知の哲学」 ほか)
第4章 明晰性の時代(冷戦構造と核戦争―政治・経済の問題 文学の至高性 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
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読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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現代フランスの特異な思想家バタイユを、とくにニーチェ、ヘーゲルと対比させつつ解説している。
バタイユは、理性的なものを引き裂いて非理性的なものが現出する瞬間を重視する。彼の思想は、そうした瞬間に生じる至高的な体験に基づいている。ただしそうした至高的な瞬間は散発的であり、現出すると同時に解消される運命にある。
この点で、バタイユは、ニーチェの「力への意志」を批判する。「力への意志」は、つねにみずからを高めることをめざす「力」(puissance)だ。バタイユが主張する「力」(force)は、それが現出するや否やただちに異議申し立てを受けなければならないような、「弱い」力である。そうした力の現出する一瞬に賭けることを、彼は「幸運への意志」と呼んでいる。
またバタイユは、ヘーゲル=コジェーヴの弁証法的な総合のプロセスから逸脱するような力が存在することに眼を向け、そうした力の現出を、文学や芸術の内に見ようとしていた。
本書は、きわめて明晰な言葉で書かれたバタイユの入門書だ。ただしバタイユに惹かれる読者には、そうした明晰さが必ずしも肯定的に受け入れられないのではないだろうかと、余計な心配をしてしまう。
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そもそもバタイユの本を読んだ量があまりにたりなかったせいか
この本の内容をただうわすべりながら理解していったようなかんじがした。
でもなんか面白かった。
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五つ星の評価は、
著者の酒井氏への綿密な研究成果に対してです。バタイユ自体には、たいした興味はありません。こわいものみたさの好奇心だけです。バタイユの思想や評論は面白いものがあると思いますが、プラス・マイナス=ゼロと言ったカンジでしょうか。
この書籍の端々に、海外で、マイナーな思想家を研究することの大変さがうかがえます。
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入門らしくバタイユ初心者の自身にとっては非常に読解しやすかった。
昔ほどバタイユに興味が持てなくなったのでレビューはまた再熱した頃に。
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バタイユが肯定する唯物論とは「人間心理や社会に関する事柄」に直接的に立脚している唯物論である。
「人間のばかばかしくて恐ろしげな闇」=無意識
フロイトは医者。西欧人の自我を救おうとした。バタイユは違う。エスの立場から超自我への西欧人の偏執を批判する。バタイユはエスに立脚する。
超自我のエネルギーはエスから供給される。バタイユもまた西欧人としての超自我の責めに苦しめられた。
革命の沸騰状態が人間の目的であり価値であるということは、そこで人間が何にも従属せずに生きられるということである。バタイユにとって革命は、近代の西欧が引き裂かれて非西欧が現出する時空だった。
p.116 〈悲劇的なもの〉すなわち聖なるものは、聖遺物や磔刑像などの事物それ自体を指すのではない。これらの事物に接し内部の力(フォルス)が刺激された場合にその人間のなかで起きる_かもしれない_恐れと喜びの感覚のことだ。聖なるものは、主客の出会いの状況、主体の状態や感性などがうまく作用したときに、主体の側で一瞬生じる。偶然性に左右され、また生誕しても持続しない、不確かなものなのだ。
p.130 力(フォルス)が強さ(ピュイサンス)になり権威となって革命を引き起こしているとき、この熱き強さ〔=権威〕は人間にとって最高の価値であると、到達すべき善、達成すべき目的であるとバタイユは考えていた。
〜
体験それ自体が権威なのであるが、その権威は罪ほろぼしをしなければならない。このブランショの助言の意味するところは、体験の権威は体験のさなかにだけあって、体験が終了すると自らを打ち消さねばならないということである。つまり権威は持続せず、自分を否定してゆく、もしくは異議申し立ての運動に自らをさらして滅びるがままになる。あるいはこう言い換えてもよい。シエナの大聖堂のように真面目さに硬直して滑稽に見えたとたん笑いとばされてしまう、ということである。
p.139 「力への意志」は、つまるところ、個体を富ます思想だったといってよい。そしてこの教説は、非個体化を求めるニーチェの他の重要な教説(「悲劇」、「ディオニュソス的なもの」、「大地への愛」、「運命愛」、「神の死」、「遊戯」等)と根本的に矛盾をきたしていた。
p.142 「非ー知の夜」は哲学が消滅する所、哲学が哲学外のものに開けていって消えゆく所である。
〜
一貫性のなさ、無秩序、矛盾、これが浮遊する思考の特徴だ。もう一つ特徴がある。目的に向かう持続力の欠如、言い換えれば不連続性、瞬間せいである。バタイユは何か一つの目的をめざす「企て」、およびその行為(彼の用語では「行動」)に思考を従属させない。ある課題を論証する思考(=推論的思考)は、「企て」に則った「行動」の一種である。「行動」はすべて一つの目的に従属している。バタイユは思考を目的達成という持続的ノルマから解放し、自律性を回復させてやる。思考はもはや瞬間ごとの運動となり、相互につながりがなくなる。
〜
浮遊する思考は「好運への意志」だといえる。
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浮遊する思考は、「好運」の体験が訪れたとき、そこで自分が消滅することを快く受け入れる。いや、これを非理性的に欲するのだ。「断言がもう少し先のところで消滅することを欲する運動」になりきるのである。
バタイユは、浮遊する思考を実践して、思想史上はじめて非力さの哲学を呈示した。
p.163 「内的体験」の極限では、人間の抱え持つすべての対立、すべての矛盾が次々に発現し交錯してゆく。この矛盾の集大成がバタイユにとっては「総体性」であり、それを生きた者が「全体的人間」である。
〜
「結局、全体的人間とは、その内で超越性が消滅する人、もはや何ものも分離していない人のことにほかならない」
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バタイユにとって超越性とは個体のことである。樹木や自動車といった個物、外から眺められた場合の人間、国家という有形の共同体、そして一神教の神だ。「キリスト教は聖なるものを実体化〔=個体化〕した」というのがバタイユのキリスト教神への基本テーゼである(「聖なるもの」1939)。聖なるものは本来、主体の意識のなかにしか存しない主観的なものだ。そして偶発的で瞬間的で無意味のものである。キリスト教はこれを主体の外へ実体化して、必然的で永続的で意味に満ちたものに造り変えてしまった。換言すれば、聖なるものの外側に出て“知る”という俗なる行為を発動させて、聖なるものを概念化してしまったのである。そしてこのことに満足してしまった。
ハイデガーはニーチェを「力への意志」説の哲学者と規定して、ニーチェとの対決をはかろうする。動くニーチェをあえて固定化する。
p.187 バタイユは「存在」を力(フォルス)と捉えていた。「聖なるもの」は物体ではない。力(フォルス)の伝染なのだ。「非ー知の夜」のなかで力(フォルス)は概念としては滅ぼされるのだが、バタイユはしかしこのとき、裸形化された力(フォルス)を、力の内実を、生きるのである。つまり個体性の破壊、他者あるいは世界の力(フォルス)への開けという力(フォルス)の伝搬の運動を、聖なるものとして、恐怖と陶酔の感覚として、生きるのである。
p.191 「すべては許されている。真なるものは何もない」(ニーチェ)
静態的な相対主義・虚無主義ではない。この立場を取る人間の自己は温存されている。
ある期間一つの価値を全身をあげて信じ、そののちこれを疑い、やがては放棄してゆくという運動である。
「正体不明の流体」で「宙吊り」になる。この状態こそ「善悪の彼岸」であり「好運」の体験の境地である。
p.194 ニーチェのあとを受けて流動する価値定立を実践しようとするバタイユは、沈黙すべきか語るべきかという二者択一に迫られていた。最終的に彼のとった解決法は、沈黙を志向する表現というものである。書かれたものの不動性を拒否しながら、つまり文法に則って構築された文章を解体させながら、しかし完全には解体させないで意味が伝達されるように書くというものである。
〜
意味伝達として完成されている文章の地平すなわち論証的言語(ディスクール)の地平から離脱してゆく文章、その運動が形に表れている文章である。
「有罪者」の次元から「好運」の次元へ向かう運動。「祝祭の翌日」、「好運」の体験でエネルギーを消尽してしまったあとに、文章を書き始め���。善悪の彼岸。西欧近代の道徳律の真只中。無意味な体験に耽った自分、浮遊する自分を叱責する。その贖罪として合理的な文章の作成という「行動」に向かう。だがこれは持続しない。力(フォルス)が満ちてくるのに応じて、彼は合理的な文章を壊してゆく。「書くことは余所へ向け出発することだ」「書くことは好運を追い求めることだ」。言語の価値の完全なる「賭けへの投入」。→『無神学大全』
p.206 各人のなかにナチスの可能性が潜んでいることを肯定したうえでなくては、言い換えればナチスの残虐行為が人間の「総体」の一部に含まれることを知ったうえでなくては、人類を破滅から救う善後策は生み出せないと考えているのである。
p.207 広島市民の証言をもとにこのように惨状の内側に入ってその多様な様相を描き出すハーシーの手法を、バタイユは「_動物的_な見方」として高く評価している。「動物的な」というのは「感覚的な」ということであり、知性が錯誤を強いられるという意味である。ハーシーの描き出す光景は、一種の「非ー知の夜」の眺めなのだ。
原爆についての「_人間的_な表現」は、バタイユによれば、トルーマン大統領のそれである(「この爆弾の威力はT・N・T火薬二万トン以上に相当する。その爆発力は、兵器技術がかつて開発したなかで最大の爆弾である英国のグランド・スラムより二千倍も強力である」)。トルーマンは原爆を外側から眺めている。この態度によれば知性は順調に機能し、原爆の威力は恐怖も嫌悪も与えずに歴史の一事項に収まってしまう。
バタイユは、こうした「人間的な」、超越的な見方を排する一方、広島を別格視し世界を呪う感情的態度も斥ける。彼は、ハーシーの描く広島の不幸の本質を、つまり「人間の生の一構成要素である不幸の、あの深い無意味さ」を、虚心に正視することを求める。
虚心にというのは、バタイユに則して言えば、至高の仕方でということ、つまり未来のための行動から離れた自由な現在時(=瞬間)の視点・立場からということである。
人類への愛。持続可能な人類。キリスト教的な人類愛ともヨーロッパ近代の人道主義(ヒューマニズム)とも異なる。愚劣さ、残虐さをも含めた「シェークスピア風悲喜劇的総和」としての人類、理想的な何ものもめざさないたださまようばかりの人類への愛である。
p.211 余剰の消費は、無益なものであればあるほど呪われ、罪悪視されている。その結果、余剰は戦争という最も悲劇的な形式で蕩尽されるほかはなくなっている。
この悪循環を断ち切ること、これが『呪われた部分』においてバタイユが実践面で主張している最大の要求である。それ故、例えば、「普遍経済学は、適切な処置として、アメリカの富をインドへ無償で譲渡することを提案する」。
〜
非生産的消費としての国際経済援助政策の必要性。
「世界全体をいつ爆発するかも知れぬ巨大な火薬樽に変えてしまったこの前提のない蓄積を、_戦争なしに_消尽することが重要な問題なのだ」
各人が至高性の意識を持たねば戦争は回避できない。
資本主義と共産主義は同一の「行動」のイデオロギーの二つの表情でしかない。
カフカの位置。無責任な子供であり続ける。文学は、「行動」��大人(メジャー)の世界のなかで、未成年(マイナー)の位置にある、そのようなものとして自己の真正性を承認させるべく大人の世界に闘争を挑んでいる。これがバタイユの根本の文学観だ。
「行動」とはある未来の目標を達成するための理性的行為である。
バタイユは悪を尊ぶべき価値として、「行動」より勝るものとして定立したりしない。
「行動」に盲従する大人に相対的存在であることを自覚させる。
すぐれた文学は、大人の自我が引き裂かれる瞬間があることを教える。
詩は見せる。散文は認識させる。
「人間は、自分を断罪するのでなければ、自分を徹底的に愛することはできない」。
p.233 禁止を破って悪をなすことが、実は狭い人間性を超えてゆく行為であることを、そしてそのようにして得られる聖なるものの感情が人間の深い可能性であることを認識しておかねばならないということである。
p.238 古典主義の絵画は、絵画の外部にある物語を語るという労働を強いられている。
p.241 当時の(今でもそうだろうが)社会通念からして、私生活におけるバタイユは、本当にどうしようもなく下らない奴、自堕落で変態で、人間の屑としか言いようのない男だった。
「エロチシズムとは死におけるまでの生への称揚である」
「まず始め、直接的な興奮によって我々は、すべてを乗り越えてゆく印象、つまり非連続的存在の立場に関係した陰鬱な展望が忘れ去られてゆく印象を持つ。次いで我々は、こうした若々しい生に開かれた陶酔を超えた所で、死に正面から対峙して、そこで不可解で不可知な連続性への開口部を見出すことができるようになる。この連続性への開口部こそエロチシズムの神秘であり、ただエロチシズムだけがこの開口部の神秘をもたらすのである」。
死を生きながらの力(フォルス)の「交流」。
p.245 バタイユは力(フォルス)の伝搬を聖なるものと呼んでいるが、この伝播は個体の死と他者(および世界)への開けという二つの事態からなる。
〜
エロチシズムの人間性とは、このように力(フォルス)に導かれながら主観的な聖性を生きることに存する。これは、個体としての人間を尊重する通常の人間性の彼方にある人間性だ。
エロチシズムの諸相(淫らな法悦、醜悪さ、残虐さ)は、宗教の本質的諸相と同一である。
労働と比較すると侵犯は一つの遊びなのだ。遊びの世界では哲学は解消する。哲学に基礎として侵犯を与えること(…)、これは、言語を無言の凝視に置き換えることである。_これは、存在の頂点で存在を凝視することなのだ_。
侵犯というのは瞬間の出来事であって、持続的な状態には結びつかないのである。
侵犯ののちにも侵犯の権威を誇ろうとすれば、それはすでに禁制の圏域のなかにある力(ピュイサンス)の人の態度だということになる。
“僕等にとってビデオゲームは何よりも神聖なものだった。それは、ビデオゲームという名の聖域だった。人間という邪悪な生き物に出会うことなく、人生を楽しめる唯一の場所だった。この憎たらしい人生の、呪われた醜い毎日の中で、生きている事を感謝する為の、唯一無比のツールだった。ビ���オゲームを遊んでいる間だけは、自分が人間である事を忘れられた。”
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ソーシャル死ね。ソーシャルゲーム死ね。ゲームを返せ。ゲームから出てけ。 - 真性引き篭もり
http://www.sinseihikikomori.com/2012/03/blog-post_23.html
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ニーチェの解説に致命的な誤読が…。「力への意思」における「力」は、著者のいうような単純な権力や政治的支配力のことではありません。よってこの解釈を元にバタイユと比較している部分はまるごと間違っている、ということになります。ちょっと見過ごすことはできないですね。
それ以外部分はわかりやすく、無駄なく、入門にふさわしい体裁を整えてあると思います。ただ、読者がニーチェを読んでいない場合、大変な誤解をしてしまう危険があるので人に勧めることはしないかな。
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ゆらゆらと揺れているバタイユの思想形態やその思想そのものが、日本人の自然観に合ってるように思える。
脱西洋、しかし西洋的=二項対立という頭になっているため、そういう視点とは違うようだ、少々混乱。
感動は主体から生まれる。確かに。
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職場で出会った哲学専攻の人から教えてもらった入門書。序文が面白い。人文科学系諸科学の学史のなかでも、現代哲学史というのは畢竟現代思想史であり、観念的な次元でものの是非をする人びとの歴史であるために、ディスタンクシオンの遂行される様を観察するのにとくに適した領域なのではないか、と。
──それにしても。バタイユが人間存在の本質として捉えたものについて想像し共感することはある程度は可能ではある。
けれども──これはニーチェやハイデガーにしてもそうだけど──「ブラックボックス」の内側を分析するというよりは想像し、種々の連想をもってそこに意識を同化していこうとする行為に、個人のトラウマ治療以上の意味を感じない。
人間存在の個人のレイヤー、つまり人間の精神という「ブラックボックス」の成り立ちや働きというのは、いずれ、相当先のことかもしれないけれど、情報工学や分子生物学、神経医学により解明されるべき事項であり、また社会のレイヤーは社会学/文化人類学が解明していく事項であり、いずれにしてもそれらはバシュラールが言うような意味での「科学」のしごとであろうし、私としてはそうあってほしいと思う。
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非常にわかりやすくよい入門書であった、ということの上で。
価値・力force(すなわち非力impuissance)・至高性・現在時 に対して、 行為・意味・認識・善・永遠を切り下げていく。
侵犯の瞬間において主観に対して聖なるものへの感情が沸き起こるのであり、そのための行為が供犠で、例えば芸術やエロティシズムに現れる。
著者は「個人の生」というものを西洋の強いテーゼとして取り上げ、それへの徹底的な対抗者としてバタイユを位置づけるため非常に見取り図がとりやすい。
最後の章で、どうしてバタイユが明晰に書き始めたのかはよく分からなかった(それは本人が棄却するところの有用性ではないのか?) ただ、有用性への反発のするべき仕方というのは、有用性への反発を徹底することではなく、むしろforceに任せることであるのかもしれない。
またこの説明だと供犠は目的性を持ってしまうようなきがするのだけど、どうなのだろう。
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眼球譚でバタイユの小説を読み、今度はバタイユその人の人物と思想についての本を繙く。入門…のわりに難しい、と言うのが正直な感想である。哲学や思想なんかは好きだけど、あまりにも知識がつまみ喰い過ぎて、わからない言葉が多かった…。哲学入門とかあったら読んだ方が良いかもしれない。バタイユの浮遊感が好きだ。元々、私自身が浮遊している性質だから、なんとも言えない浮遊感に親近感が。今まで、バタイユ=エロティシズムの印象しかなくて、何か変態なフランス人のおっさん(←失礼/笑)というくらいの認識だったが、それを改めるには十分だった。そして、どうでも良いけどバタイユ氏結構イケメンである。
次は、バタイユの書いたものを再び読もうかな。
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私は感性的体験によって生きているのであって、論理的釈明によって生きているのではない。
心の空間は超自我―自我―エス
自我は上からも超自我の攻撃に悩まされている。超自我は過剰な道徳性、非現実的な観念(=理想)の化身であって、自我に苛酷な裁きと命令を加える。自我はエスの侵入を少しでも許すと、超自我から厳しい抑圧
人間の生の真の目的が非生産的な消費(
フロイトがエスと名付けた各個人のなかの非個人的なもの、この人間の根底に巣くう非人称の恐ろしげな力がアウシュヴィッツを引き起こしたのである。
蕩尽という無益な、そして危険でさえある消費を否定している。肯定されているのは、いずれの社会においても、生産と蓄積だ。
カフカの父親は、「全面的に生産活動に専念する」人間であったので
資本主義と共産主義は同一の「行動」のイデオロギーの二つの表情でしかない。
行動」とは、ある未来の目標(社会の改革でも名誉の獲得でも給与を得ることでもかまわない)を達成するための理性的行為であり、大人はさまざまな形でこれに専念している。子供は未来のことなど考えずその時々の気分で好き勝手に遊んでいる。
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西欧を西欧たらしめている思想の根を撃つ思想家バタイユ。マルクス、アウシュビッツなどその論は冴え渡っていた。