紙の本
古代であっても変わらぬもの。
2020/11/28 19:28
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投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
先だって『老年について』を読了していましたが、本書もそれと同様に短い一書です。字も同様に大きく、内容も読み易いです。
さて内容ですが、『友情について』と題されている通りが述べられています。友情とは何かとか、友情の大切さ、など様々な言及があります。特に印象的な所は、『われわれが友情の中に求める不動の物堅さの基盤は、信義である。なぜなら、信頼できないものは不動ではないから。』と述べられて内容です。成程、確かに・・と感じました。
キケロ-の二書を読み終え、もう少し彼の著書を読んでみたい感覚を覚えたので、『キケロ-書簡集』をいずれ読んでみたいと思います。
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キケローが直近の著名な人物に仮借し、その人物に語らせたタイプの著作のひとつ。
スピーキオーという友人を持ち、そしてその友を亡くしたラエリウスが、婿ふたりに対して友情というテーマについて語る。
ラエリウスは、友情に関して「正しい」事を述べるばかりでなく、誤った解釈が世間に広まっている事に苦言を述べ、あるいは人が陥りがちな過ちについて語る部分もたびたびある。
その内容は「友情とは実利に対する見返りがある時に与えられるべきだ」という説であるとか、「友情とは与えすぎてはならない、等価でなくてはならない」だとか、「いつか敵になりうるのであるから友情に重きを置いてはならない」という考えとかであるのだが、
当時流布した思想に関する知識として得るものもあるし、こうした考え方が現代でも一定の価値観として存在している事に思いを馳せるのも面白い。
一つのテーマについて、人間の考え方は相当に出尽くしているものだという事が理解出来る。
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読了。
要約
「友情は、最も重要なものであるが、それに足る人物かどうか判断した後に注ぐべきである。」
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友情の結びつきはとても緊密であり、二人の間に生まれるものであるということ、不特定多数を結びつけるものではないということ。そして何より友情は、実益を得る為の目的‐手段連関の一部分には決して貶め得ない、それ自体として価値のあるものであること。友情を功利主義に隷属させようとする即物的な(無)思想は、二千年前から批判されており、それが今なお必要な批判であるという事実に、人間の変わらぬ卑しさを思う。ところで、或る相手に友情を抱くべきか否か(友情を抱くに値する「徳」を備えているか否か)を、その人と友情関係に入る前に判断せよ、という意見には首肯しかねる。人間的な情動というものは、もっと非合理的な如何ともし難い何かであるはずだから。
"・・・、好意への返礼以上に、思いやりと奉仕の応酬以上に、喜ばしいものがあろうか。"
本筋からは外れるが、本書の最後のほうに面白い記述がある。
"何しろそいつ[狡猾で陰険な追従者]は、逆らうと見せて追従するようなことさえよくやるし、言い争うふりをしつつおだてるし、最後には、降参だと手を上げ負けを認めても、それは、こうして愚弄されている者の方が賢くてよく分っていると思わせるための手だ、という具合で、見抜くのが容易ではないからだ。こんな風に愚弄されるほど恥ずかしいことがあろうか。"
これを読むと、私には「テレビと視聴者との共犯関係」則ち「くだらないテレビと、テレビをくだらないと蔑む視聴者との間の、相互依存関係」が想起された。
「くだらないくだらない」と日々テレビ番組に呆れながら、なおテレビを見続ける者たちがいる。恐らく、テレビを観て「くだらない」と蔑みながら、さも自分が高見に立ってるように錯覚して優越感を満たしたいだけなのだろう。
然しテレビを観ている連中なんて、大概は冷笑しながら観ている。制作者も、多くの視聴者がテレビを馬鹿にしながら観ていることは知っている。制作者は、そういう連中に向けて(意識的にか無意識的にかは知らず)道化を演じて、視聴者に優越感を抱かせるような番組を作っている。テレビは、それを「くだらない」と嘲笑う連中の優越感に奉仕する為に存在する。
視聴者は、その道化を高見から嘲笑っているつもりでいながら(超越)、まさにその道化たちの思惑通りに踊らされている(内在)。
視聴者が心底「くだらない」と思っているテレビというのは、まさにそういう連中の視線によって支えられている。こうして、「くだらない番組」は再生産され続ける。
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キケロ――彼はどうにも分類上は困難な位置にいるようである。彼の時代には、エピクロス派とストア派が二大対立をなしていた。更にアカデメイア派(ソクラテス・プラトン派)、逍遥学派(アリストテレス派)が加わり、複雑な態を為していたようである。だが、前者二派はどちらかと言うと、「実践寄り」で後者二派は「理論寄り」であったのは想像に難くはない。つまり、現在的な哲学の元型を為しているのは当然後者二派であり、いわゆる内向的哲学と言えるかもしれない。対して、前者二派は実践型の外向的哲学と言えるだろう。外向的哲学は、しかし、知能活動というよりはむしろ「教え」に近い。宗教とまで敷衍すると若干行き過ぎてしまうけれど、恐らくは、「儒教」にその性質は限りなく近いのではないかと思われる。本著『友情について』も内容自体はまるで、孔子の『論語』を読んでいるかのような雰囲気であった。弟子たちが師匠に対して、教えを請い、懇切丁寧に師匠が弟子たちに教えを説いてやる。本作では、義理の息子二人と義父という形をとっていたものの、非情に構成が近しく、加えて、義父――ラエリウスが、「実践的でない教えなど意味がないとして」、アカデメイア派や逍遥学派を批判しているところからも、ますます孔子のそれに近しいのである。
後者二派は、いわゆる、「知性」に頼るところが大きい。そもそも、内向的思考に耽られるというのはそれ自体が才能のようなもので、一般的に学者肌の人間はそれに近しいのだろう、無論、社会性に欠けるところも大きいだろうが、それに対して、ラエリウスは外向性に重きを置くのである。どれだけ難解な議論を為しえるかよりも、純粋に「徳」を持ち、その徳を支持された人間こそが素晴らしい人物なのである、と彼は説いている。そして、友情というものは、決して人間の打算から生じるのではなくて、人間の本性から生じる。人間は本質的に愛を求める存在であり、愛を抱く存在であり、友情というものは人間にとっては非情に原初的なものなのである。友情なくして全ては空しい、善き者も悪しき者も、あるいはどの学派の者も口を揃えて友情は大切なものであると説くことからも、友情に勝るものなどない。そして、自律し自立した偉人物にこそ、真の友情を為しえるのである、と言ったあたりは別段目新しくもない考え方であり、少々詭弁が混じりつつも、非情に実践的な教えであることはすぐにわかる。ちなみにラエリウス自体はストア派を広く世に紹介した人物であり、小スキピオ(ハンニバルを倒した大スキピオの息子、ポエニ戦争などで活躍)の親友であったようで、ラエリウスが語る友情についても主に小スキピオについてである。また、ラエリウスはときおりカトーの名前を挙げるが、カトーはストア派学者である。以上の点を踏まえても、キケロが非情に親ストア派だったことは間違いない。
個人的に本著で印象に残った部分はむしろ、批判されている台詞だったりして少々そのあたりが自分でも面白かった。
アリストテレスが『弁論術』でビアースに語らせる、「いつか憎むだろう、という含みで(友を)愛すべきである」がどうにも印象深い。個人的にはこれは、ある種の覚悟として、友情にも恋情にも、あるいは結婚に際しても持して臨むべきであるとは思われる。また、エンニウスによる「確かな友は不確かな状況で確かめられる」というこの言葉もかなり真理をついているように思われる、ただし、この不確かな状況の質にもよるだろうが、誰もからも見捨てられるような行為をした際に友が離反するのは仕方なく、例えば、家族の不幸などで自分が困難な状況に没落したというような状態はこの場合の不確かな状況に合致するのだろうと思われる。ちなみに解説においては、本著が著された理由として、友情について云々語るよりも、キケロ自身が晩年に至り、自分の死後も自分のことを心にとどめておいてくれるような心積もりがあったのではないか?と訳者は推測している。本文内には、「優れた徳を持った人物は死後も、友人たちに覚えられているために死なないのである」というある種の死生観のようなものが綴られているがここにこそ本著の意義があると訳者は考えている。こう言われると、なんだか友情についてと題されたこの書物がどうにも薄っぺらくなってしまうような気がしないのでもないのだけれど、とはいえ、実践学派が古来から存在しており、それが、いわゆる内向学派――現在的な哲学と勢力争いをしていたことを知るにはいい史料だと思われる。個人的には内向哲学派なのだけれども。
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『老年について』の姉妹編となるキケローの対話篇。小スキピオの親友であったラエリウスの口を借りながら、友情についての考察が展開される。
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古代ローマの政治家で賢者の誉れ高いラエリウスが,無二の親友小スキーピーの死後まもなく,二人の女婿を前にして,友情について語る.キケローにとってラエリウスは,単なる過去の賢人ではなく,修業時代に親しく噂話を聞くことのできた人物であった.友情論の古典.新訳.
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友情はその人の弱さと欠如のゆえに必要とされるものなのか、それとも人間の本性をのものに由来する原因があるのかという問いや、友とのどういう付き合い方が望ましいか、徳と友情の関係についてなど。
友人関係においてはギブアンドテイクが必要だという人も居ますが、私はそれについてはずっと疑問だったのでキケロに共感するところはありました。
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「秀れた人々の中にしか友情はありえない」。まずは自分が善い人間になり、それから自分に似た人間を求める。一人で人格を高めるには限界があるから、人格の面で競い合えるような、かつ実益ではなく愛を与え合えるような友人関係を、と解釈。概ね同感。
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秀れた人々の中にしか友情はありえない、と思う。(p.22)
友情は数限りない大きな美点を持っているが、疑いもなく最大の美点は、良き希望で未来を照らし、魂が力を失い挫けることのないようにする、ということだ。。それは、真の友人を見つめる者は、いわば自分の似姿を見つめることなるからだ。(p.27)
さて、わしは友情について機会あるごとに考えてきたが、いつも考察すべき最大の問題だと思われていたのはこのことだ。友情というものは弱さと欠如の故に必要とされるものであるのか、即ち、奉仕したりされたりすることによって、各人が自分のちからではできないことを他人にしてもらい、代わりにこちらからも返す、というようなものなのか、それとも、それも友情の持ち前ではあるにしても、友情にはまた別の原因、もっと蒼古として美わしく、もっと人間の本性そのものに由来する原因があるのだろうか、という問題だ。(p.30)
友人によって得られる実益より、むしろ友人の愛そのものが嬉しいのだから。友人から出るものも、思いやりをもって出てきて初めて喜びとなる。(p.48)
忠告を与えかつ与えられること、一方は率直に、しかし苛烈にならぬよう行い、他方は嫌がらず我慢して受けること、これが真の友情の本分であるっように、友情には阿諛、おべっか、追従以上の害毒はない、と考えるべきである。(p.74)
スキーピオーは突如奪い去られてしまったけれども、わしにとっては今も生きているし、ずっと生き続けるであろう。なぜなら、わしの愛したのは彼の徳であって、それは消滅していないし、いつでもそれに接しておれたわしの目の前にたち現れるばかりでなく、後の世の人々にも、ひときわ鮮やかに記憶されていくであろうから。彼の思い出と雄姿を手本にしなければ、と思わないような者は、決して大志大望の業に取り組むことはあるまい。
幸運により、あるいは生まれながらにわしが授かっているもの全ての中でも、スキーピオーとの友情に比べうるものは一つもない。国政に関する意見の一致も、家庭生活における相談事も、喜びに満ちた安らぎのひと時も、この友情あればこそであった。気づいた限りでは、どんな小さいことでも、わしは決して彼の感情を害したことはないし、彼から嫌なことを聞いた覚えもない。家も同じなら、生き方も同じで共通、軍役のみならず、旅行の時も田舎で暮らす時も一緒だった。
常に何かを知り学ぼうとする熱意については、何を語る必要があろうか。われわれは暇さえあれば衆目を離れて、研究に時を忘れたものであった。それらのことの記憶や思い出が、もし彼と共に滅びてしまっのなら、切っても切れない無二の親友を失くした悲しみは、いかにしても耐えられぬところであろう。しかし、それらのことは消滅していないし、むしろ、わしが追想し思い出すのが供養となって、ますます大きくなるのである。また仮りに、それらのことがすっかり奪われてしまったとしても、わしの齢そのものが大きな慰めとなってくれる。もうこの歳になれば、その悲しみの中にもっと永く浸っていることも叶わぬのだからな。すべて時の間のものは、大きくとも耐えられるはずなのだ。
以上がわしが友情について���りたかったことである。それなくしては友情もありえぬ徳というものを尊び、徳以外には友情に勝るものはないとまで考えよ、と君たちには勧めておく。(p.82-83)
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友情と徳に深い関係があるらしい!
徳を高めることで、深い友情を築ける。
徳を高めるために、友情を築く。
友人が亡くなっても友情は不滅。
という理解です。
自分に徳がないのに、自分を磨かず、徳のある人との友情ばかり求めようとするといった内容が耳に痛かった。
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友情とは、依存ではなく自立から生まれる。
友情は実益から成るのではなく、本性から惹かれ合うことで成る。
友情が実益を追うのではなく、実益が友情を追う。
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キケロは、シーザーと同時代のローマに生きた政治家ですが、ラテン文化を代表する名文家としての誉れも高いことを知りました。
友情についての深い洞察が、親友であるスキーピオを喪ったラエリウスにより語られる、という設定になっています。
以下の言葉がとても印象に残りました。
「確かな友は、不確かな状況で確かめられる」
真の友情というのは、その人物の徳を敬愛することであり、それに接することにより自身も行いを正すことが出来る、と言います。
お互いに高め合うことができるような関係、それは国籍、年齢や性別を超えて成り立つのではないでしょうか。そう思いました。
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「真の友人を見つめる者は、自分の似姿を見つめることになる...」
「さて、われわれが友情の中に求める不動の堅固さの基盤は、信義である。なぜなら、信頼できないものは不動ではないから。」
社会人になり始めると、人との出会いが増えたり、また今やネットで人と繋がれる時代なので、人間関係に関する悩みは尽きない。なので本当に信頼できる人との関係性はすごく大事だったりするし、なんとなく友達という風に処理してはダメな気がしてきた。
真の友情関係には、利害関係を持たずに、相手をリスペクトし、心から信頼できるという信義が必要。
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賛同できるところもそうでないところもあるが、賛同できないところをあえて見つめ直すことで自分にとっての友情が再定義できたのでよかった。