電子書籍
親鸞をよむ
著者 山折哲雄 (著)
今,あらためて親鸞をよむ.頭で「読む」のではなく,からだで「よむ」.それは,描かれたその面がまえから,残された筆跡から,歩いた道筋から,そして主著『教行信証』や〈和讃〉の...
親鸞をよむ
ワンステップ購入とは ワンステップ購入とは
親鸞をよむ (岩波新書 新赤版)
商品説明
今,あらためて親鸞をよむ.頭で「読む」のではなく,からだで「よむ」.それは,描かれたその面がまえから,残された筆跡から,歩いた道筋から,そして主著『教行信証』や〈和讃〉の言葉から親鸞の息づかいを感じとり,その苦悩にふれる営みである.加えて妻・恵信尼の自筆文書の新たな読み解きをもとに,親鸞90年の生涯の到達点に迫る.
目次
- 目 次
- 序章 ひとりで立つ親鸞
- 第一章 歩く親鸞、書く親鸞――ブッダとともに――
- 第二章 町のなか、村のなかの親鸞――道元とともに――
- 第三章 海にむかう親鸞――日蓮とともに――
著者紹介
山折哲雄 (著)
- 略歴
- 1931年生まれ。岩手県出身。東北大学卒業。宗教学者。国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター所長等を歴任。著書に「死の民俗学」「日本人と浄土」など。
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
小分け商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この商品の他ラインナップ
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
安房国と筑波山。
2008/12/16 14:47
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:和田浦海岸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
山折哲雄著「親鸞をよむ」を読んで、時間を置く。
すると、この本に出てくる地名のあれこれが印象深く蘇えるのでした。
それが安房国であったり、筑波山であったりします。
この新書は、親鸞以外にも、道元・日蓮が登場しております。
たとえば、日蓮について語った箇所
「日蓮は自己の出生を告げるのに、つぎのように書く。
日蓮は、日本国・東夷・東条・安房(あわの)国、海辺の栴陀羅(せんだら)が子也。
またこうも書く。
しかるに日蓮は東海道十五箇国内、第十二に相当(あいあたる)安房国長狭郡(ながさのこおり)東条郷片海の海人(あま)が子也。
日蓮独自の自己紹介のパターンである。本籍意識といってもいい。自己を日本国のどこに帰属させるのか。世界の中の日本、その日本の中のどこに自分の居るべき場所があるのか。このようなアイデンティティ追求の激しさは、同時代者の親鸞や道元にはみられないものである。当時の一般の知識人としても異例のことだったのではあるまいか。道元は、親鸞や日蓮とは異なってはるばる海を渡って中国まで留学した国際人である。しかしその道元は、自己の本籍意識を確かめるためにシナ国(宋)という外在的な軸を一種の吸引力として必要とするようなことはしなかった。それを執拗なまでに必要としたのが日蓮である。
自分の出生のいわれを書き記すときだけではなかった。予言者としての自己の所信を開陳するときにも、かれは同様の告白をしないではいられなかったのである。たとえば
・ ・・・安房国東条郷、辺国なれども日本国の中心のごとし。
・ ・・・日蓮、一閻浮提の内、日本国安房国東条郷に始て此の正法を引通(ぐづう)し始たり。
ここで、東条郷は『辺国』ではあるけれども、『日本国の中心のごとし』といっていることに注目しよう。日蓮にとって、安房国も東条郷も単なる記号や符牒であったのではない。色も匂いもそなえた形影あいともなう具体的な表象として思い描かれていたのである。・・・・」(p71~73)
さて、安房国は、このくらいにして、親鸞と筑波山の関連を紹介してゆきましょう。その前に少し親鸞についてのおさらいを、本文から要約してみます。
親鸞は9歳のとき、天台座主の慈円(じえん)のもとで出家して比叡山にのぼった。
慈円は『愚管抄』の著者としても知られる第一級の知識人だった。
養和元年(1181)のことだ。平重衡(しげひら)の手により、
奈良の東大寺が兵火で焼け落ちた翌年のことである。
9歳から29歳までの20年間を比叡山ですごす。
ちなみに、彼にやや遅れる道元は比叡山で出家しているけれども、わずか2年たらずで山を降りている。日蓮も比叡山に足しげく出入りしているが、それでも10年前後にとどまった。29歳で親鸞が比叡山を降り、思い定めていた通り法然の門に入った。生涯の師のもとにおもむいたのである。かれが法然のもとにとどまったのは、このときから数えてわずか6年である。承元元年(1207)の念仏弾圧によって法然一門が散りぢりになるときまでのわずかな時期である。法然は土佐に、親鸞は越後に流されることになった。越後は親鸞にとって冬は雪に降りこめられ、海にかこまれた流刑地だった。・・親鸞は職業的な僧でもなく、さりとてたんなる世俗の人間でもないという、微妙な求道者の道をすすんでいった。そしてそのような自己の生き方をさして『非僧非俗』と称したのである。建暦元年になって、親鸞は罪を許された。ときに39歳。このとき親鸞は、そのまま越後にとどまるか、それとも京都にもどるか、あるいは別の新天地をめざしてはばたくか、思い悩んだことであろう。だが、やがて師の法然が亡くなったことを知り、京都に帰ることを断念する。当時、常陸には法然の念仏の教えがかなりの地域にわたってひろめられていた。法然自身も、源頼朝の妻・政子とのあいだに手紙の往復をしている。そのうえ、熊谷直実という関東武士の法然の有力な弟子となっていた。専修念仏をうけ入れる人びとがすこしずつ増えていたのである。親鸞はそういう事情を念頭において、常陸への移住を決意したのであったと思う。はじめのうち、親鸞とその家族は東国を転々として、落ち着くさきがなかなか定まらなかった。やがて、常陸国笠間郡の稲田郷というところに腰を落ち着けることになった。以後、ふたたび京都に帰るまでのほぼ20年間を、その地ですごす。40代から50代にかけての時期だ。
この稲田の田舎住まいのなかで、『教行信証』の草稿が書かれることになる。それだけではない。この土地は、あの親鸞の輝くような言葉を後世に伝えた『歎異抄』の作者、唯円の故郷でもあったことに注意しなければならない。
この稲田の里から南方約20キロの地点に、筑波山がみえる。
まるっきり、山折哲雄氏の文の下手な要約でした。
次の筑波山も、そう。
「親鸞は越後から常陸に移って、海の姿とは明らかにちがう山のかたちに対面することになったのである。・・越後では岩をかむ波の音をきいてすごしたかれは、この筑波山麓ではどのような音をきいて生きていたのであろうか。その音は、京都の山に遠くこだまする、なつかしい響きではなかったか。・・・親鸞が稲田の地を選んだのは、何よりも筑波の山をかれが選んだからではないかと私は思うのである。」(p142~143)
ところで、この新書を読んでいると、その主題の基調音が、この筑波山という地名と重なってくることになるのでした。最後になりましたが、その主題も引用しておきましょう。
親鸞、といえば、まず『歎異抄』である。誰でも、その『歎異抄』を通して親鸞を語る。しかしあるとき、わたしは気がついた。『教行信証』である。『教行信証』の吟味、検討抜きに親鸞を語ることはできない、――そのように内心からきこえてくる声が喉元にあふれ、それがその後の、わたしにおける親鸞研究の道標になった。『歎異抄』が親鸞の弟子の唯円による聞き書きであるということだ。それにたいして『教行信証』の方はまぎれもなく親鸞自身が書いたものである。青年期から壮年期をへて考えつづけてきたことを自分の肉声で語り、自分の言葉で文章にしている。もっともその親鸞の肉声は、かならずしもこの著作において多くの部分を占めてはいない。『教行信証』は、じつにおびただしい数の仏典からの引用文で埋められているからだ。しかしそれだけにかえって、その引用文の間隙をぬうように挿入されている親鸞自身の言葉が、読む者の目には閃光を放って屹立してみえる。
(p130~133までの要約)
う~ん。まずは『教行信証』をよまなければ親鸞はわからないと山折哲雄氏は語ってゆくのですが、何事も浅薄な私の新書読後感はといえば、筑波山なのでした。
紙の本
祖師達と恵信尼。
2011/02/07 22:31
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
親鸞聖人を中心として著者の筆の赴くままに京なら道元禅師、流罪にされた越後国なら対岸の佐渡島に流罪になった日蓮聖人、という具合に幾人かの人々が次々と登場する。
道元禅師は法然門下の兄弟弟子である西山上人証空の兄弟であり、日蓮聖人は「歎異抄」の著者である唯円房と同世代人なので、親鸞聖人はひょっとすると名前ぐらいは聞いた事はあるかもしれない。
そして最後に登場するのは親鸞聖人の内室である恵信尼だ。勿論、西本願寺にある「恵信尼消息」が基本になっているが、一緒に発見されてはいるが、殆ど省みられない恵信尼が書き残した「無量寿経」の断片についての考察が新鮮だ。
そこから親鸞聖人が発願して断念した浄土三部経の読誦と寛喜の内省へと話がつながっている。
182頁に「恵信尼消息」を初めて紹介した鷲尾教導師の著作が括弧なしで登場するが、題名は「恵信尼文書の研究」である。