紙の本
仮面ライダーの告白
2011/11/03 15:29
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
世界の終わりは来ない。デカい一発が来ても世界は終わらない。原発が爆発しても、カダフィが倒れても、世界はある。でも、いまこの世界に根付いている実感はさほどない。大きな物語を消失した世界が、もう一度大きな物語を取り戻すための試みを、著者は村上春樹の『1Q84』から説き起こす。ありえたはずの過去を巡るリトル・ピープルたちの世界の手触りは曖昧で不可解。善悪入り乱れ、清濁相交わる世界の様相は、やがて新世紀の日本に象徴的に現れる。仮面ライダーというヒーローの姿の変容を通じて。
ビッグ・ブラザーとはウルトラマンであり、リトル・ピープルとは仮面ライダーである。それが本書の主張だ。超越的存在として宇宙から飛来するウルトラマンに対して、等身大でベルトさえあれば変身できる仮面ライダーは、ゼロ年代に異様とも言える変容を遂げる。そこにビッグ・ブラザーの解体期を経てリトル・ピープルの時代へと移行する諸相を読み取る論考には、オタク的感性で対象に深く潜り込んで理解のプロセスを通じて創造へと至る道筋がある。
本書で何より目を引くのは、ビッグ・ブラザーの時代からリトル・ピープルの時代へと至る時代の断片を取りまとめた一覧表。現実のスペックをひとつひとつ取り上げて組み上げていく作業は、村上春樹的に言えば、「雪かき」のような地道な作業。MBA的に言えばフレームワークということになるこの表は、局所的な機能の修正で変容を繰り返す携帯電話のスペック比較表のように見えなくもない。
果たしてこれからの批評する主体は、小林秀雄のように時代を叱咤激励し、新たな時代を創造できるのか?少女時代のように、洋の東西を問わず現実にクサビを打てるのか?虫から進化した無言の仮面ライダーが世界の変容を告白するには、ストリートビューの鳥の眼でさえも不可能な虫の眼で、世界の綻びを丹念に見つけてそれを繕い、黙々と縫い直し続ける作業が必要だ。それが、リトル・ピープルたるわたしたちの仕事なのだ。
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面白かった。私的に、そして公的に宇野さんは、この本を書かなければならなかったのだと、あとがきまで読んで全て納得した。この本の内容は、「宇野常寛」ではない他の誰かに書かれるべきものではなかった。この本はこの日本において「宇野常寛」だけが書く権利を持つ特別な本だった。そんな、不思議な感想を抱いた。普段はこんなアツイ文章を文章を書かないのだけど、読後感に押されて書いてしまった。
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これからは革命よりもハッキングのほうが重要だということはとてもよく分かるので、頷きながら読みました。
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村上春樹論から仮面ライダー論を経て、拡張現実への転換まで。ビッグブラザーが成立し得なくなった現代においては、リトル・ピープルの時代だという。ビッグ・ブラザー/リトル・ピープルという対比は本書独自のものだけど、問題意識は前作「ゼロ年代の想像力」から引き継いでる。ビッグ・ブラザー/リトル・ピープルの対比は、それぞれ大きな物語/小さな物語と考えればいいのだろう。
この対比が全面に出た一方で、前作では一つの可能性として提示された「郊外」の存在が大きく後退している。後退しているというより、意図的かと思うくらいに言及がない。単に紙幅の関係か、著者の中で郊外の可能性が後退したからなのか、別の機会に述べるつもりなのかはわからない。個人的には、この郊外の視点はとても面白く感じていたので、それがなかったのは少し残念。
ただ、本書の立ち位置を考えたら、それは仕方の無いことかもしれない。これは、著者の考えを更に発展させる前に、つけなくてはいけない落とし前をつけたようなものだと思う。
前作では、著者が「父」という存在に非常にこだわっていたのだけど、それを著者が自覚できていなかった。その無自覚さが著者の最大の弱点だったと思うのだけど、本書では「本書は<父>というものについて考えた一冊だ」とあとがきに記されている。これこそが落とし前だったのだろう。
本書で父と一応の決着をつけたところで、ようやく次のステップ。だから、次の富野由悠季論こそ著者の考えを展開する場になるはずだから、期待して待ちたい。
それにしても、今時の仮面ライダーは奥が深いわ。
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思想書と一括りにするのも失礼かもしれないが、私はこの本のお陰で消費コンテンツのメタ的な視点による記述法を学ぶことが出来た。
contentsという点と点の関係を線で結ぶ、そのノウハウが素晴らしい。
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「このまましばらく日本は非日常的な緊張感を内包した日常が続いていくんだろう。日常と非日常がスイッチのオンとオフのように切り替わるのではなく、日常をベースに非日常が亀裂のようにところどころ入り込む感覚が、特に東京あたりだとぼんやりと共有されたまま長い時聞が経つのだと思う。世界は終わらない。日常と非日常が混在したまま、ずっと続いていくのだ。
2011年3月11日。この日を境に確実に自分の日常の「空気」が変わったのだと思う。未だ実感すべき部分とやり過ごしたい部分がゴチャゴチャであるが。
そんな時代の空気感、世界観に至るサブカルチャー批評。というよりも社会論文化論である。
村上春樹の初期デタッチメント時代から今に続くコミットメント時代の作風、思想を中心に彼自身の小説のタイトルでもある「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の2つの世界・世相への変遷。ハードボイルドワンダーランド、リトルピープルの時代における新たな「壁」と「卵」の関係を問い直す宇野常寛の思想は、相対するビックブラザーがいないが故に身近な部分にまで腑に落ちてこない。
しかし、頭ではわからずともその時代の空気感は肌で感じてしまっているという座りの悪さが、まだビックブラザーの時代を引きずっているボクの世代の限界なのだろうか?と感じさせられる一冊です。
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序章のみ一気読み。
今の仕事をやめようと思ったそもそものきっかけは、東日本大震災(から生じた気持ち悪さ)だった。
震災直後、福島の実家は非日常の連続だった。
関東、そして渋谷の勤務地では非日常が間もなく日常の雑踏の中に埋れていった。
たまたま故郷が被災したという偶然もあるが、それにしてもじぶんの思考の前提と、会社の思考の前提との隔たりが徐々に広がっていくのを感じた。
いや、その隔絶はもともと存在していたのだが、震災によって表層化しただけなんだろう。
序章しか読めてないが、そんなことをふと考えた。
それから、文芸評論とはかくあれという姿が展開されていく予感をひしひしと感じた。
東浩紀の思想地図β(震災以後)と併読しよう。
※以下、通読後感想
本書の宇野氏の所見とは全く関係のないところで、ひとつ強く感じたことがあった。
宇野氏も、自説の核心とはほとんど関係のないところで、さらりと述べていたが、「いや、別に呼び方なんかどうだっていい」のだ。
ひとりの人間として、他人と会話をするときでも、仕事で顧客を相手にするときでも、小難しい学術書と格闘するときでも、RPGに没頭しているときでも、「別に呼び方なんかどうだっていい」から、その一語一句一節のシニフィエが心に浮かぶような、アンテナとプロジェクターを洗練させることが大事だな、なんて感じたりした。
さて、内容。
500頁あるものを、これだけ鬱屈せず放棄せず読み終えたのは、村上春樹論以外では初めてだ。
どの章も、読みごたえありすぎて、本棚に君臨し続けること間違いなし。
福島出身の被災地民としては、序章と最終章を耽読。
自分の中で、まだ日常と非日常がズレて重なっている。
そのズレ具合自体を、関東の人と比べても、大きくズレていると強く感じる。
この二重のズレを抱えながら、いま、ここに深く潜ると、どんなARが自分の周りには生起するのか。
思想地図βにつづく…
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ビッグブラザーの壊死からリトルピープルの誕生という時代の変遷を、サブカル論をベースに多様な言い回しで論じるスタンスは非常に明快でわかりやすい。また論点の進展状況を表形式で穴埋めしていく手法も新鮮だった。仮想現実から拡張現実へというのも新たな見方ではあると思う。村上春樹論は面白く読めたが、ウルトラマン・ライダー論は少々きつかった。AKB論もそれなりに読ませるものはあると思う。が、総じてサブカル論というのは読み手を選ぶので、このような編集というか構成は詰め込みすぎで、少々無理があるように感じる。新書で数冊にわけて出版してもよかったのでは?という印象。
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目次を見れば一目瞭然であるが、村上春樹と、ヒーローのことと、東日本大震災のことが、大きな3本柱である。
村上春樹の作品は、新刊が出れば気になって多分8割くらいは読んでると思うし、好きか嫌いかと二者択一を迫られれば好きということになるんだと思うし、もちろん現代文学におけるその大きさについて否定するつもりは全くないのだけれど、どこかにひっかかりを覚えていたんである。
だから、そのひっかかりとは何なのか、を、考えながら読むことになった。
村上春樹についての考察の中で、「現代的なコミットメントのコストを母=娘的な女性に転嫁するという性暴力的な構造」つまり「ある種のレイプ・ファンタジィ性」に支えられている、という箇所で、ハタと、そうかそれかな、と思い至った。
きちんと分析できはしないのだけれど、抱き続けてきた違和感は、「なんか男の主人公が得してる小説だな」という感じだったかもしれない。
だから、なんで(その割に)こんなに女性ファンがいるのかな、という違和感だったのかも。
(これは明確な答えではないので、これからも村上春樹の作品を読みながら、ひっかかって考えていくしかないんだけれど)
しかしこれは結局のところ、「父」「父なるもの」論である(だよね?)。
論なので、好きも嫌いもない。フムフムなるほどね、そういう考えなわけね、それもアリだよね、と頷いたり、うまく頭の中で整理されなければ、なんだかスッキリしないまま唸ってみたりするだけである。
しかし関係ないけど、最早「サブカルチャー」というのは死語かもしれないなあ。サブじゃないもん、リッパに「センター」張ってるもんなあ。
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第一章の村上春樹の作品についての考察部分はそれなりに面白かった。
第二章以降、う~ん、なんか入り込めなかったなあ。
ヒーローものや漫画、アニメとか、ほとんど興味持てないものが主たる題材だったからかな。
父と息子云々という同じ話を延々としてるなあと思ったら、何のことはない、あとがきを読めば、結局著者が自分の父を越える、という成長のステップが踏めてなかったことの代替行為だったってことじゃん。筆名も父親の名前だっていうし。なあんだ。
まあ、そうはいってもおもしろいところを突いているんだろうな、とは思うが、なんとなくこじつけくささがどうしても気になり、読んでて疲れた。
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村上春樹の作品の変遷を紐解くことによって、ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ、という時代認識の構造を提示する第一章。その最後で「ビッグ・ブラザーとはウルトラマンであり、リトル・ピープルとは仮面ライダーである。」ちょっと電流走りました。この大胆な比喩によって〈井戸〉を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながることのない壁を越えてつながる「壁抜け」が待っています。一気に読み終えて思うのは、市場の力です。なぜ村上春樹の文学だけ世界商品になりうるのか?なぜ平成ライダーは10年を超えるロングシリーズになったのか?それは物語の構造が時代の構造とシンクロするように更新され続けるから。言ってしまえば当たり前のことですが。補論で語られるダークナイトもAKB48も更新によって新しい共感を生み出しています。しかし大きな物語の消えたリトル・ピープルの時代にメジャーであることの困難性をのりこえるのは、ぐるっと回って〈いま、ここ〉にこだわることで世界と関わっていくリトル・ピープル、n=1の想像力だとも思います。高度にシステム化されたグローバル資本主義の中での個人のコミットメント。ふと、アウトサイダーアートのことを思い出したりしました。
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恐ろしいまでの前向きな想像力。あとがきにあるように、これは子供(著者)が父(宇野常寛)に同化し、そしてそれを越えて行く本である。
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83 「外部」の存在しない「世界の終わり」においてデタッチメントの徹底とはコミットメントの一種で「しかない」。なぜならば何者ともかかわらない超越的な場所=外部に私たちは立つことができず、「僕」が選択した「ここに留まること」もまた、実は一角獣たちを生贄に生きるコミットメントの一形態に過ぎないからだ。そして「僕」は「デタッチメントという名のコミットメント」の「責任」を取るのだと言う。
デタッチメントの不可能性、「外部」の断念、否定神学的
103 ハードボイルド、自己完結なロマンティシズム
春樹、受動的なコミットメント、ナルシシズムの不足、あらかじめ欠落を抱え主人公男性を求めるようプログラミングされた「他者性なき他者」としての女性による承認
レイプ・ファンタジィ的な構造:現代的なコミットメントのコストを母=娘的な女性に転嫁する性暴力的な構造
109 エディプス神話=母と交わり、父を殺す=ナルシシズムとコミットメント
128 「父」というのは、まさに「不在の中心」として春樹の小説を強く規定していたと言える。
135 「父」として『空気さなぎ』を大衆の無意識に埋め込むという行為こそがリトル・ピープル的ーーオウム的なものに映る
144 9.11後、大陸系哲学の権力論が失墜し、米国系政治哲学が台頭
151 もはや国家を精神分析にかけるような行為には意味がない
244 平成「仮面ライダー」シリーズ
「正義」の複数化、「変身」の再定義、超越/内在図式の解体
253 「仮面」=「変身」は疎外感を逆差別的にナルシシズムに転化する装置
342 徹底して内在的であるがゆえに超越的であるという「仮面ライダー」というヒーローのコンセプトは、10年の間に徹底と進化を続け、ついに「壁」自体、「システム」それ自体であるヒーローを生み出した。キャラクター的複数性をコントロールしそのアイデンティティを自由に記述し、自ら生み出す暴力=グローバル/ネットワーク化の反作用を自ら排除し得るシステムそれ自体としてのヒーローー世界の破壊者/守護者である仮面ライダーディケイドとは、いわば現代における「壁」=システム=貨幣と情報のネットワークそのものだ。
361 世界はもはや革命では変化しない。この世界を受け入れ、徹底して内在し、ハッキングすることでしか更新されない。
そのために必要なのは、存在し得ない〈外部〉に祈ることではあり得ない。ただ深く、ひたすらにこの新しい世界の〈内部〉に〈潜る〉ことなのだ。
革命からハッキングへーー貨幣と情報のネットワークの〈内部〉にこそ、この終わりのないゲームを受け止めながら超えていく想像力は渦巻いている。
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ヒーローものを語る上で不可欠なのが正義と悪。
圧倒的な正義/悪、勧善懲悪がなくなった作品には、登場人物には「自分が正義として決断した物語にどう責任をとるのか」だけが残される。
これは誰にも平等に自由が保障されているようで、人を突き放した残酷なルールでもあると思う。
正義と悪という思想がなくなると、人々の持つものは全て本人の欲望としてとらえられる。
例えば『仮面ライダー龍騎』は、「生き残った者が願いを叶えられる」という権利を獲得するため13人の仮面ライダーが殺し合う物語。
主人公の真司の目的はライダー同士のバトルロワイヤルを止めさせることなのに、ゲームを停止させるためにはゲームの参加者としてバトルロワイヤルに加わざるを得ない。
正義の概念が失われた舞台では「モンスターから人々を守りたい」「殺し合いを止めさせたい」という正しく見える願いも真司の欲望であり、わがままでしかない。
だから真司はその他大勢の欲望を抱えたライダーと同列に扱われる。
普通のヒーローは敵を倒しても、それが正義のため、正しいことだからという後ろ盾を持っている。
でも、『龍騎』においてその後ろ盾は存在せず、真司は「戦いの辛さとか重さとか、そんなのは自分が背負えばいいことなんだ。自分の手を汚さないで誰かを守ろうなんて甘いんだ!」と、自分の正義を自分のわがままとして背負い、戦い、命を落とす。
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村上春樹を読んでいないので、春樹評ともいえる一章は飛ばしまして読みました。故に本質がつかめていないかもしれません。二章は平成仮面ライダーを引き合いに出した社会論。一杯やりながら一緒に語ったら面白そうだけど、隣の席で語っているのを聞いたら、ちょっとひく、そんな感じ。500ページを超える(うち150ページは読んでないけど)、一方的な熱弁を受け止めるのは難しい。僕のようなお気楽な人向けには書いていないんだろうけども。あとがきでガクッとくる。