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最近では、自分自身の過去と向き合うことを「巡礼」と呼ぶらしいが、こちらは正真正銘の巡礼の話である。ときは江戸の時代、ところは伊勢神宮。だが、ここでお参りを行ったのが犬であったというから、只事ではない。
最初に犬の伊勢参りが行われたのは、明和8年(1771年)4月16日の昼頃のこと。突然、犬が手洗い場で水を飲んでから本宮の方へとやって来て、お宮の前の広場で平伏し拝礼する格好をしたのである。その場にいた神官たちにとって、これはまさに事件であった。
犬の飼い主は山城国、久世郡槙の島に住む高田善兵衛という者。つまりこの犬は、飼い主の元を離れ、山城の国のからはるばる伊勢までお参りにきたのである。
「境内に犬を入れるな」とは、古くからの伊勢神宮における決まり事である。犬が死んだり、お産をしたり、死肉片をくわえてきたりすること、これらは全て穢れとされてきた。だが、その法すらも簡単に破られてしまったのである。そしてその後も、犬の伊勢参りの目撃談は、続々と頻出することになる。
当時、ほとんどの人が「一生に一度はお伊勢参りに行きたい」と思っていた時代である。式年遷宮のある年などは、とくに参拝者も多かったという。しかし、伊勢参りに行けるのは、ある程度生活にゆとりがある大人がほとんど。女性、奉公人や子供たちは行きたくてもなかなか行くことが出来なかったのだ。
これら庶民の伊勢参り願望は、しばしば「抜け参り」という行為を発生させた。仕事も何もかも放り出し、親や主人にも黙って、仲間と示し合わせて伊勢へ向かう。その抜け参りがさらに大規模になると、「御蔭参り」と呼ばれた。冒頭の犬は、御蔭参りの集団の後を追いかけていくうちに、うっかり伊勢神宮まで来てしまったのではないかと目されている。
だがその後は、主人が自分の代わりにと犬に思いを託して行かせたケースなども登場する。一旦飼い主のもとを離れた犬には、「えらい犬だ」「伊勢参りの犬だ」とみんなが感心して銭を施してくれる。重くなりすぎて犬も大変そうだと、周りの人が銭を運ぶ。まるでお祭り騒ぎのうちに、事が運んでしまうのだ。
日本の犬の単独旅行、最長距離記録も伊勢参りの犬によって樹立されている。幕末の嘉永年間に3年間の月日をかけて、青森・黒石と伊勢神宮との間を往復したのだ。その距離、推定で約2400Km 。しかも、このケースが凄いのは、誰かの勘違いがきっかけであったらしいということだ。
この犬を偶然見かけた人が、「もしかしたら、これが噂に聞く伊勢参宮の犬ではないか。」と思う。そこで、どこの犬か誰でもわかるようにその犬と出合った場所、を木札に書き記して首から下げ、それから道中使えるようにと銭の穴にひもを通し、首にまいてやる。これにて、立派な「伊勢参りの犬」の出来上がりというわけなのだ。
誰かが、この犬を伊勢参りの犬ではないかと思った瞬間、本当に伊勢参りが始まる。荷物が増えれば、宿場から宿場へ、皆が運んでくれる。善意の人たちが至る所にいた時代。犬にしてみたら、さぞかし迷惑であった可能性もある。善意と悪意は、まさに紙一重だ。
さらに本書では、犬だけではなく、豚や牛の伊勢参りについても言及されている。しかも豚にいたっては、広島から船で瀬戸内海を抜け、潮岬をまわり熊野灘に出ることによって、伊勢神宮へやってきたというから驚く。豚が伊勢参りをした年は式年遷宮の年。願主は豚に代参させてまでも伊勢参りをしたかったのかもしれない。
伊勢参りをはたした犬の多くが、白い犬であったという点も見過ごせない事実である。古来より白犬には霊力があると言われてきた。日本武尊は信濃で道に迷った時、白犬に導かれて美濃に出たとされてきたし、平安時代、関白・藤原道長は法成寺を建立し、白い犬をお供にお参りした。
その霊力の真偽はともかく、白い犬の伊勢参りの話が広まるにつれ、その後も白い犬ばかりを参宮させようとする力学が働く。極端な話、白い犬が伊勢の方向へ歩いているだけで、「この犬は伊勢参りしようとしているのではないか」と思い込んでしまうことも起きかねなかったのだ。
人々が「伊勢参りの犬」と認識しない限り、犬は伊勢に向かうことも帰ることもできない。犬たちは周りの人たちが期待しているように行動すれば、やがてうまいものにありつけることも知っていたものと思われる。それを「お参り」という行為に結びつけて解釈したのは人間の方なのである。犬の伊勢参りは人の心の生み出した産物でもあったのだと著者は言う。
そんな犬の伊勢参りだが、明治になって間もなく途絶えてしまうことになる。文明開化とそれに伴う洋犬至上主義が、まさに犬の飼い方まで変えてしまったのだ。最後と思われる犬の伊勢参りは明治7年、東京日本橋・新和泉蝶の古道具屋渡世の白犬によって記録されている。やがて犬の伊勢参りは、そういう事実があったことさえ人々の記憶から抜け去ってしまうこととなった。
それにしても、犬の伊勢参りが行われていた時代の日本、まさに魅惑のワンダーランドである。伊勢神宮の厳粛さと、犬・豚・牛の参拝という猥雑さが織りなす、奇跡的なスペクタクル。信じることが苦行の道のみにあらず、信仰と娯楽が十分に共存していた時代の話。まるでお伽話のようなノンフィクションであった。
美しい共同体と、そこにあったケミストリー。これは過去の日本人の姿と向き合うことで見えてくる、「喪失の物語」でもある。
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「シロや、お伊勢さんにお参りしてきておくれ」「あいー」---かくして、江戸時代の犬の壮大なおつかいが始まる・・・
今年は2013年、伊勢神宮の遷宮の年である。遷宮の年は多くの人がお参りをする。
それにちなんで、今日は犬も伊勢参りをしたらしい、という本を。
ときは江戸。
伊勢神宮の遷宮に触発されて、庶民が大挙してお参りに向かう、「おかげ参り」が発生した。ほぼ60年に一度の周期で何度か起きている。
伊勢は決して行きやすい場所ではなく、旅費も掛かる。庶民が気安くお参りできる場所ではない。「お伊勢さんに一度はお参りしたい」と思う庶民の思いが遷宮を期に爆発し、十分な旅費も持たず、奉公人も主人に断りなく、集団で伊勢に向かう事件が生じたのである。別名「抜け参り」とも言う。
この「おかげ参り」に付随して、伊勢参りをする犬の話が残っている。
首に在所が書かれた札と幾ばくかの路銀をぶら下げ、伊勢参りに向かったという。「抜け参り」も困難であったものか、飼い主が犬を代参に寄越すのだ。
「伊勢参りの犬」ということで、道中大事にされ、先々で食べ物をもらい、寝床を借りる。実費を取ってもらうはずの路銀が、逆にお賽銭をもらって増える。あまり増えて犬が重そうだというので、小銭を銀などに換えてくれる親切な人がいたり、挙句は代わりに持ってくれる人まで出たりする。
つつがなくお参りを果たし、神宮のお札をもらってまた元の家に戻っていく。
こんな話がいくつも残っている。
ことの真偽については当時から賛否両論あったようである。
当時の犬は今とは違い、引き綱などを付けない方が一般的である。それが本当に伊勢までいってまた故郷に戻れるのか。
虚言である、というものと、いや、これはあったことである、というものがいる。
江戸時代に写真で証拠を残せるはずもなく、また地方から伊勢までの犬の旅に最初から最後まで付いて歩く暇人もいないだろうから、書面に残る記録はすべて、断片的な見聞であったり、伝聞であったりする。
著者は江戸期の多くの日記や随筆、役所の記録等を調べ、犬の伊勢参りに関する記事を丹念に洗っている。結果、(もちろん犬自身に信仰心があったわけではないが)犬が伊勢参りをした事例はあっただろう、と結論づけている。
大勢の人が伊勢に向かう。そこに紛れて犬も歩く。こっちだこっちだ、と人が歩けば、こっちかこっちか、と犬も付き従う。
帰りの道には、在所の札を見て、次の宿場まで申し送りがされ、そちら方面に向かうものと一緒にまた旅する。ご丁寧に、犬がいくらの路銀を持っていたかまで申し送られたりする。あいにくと犬が姿を消してしまった場合には、その旨、故郷の村に知らせる役所もあったようだ。
犬は元来、穢れとして神社への立ち入りは忌み嫌われていた。おかげ参りの賑わいに紛れてか、いつの間にやら犬の代参が「ありうるもの」になってしまった。この際、多くは白い犬がお参りの犬とされたようだ。
当時は犬の飼い方もゆるやかであり、町や村全体で何となく面倒を見てもらっている、「地域犬」のようなものもいたという。���うした犬が地域の代表として代参したこともあったらしい。
犬の伊勢参りとして記録に残る最後の事例は明治7年。
文明開化は犬の飼われ方も変えた。首に飼い主を記した札を下げない犬は、無主犬として殺してもよいことになった。通行人に噛みついたりした場合は、飼い主が責任を負う。狂犬病への怖れも犬を管理する方向へと拍車を掛けただろう。
犬はつながれて飼われるものへと変わっていった。
昭和期にはまだ、犬が買い物かごをぶら下げておつかいをするなんてのどかな話もちらほら聞いたが、いまや、犬は原則、外ではリードを付けて飼い主に引かれる。
胸を張り、街道を伊勢へとトコトコと進む犬。「おお、お伊勢さんにお参りかい。偉いねぇ」と頭の1つも撫でてもらい、ちゃっかり美味しいものももらう。
確たる証拠はなくても、こんなおおらかな光景を想像するのはちょっと楽しい。
*犬に関する行政史というのも少々興味が湧く。
*著者は動物文学会の会員誌(市販はされていない)に「犬の日本史」を連載しているとのこと。書籍化されればこちらもおもしろそう。
*引用されている文献は、著者によって適宜現代語訳されている。一般書であるので、気楽に読めてそれもありか。
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タイトルを見てまるで東スポの見出しのようだなと思った。犬がどうして伊勢参りなのか。興味がムクムクとわいてきたので、手にとって読んだ。
著者によると、最初の伊勢参りは、明和七年(1771年)、しかも日付まではっきりしていて、4月16日昼ごろとある。ちなみに、最後の伊勢参りは、明治七年とある
伊勢参りに向かった犬は、沿道の住人や、伊勢参りに向かう人たちに大切に扱われたとある。いい話だな。信仰心からではなく、著者も述べているように、人間について行けば、おいしいものにありつけるからと言う理由だそうだ。まるでスイーツにつられてついて行きそうな甘ちゃんのモクモク羊そっくりだ。
今のように野良を除いて犬には飼い主がいる時代とは違って、江戸時代は、はっきりとした飼い主は存在せず、町や村に住みついて親切な人からエサをもらっていたそうだ。この中で、伊勢参りをした犬が出てきたそうだ。
いい話だなと思ったのがもう1つある。それは、明和八年(1772年)の後桃園天皇即位に当たって、将軍家の名代として松山藩主の松平隠岐守定静が上洛したが、その道中で伊勢への抜け参りの一行と一緒になった。その際、かつて祖父が同じ役目で上洛した際にも御蔭参りがあったので、浅からぬ縁を感じて、自分の止まっている宿に泊めてやったとある。しかも、子供がいれば、自分の駕籠に2人まで乗せてやり、自分は馬に乗って機嫌がよかったとある。
本来であれば、抜け参りを禁止している藩があるくらいだが、将軍の名代がやってと聞きつけて、他の藩も見習うところが出てきたとある。
人が見向きもしない事柄に対して興味を持って調べて本にしてもらうおかげで、こうやって手にとって読むことができる。ありがたいことだ。聞く機会があれば、当時の犬にどんな心境で伊勢参りに行ったのか聞いてみたい。「そんなの知らんワン」とでも言うのかな。
こういう本を読んだ方が、百マス計算や川島教授の学習ソフトをやるよりも脳細胞にビビビと刺激を与えることが出来て脳が活性化されるような気がする。
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犬が伊勢参りをする。何か愉快なフィクションなのかと思ったけれど、事実なのだと強調されてスタート。しかし、なんだかいかがわしいと思いながら読み進めていくうちに、犬の伊勢参りは確かにあったのだとあっさり説得され、というより納得してしまう。
犬は穢れであり、伊勢神宮は犬を遠ざけることに古来腐心してきた、にもかかわらず、犬が伊勢参りをするようになってしまう。そして、やがて犬の伊勢参りは終わってしまう。このスタートとエンドは、本書を読んでのお楽しみ、にしておいたほうがいいから書かないが、前書きにある「動物学でもない、歴史学でもない、民俗学でも、社会学でもない」という、曖昧模糊な面白さ。本の読み始めと読後の感想がこれだけ変化する本も珍しかったなあ。
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かつての日本であった、犬が伊勢神宮に参宮するという不思議な話の謎を追う本。
結果として犬の習性や人の勘違いや思い込みなどが、「犬の伊勢参り」を生み出すことになったのかもしれないが、伊勢参りを達成するには各々の善意が不可欠であり、当時の事を想像すると何か微笑ましく温かい風景が見える。
素晴らしい本です。
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最近では伊勢土産にもなっているおかげ犬。おかげ犬は伝説ではなく、江戸時代に普通に見られたものです。ところが明治時代になると途絶えます。
作者は犬が禁忌とされた伊勢神宮になぜ犬が参拝できたのか?どうやって長い旅路を行くことができたのか?なぜ江戸時代におかげ犬が発生できたのか?なぜ明治になると途絶えるのか?犬と人間のかかわりが垣間見えて新撰です。
それにしても、昔の人って、犬がお金を下げていても奪うわけではなく、えさをあげたり、船に乗せたり、あげくは駕籠にまで乗せてあげたり、本当に優しくて信心深い人たちだったんだねぇ。
序章 犬が拝礼した
第1章 「虚説」か「実説」か―明和八年、御蔭参り
第2章 単独で伊勢参宮
第3章 文政13年の御蔭参りと「不思議」の正体
第4章 神宮と犬、千年の葛藤
第5章 ぞくぞく犬の伊勢参り
第6章 豚と牛の伊勢参り
第7章 長旅をする犬たち
終章 犬たちの文明開化
著者:仁科邦男(1948-、ジャーナリスト)
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この時代、飼犬も野良犬もいなかった。いたのは町犬、村犬。そんな犬だから、伊勢参りと言う信仰を核とした一大エンターテインメントに自然に巻き込まれていった。人は伊勢参りの犬、と大事に扱い、無事村まで送り届ける。のどかでおおらかでほんと面白いなあ江戸時代って!
「信仰と娯楽は矛盾しない。その二つのものを伊勢参りは同時に実現してくれる。厳粛さと猥雑さが同居するから、犬やら豚やら牛やらニワトリやらもお参りできる。------江戸時代、世俗世界の代表的存在である犬は超俗の世界に足を踏み入れることが認められ、100年にわたって伊勢参りを続けていく。」
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犬と伊勢神宮の関わりについて丁寧にわかりやすくまとめられている。
論調も説得力があり、白い犬が伊勢神宮を目指してトコトコ歩き、周りの人間がそれを微笑ましく見守る様子が想像できた。
そんな平和で善意にあふれた社会がまたくるといいなと思う。
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うっそ~!と、思わず口にしそうなタイトルですが、読んで納得。
昔の人達は、のんびり優しかったのね。
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犬が伊勢参りをするというセンセーショナルな話題に行きがちだが、本質は犬とヒトとの関係が明治時代までは今とは違ったということが書かれている。
読み進めると、面白いことが自然発生的に起こっていたんだなぁと楽しくなる。
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江戸時代まで、日本では犬が、人に引き連れられてということではなく、単体で伊勢参りをしていた。しかも一匹二匹ではなく、それこそよく聞く話として。
とかいう、今の時代で一度聞いても理解できない位の変な事態を、実際の江戸時代、明治時代に書かれた記録などから読み取る本。
客観的な本でした。江戸日本のおおらかさに関して過度に持ち上げることもなく、淡々としていたので読みやすかったです。
それにしても、俺はもう昭和53年以降の日本しか実感としては知らないわけで、文明開化以前の日本なんて、昔は良かったと振り返るべくもないほど最早別の国だったんだな、と、この本を読んでそういう想いをさらに強めました。
きっと天狗とか、神隠しとかもあったであろうな。
そう考えると文明開化ってものすごいことですね。その時代に生きてたら頭こんがらがって大変だったと思います。
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少し前の「サザエさんを探して」(朝日新聞日曜版)に「犬のおつかい」が取り上げられていた。話(漫画、アニメ)としては知っていて、違和感はないが、実際に見た記憶はない。昭和30~40年代のことだろうか。
突然始まり、突然終わった犬の伊勢参りが、伊勢神宮のたどった歴史と関連付けられ、お陰参り、明治維新、文明開化により合理的に説明されていておもしろい。
明治時代以降、共同体により飼育されていた犬はいなくなったようだが、昭和40から50年代までは、数は少ないが野良犬がいたような記憶がある。
野犬狩りは見たことはないが、いつのまにか町から犬がいなくなった。ペットブームの反映とも関係があるのか?
記憶にはないが、妻の話によると飼い犬も夜になると鎖を外され、町を放浪していたという。タイでは象が夜間は放し飼いになっていると聞いたことがある。
今は犬ではなく、猫が共同体で飼育されている。
江戸時代の人のおおらかさ。本当に犬が信仰心を持っていると思っていたとは思えないが、宴会があった次の朝その部屋に行ってみたら猫しかいなくて、化け猫にだまされたという妖怪話になったというのを聞いたことがある。同じことのように思える。
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このタイトルはルール違反やわ〜。読んでしまうもん〜。でもイマイチやったわ〜。生物学的な裏付けも欲しかったですなぁ。
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江戸時代にあったという犬の伊勢参りを検証している。多くの史料が残っている事実で、最初は珍しかったが、幕末には普通の光景になっていたという。豚や牛もお参りをしたが、明治維新後は、動物の伊勢参りは、ばったり途絶えたという。現代の目から見ると、江戸時代の人も動物も夢の世界の住民のようだ。
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面白かった。こういう、政治や経済の大きな話では全くなくて「だからどうなんだ?」ではあるけれど、間違いなく歴史や社会の一面を物語るルポ、好きだなあ。
犬が伊勢参りをする。「え~、ほんと?ま、そんなこともあったかも」くらいにしか思っていなかったが、筆者は丁寧に文献等にあたってその実態を明らかにしようとする。実際に多くの犬が人々の助けをうけてお伊勢参りを果たしていたそうだ。豚や牛までというのが驚きだ。
このことに過剰な意味づけなどをしないところがとてもいい。すまし顔で街道をトコトコ歩く犬と、それを見守り大事にした昔の人たちの姿を思い描くだけで、とてもおおらかな気持ちになってくる。筆者あとがきにあるとおりだ。
「もし伊勢神宮を訪れる機会があれば、その時に、お祓いをつけ、首に銭を巻き、人々の見守る中をすたすた歩く犬の姿を想像してもらえたら、と思う。犬も不思議、人も不思議、でも、なんだかほのぼの、あったかい」