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空也といえば、六波羅蜜寺の木像ですが…
彼についてしっていることは、念仏…くらい。
出自は不明、一説には皇室の出ともいうらしい。
醍醐天皇の五宮という説(?)で語られています。
突飛な物語では決して無く、
静かに紡がれる物語ですが、どんどん読める読みやすさ。
筆者は執筆の傍ら、大学院で仏教を学んでいるとのこと。
なるほど、だから理解しやすく仏道の部分も語られているのか、と納得しました。
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空也の宗教家、社会活動家としての人間をあぶりだす。あの南無阿弥陀仏一文字一文字が仏となっていく像の印象深さに共鳴する物語。
周囲の人間たちの描き方も丁寧で説得力がある。
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なぜこのような地方支配の政治構造が定着していたのか。
本当に、これほど堅固だったのか?
ストーリーとは、外れるけれど、そのことを最も思った。
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醍醐天皇の五宮として生まれたが、母は精神を病んでいる。
なぜなぜがいつも心にあり現世の娑婆世界では生きにくい性状を持って生まれた。在野の人と交わり自分の道を突き詰めて生きる姿は美しい。
もう一度、山田太一の空也を扱った小説が読んでみたくなった。
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あの、口から小さな仏様が何体も出てくる、空也上人の物語。
初めは、「宗教ものかよ」と思って読み始めたが、そうではない。人間を書いている。
醍醐帝の皇子として生まれ五宮と呼ばれる。
しかし、母方の家柄の低さと菅公の没した年に生まれたため、帝から疎んじられる。そのせいで母も精神を病み、小さいころ母に投げ捨てられ左肘関節を損傷。このような悲しい境遇。
貴顕のための宗教から、庶民のための宗教へと考え始める。
「すべてを捨ててこそ、悟りが開ける」と、かなり宗教的な話も盛りだくさんだが、だんだんとあの世が近づいてきている当方としては「そういう考えもあるよねぇ」と思うことしきり。
平安京の時代は、天変地異や疫病で人はいとも簡単に死んでいく、厳しい世の中である。貴族階級もバタバタと死んでいくが、庶民はさらにひどい状況だ。まあ、祈祷で病気を治そうという時代なので、人の命は本当にはかないものだ。
医者もいないわけで、病気になったら終わりという、現代では想像できないような社会となっている。そのような社会で、井戸を掘る技術を教えて人びとに信頼され、少しずつ信者を増やしていくところもすごい。
とてもおもしろかった。
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空也の生きた時代が大地震やゲリラ豪雨に見舞われる現代に重なるような本。
その中で自分自身の宿縁に囚われ悩みながらも利他をモットーに生き抜いた空也の姿。
決して楽な人生ではなかったけど、当時としては長命な70歳の天寿を全うできたことに、確執はあったにせよ母親が丈夫に生んでくれたおかげで天命とも言うべき偉業を成し遂げられたのだなと感慨深かった。
猪熊との出会いから最期の別れは泣けます。自分にもあの時助けてくれたから今の自分があると言えるような友がいるだろうか?
いるな(笑)良かった。
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力作であろうが作品として評価出来ない。
著者は作家になってから佛教大学に通ったそうだが、そこで学んだ知識を出し過ぎて、一般読者には煩わしい。
それが書きたいなら別のスタイルだろう。
空也に魅力がない。
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空也というと、六波羅蜜寺の空也像(口から仏様が出てくるあれ)の人やなぁ、ぐらいの知識しかなく、むしろタイトルの「捨ててこそ」の部分にひかれて読んでみたのだけど…。
小説だから盛っている部分はあるんだろう、その部分を差し引いてもなかなかに凄いお坊さんだったようである。当時の仏教界ってのは、公家を中心とする社交界のたしなみや教養みたいな位置づけがあったようで、貧困にあえぐ下層階級の人々には、贅沢で近寄れないものという感じだったんだろうけど、そこにグイグイっと切り込んでいくのが空也聖人。
「罪人であれ、賤民であれ、心から南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土が約束される」という教えは、上層階級からすれば扱いにくい部分もあったろうに、そこを教義や理屈や苦行だけでなく、社会奉仕という実践を併せて行う事で広めていく行動力には敬服する。
俺なんかは決して極楽浄土に行きたいと思ってるわけでもないし、悟りを開きたいとも思っていないが、それでも、自分を鍛えることと、ちょっとだけでも誰かのお役にたてるような人間になりたいと思っている。
そういう俺みたいなんが、この本を読むと、もう自分の至らなさに恥ずかしさも極まってしまうのだけど、不思議と「明日からちょっとずつでも頑張ってこ」と勇気をもらえるのである。
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空也上人の話。
正直名前しか知らなかったけど、楽しめて読める本だった。
本当の歴史がどういうものかは、わからないけど、歴史小説の中では、読みやすい部類に入ると感じた
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空也の一生謎に満ちた部分も多いですが、本書はフィクションとノンフィクションを交えて、空也の実情や思想に迫ります。
空也の思想や浄土信仰、それらのバックボーンが描かれています。
どこにも属さず、一生涯を救済に当てた空也の生き方が感動をよびます。
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醍醐天皇の子であったらしいとの言い伝えがある程度で、史実は不明にもかかわらず、よくここまで物語として書けるもんだ。
個人的には、困った人々を救う様が、凄すぎてリアリティを感じなかった。
一方で、亡骸が捨てられるエリアが出てくるが、火葬場もない時代、伝染病などで多数死んだら、死体は街の外れに打ち捨てられたのだろう。京都では、地域が特定されているのかも。
ところで、史実とは別に、著者の仏教についての知識と宗教に救済を求める思いも、迫力を生んでいる。
物語の最終盤、興福寺の仲算との対話で、「世の中が変われば、人の心も変わる。仏道がそれにどう対応するか」との空也の言と、『仏の教えと心理は不変不滅のものであり、その解釈がみだりに変わっては混乱を招くと思っているのだ』との仲算の思い、とどめの空也の声「いま、この時代に生き、現に苦しみ喘ぐ者たちを救えなくては、意味がないではないか」に、著者の今日の仏教・宗教に対する苛立ちが現れている。
空也が初期に影響を受けた悦良との問答を通して、『物事を突き詰めて深く考え、自分が名遠くできる答えが得られれば、迷いがなくなる、分からないから迷う』と思っていたところ、『自分が実体がないもの、食うなるものにとらわれていることを知ることが大事』と教えられる。非常に仏教らしいが、分かったようで分からん。
宗教者のお話を読むと、良き人にならないとと思う。悪い事を止めて、善を行い、他社の利益に努めようかな、とちょっと思っている。
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南無阿弥陀仏と唱えて修行をした「空也上人」揺れる時代に生まれ「空」を求め、人々に来世の幸せを説いた。
梓澤さんの著作を知って、近作「方丈の孤月」から鴨長明の世界を読みたかったが。図書館ではすでに予約が詰まっていた。それでは他の梓澤作品を読んで作風を知りたいと思った。
平安中期といえば鎌倉の時代に移るまえの武士の台頭も興味深いが。
半ば完成したかのような貴族文化華やかな頃、突如天変地異が襲い、飢饉が人々を脅かし、疫病、盗賊の跋扈と人心の落ち着く間もないほど荒れた時代にもかかわらず、王朝文化が続いていた。
そんな中で生まれた異端ともいえる人々をドラマチックに描き出す梓澤要という作家に興味を持った。
度重なる大火や天災に見舞われ多くの文化的な財産が失われた時代、資料が少ない所を独自の骨太なストーリーに組み上げて、読みだすと止まらない作品にしている。面白い。
時代の流れに翻弄され、それに抗い、あるいは異なる世界を求めて新しい境地を開いた、そんな人たちの生き方の物語は、社会制度は根本的に変わってきたかも知れない現代でも、人の生き方や生きづらさ、苦しみはいつに世でも変わらないものだという思いが、読んでいてもこころに染み入るような気がした。
どんな時代制度の中で生きていても、人として生まれて死んでいくことは、少しも違わない苦楽の世界を背負っている。
歴史の流れを重厚に積み上げる、この方の作品を少し読んでみようと思う。
のちの空也は、醍醐天皇の第二皇子に生まれ、五宮常葉丸と名付けられた、だが母の出自の低さゆえに親王に宣下されず、母は帝の寵愛を失い、自尊心と嫉妬心のはざま狂い幼い常葉丸の腕をつかんで投げそれ以後左腕が曲がり不自由になった。母は井戸に身を投げて死んだ。常葉丸17歳の時。
彼は帝の宴に出た帰りに、鴨川の河原でうずたかく積まれた死骸を焼く煙を見た。そこでうめく人々を背負って運んでいく流れ者の一団と遭遇する。
彼は出奔して死骸を埋葬する仲間に入った。
皇子の教養にと仏教の教えを受けていたが、彼は経文の一つ一つに疑問を持ち授業に招かれた高僧をしつこく質問攻めにするような子供だった。
遺骸の埋葬をする人々がつぶやいているのが、比叡山で見聞きした「阿弥陀念仏」だと思い出す。化野に積み上げられた骸の山の前で、男たちが唱えているのは密教の祈りの言葉だった。ただただ安らかな死を願う手向けの言葉だった、それを聞いて泣いた。
火葬をして死人を弔い時には橋を架け井戸を掘る優婆塞の集団に入った。従って来た通盛はつねに傍らにいた。
わずかな干し飯、干し芋、水でしのいだ、空腹を抱え乞食の日々を耐えた。
虐げられた人々は、あの世で行きつく所を阿弥陀浄土といい、飢えて死んでいくときも、愛する者との別れが今生だけではないと希望を託し、心を鎮め、阿弥陀仏に帰依してその慈悲に惟縋って念仏を唱えることしかできないのだ、と教えられる。
もっと学ばなければならない、常葉は尾張の古刹を訪ねた。まだなんの資格もなくそこで下働きをしながら住まわ��てもらった。経蔵の管理をしている悦良という若い僧について、彼から経典について学んだ。
まず三論宗、「空思想」について教えられる。ここでは、作者は様々に例えて、悦良に語らせている。
「あらゆるものは、因縁によって生ずる。たに依存し、その縁によって起こることをいうので、縁起ともいうが、あらゆる存在やものごとは、それ自身から、また他者からまた自身と他者の双方から、また因なくして生じたものとして存在することはない。いかなる時にも、いかなる場所にも存在しない。それが空というものなのだよ」
「空というとすぐに、何もないとか、虚無ととらえるが、それは間違った考え方なのだよ。空とは永遠に変化しない固有の実体などというものはないということなのだ。すべての物はそれは物であれ、人間であれ、現象であれ、因と縁が関係しあうことで、絶えず変化する。生じ、とどまり、変化し、滅する。生・住・異・滅といって、極端にいえば、一瞬ごとに変化している。それを縁起といおうが、因縁といおうが、因果といおうが、皆同じことだ」
この問答は難しいがこれに続くたとえや、常葉の初心者が持つような質問の答えも、釈尊の言葉で分かりやすく説き聞かせていく。
とらわれないことだという。
「真理を知らぬこと、それが無明だ。無明の闇をあてどなくさ迷い歩いているのがわれわれ人間なのさ」
そしてここで常葉は少しずつ闇に光を見出す気がする。
悦良の前で髪を剃って出家し、沙弥名を空也とした。
空也28歳の時、父醍醐帝が崩御した、清涼殿が落雷で燃え、帝はその時雨に打たれそのままなくなったのだ。最後の別れに上京し藤原実頼に会った。彼は菅原道真を追い落とした忠平の孫で、父時平は摂政まで登ったが精神的な負の遺産を背負っていた。帝の死や近親の早逝も道真の怨霊の祟りと噂され、宮中でも護摩をたき俄かに道真の魂を鎮めるというので社を建造した。
祖父の宇多法皇が崩御した。
空也は淡路島南方の絶海の孤島を目指して修行の旅に出た。彼の最後を看取ることになる頑魯が一緒だった。
苦難の末、島にたどり着き、小屋に安置された十一面観音の前で七日間の不眠不休の行の末霊験を得た。
再び訪ねた尾張に悦良はいなかった。寺と縁を切って陸奥に行ったという。彼の厳しい生き方は世慣れた僧に受け入れられなかったのか。
後を追って空也と頑魯は会津から筑波にむかった。そこで道真に心酔して兵をおこした平将門に会う。将門は空也を暖かくもてなしてくれた、同じ年、月日も同じ生まれだと知ったが,彼は憤死したと言われる道真を祭って都を目指していた。が叔父の良兼の焼き討ちに会い、脚が腫れる奇病を得て死んだ。
空也は帰郷し、次に興福寺の空晴を訪ねて教えを請うた。當麻寺で曼荼羅図を拝し、民衆教化の方法を確かめ深めていった。
そして空の境地にいたる修行、悟りに近づく境地に近づいていった。
「道理、善悪、知識、これらはすべて我欲。往生を願う心も、悟りを求める心も、おのれを縛る執心。自我にとらわれておるのです。執心を捨てねば、おのれを捨てることなどできませぬ。おのれを捨てきらねば、悟りは���られませぬ」
「いかにも……何であれ、何もかも、捨ててこそ」
空也は広く人々に中に入り、不自由な左手の金鼓を鳴らし念仏を唱えながら歩き、鴨川の西に質素な高床の宝殿を建て一日限りの大般若経供養会を開いた。
その後は東山の庵で晩年を過ごした。
声に従っての見仏なれば、息精はすなわち念珠と書いた。
空也71歳、静かに目を閉じた。
作者は仏教学を学び、経典についてや釈迦の教えなど文中は難しい部分も多い。
神にも仏にもあまり縁がない生活で、この本を読むと好きな仏像を見る目、なにかのおりに耳にするすろ読経の声に傾ける耳も少し変わった気がする。
最下層に生まれ自分を守る術の無い当時の貧しい人々が、念仏、経文にすがりせめても死後は安らかであってほしいと願うのも非情で、今、飽食の時代などと言われることにも忸怩たる思いが湧いた。
歴史書を書くには不明な部分も多い時代に、空也という人が信念に従って生き抜いた様子が興味深く、ダイナミックなストーリーに巻き込まれるのも、それを読ませる筆力にも感動した。
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空也上人を知るための仕事用読書1冊目。
歴史上の出来事と空也上人の生涯を並行して知るには良い本。
戦乱、疫病、水害、噴火、日照りに火災、菅公の祟り。公家たちの無関心ぶりとから騒ぎ、そして強行される絢爛豪華な催し物。民衆がすがるのは怪しげな民間信仰。本当に困っている人のところには救援の手は行かず、今生での困窮は前世の報い、あるいは、本人の努力不足か不運のせいになる。僧侶にとっての学問は、自らの権勢あるいは保身のための道具と化している。
ふむ。
ほぼほぼ令和ですな!
ってことは分かってたけど、それを補強してもらえました。
人間・空也については、この小説を読んだからって特に感じるものはありません。なんというか……浅い。登場人物の使い捨ても酷いので、ドラマを期待して読んではいけません。あくまで、歴史の勉強用の本です。
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自分も空也になった感覚で読み進む。自分の心にある嫉妬や他者に対する付き合い方など欲まみれな自分を空也は自分で考えてどうするのかを教えてくれた。しかも空也自身も心の葛藤をさらけだしているので身近に感じる。久々に生きることの意味を考えさせてくれた本に出会う。
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京都市東山区の六波羅蜜寺所蔵の立像で有名な平安時代中期の僧・空也を主人公とした歴史小説。
特定の人類を中心に据えた歴史小説において、空也のような出自や生涯が未詳な人物は大きなネックだろうが、そこを「醍醐天皇の皇子だった」・「平将門と親交があった」等の大胆な創作で補っている。また浄土教や念仏信仰といった当時の日本仏教を可能な限り平易な表現を用い、空也の宗教活動や功績を描いている。多数登場するオリジナルキャラクターがドラマを盛り上げる。
政情は安定せず、民は飢饉や疫病に苦しめられ、仏教界は貴顕に阿り自らの富や権力を増やすことばかりに終止する時代に、官僧としてではなく聖として超宗派的に活動する空也の姿は、宗教者としての本来的な在り方に映った。