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電子書籍
消費される恋愛論 大正知識人と性
著者 菅野聡美 (著)
人々の関心がより内面的なものへと向けられていった大正期に登場した知識人たちは、明治に輸入・翻訳された「恋愛」に何を見たのか。厨川白村の恋愛結婚論をはじめ、いまは忘れられた...
消費される恋愛論 大正知識人と性
消費される恋愛論 大正知識人と性
消費される恋愛論 大正知識人と性 (青弓社ライブラリー)
商品説明
人々の関心がより内面的なものへと向けられていった大正期に登場した知識人たちは、明治に輸入・翻訳された「恋愛」に何を見たのか。厨川白村の恋愛結婚論をはじめ、いまは忘れられた大正知識人たちの恋愛論を主軸に大正恋愛論の可能性と帰結を考察する。
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著者紹介
菅野聡美 (著)
- 略歴
- 1963年神奈川県生まれ。慶応義塾大学大学院博士課程単位取得退学。琉球大学助教授。共著に「売る身体/買う身体」がある。
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紙の本
オンナだったら何でもまんせ〜、になりがちな偏差値世代の優等生ネエちゃんたちの中では、ひと味違ったもの
2001/10/02 22:26
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:大月隆寛 - この投稿者のレビュー一覧を見る
近代ブンガク史および日本近代史方面で、こういうジェンダー論がらみの立論ってのはずっと流行りらしくて、出版物はもちろん、修士論文なんかの題目を検索してみるとこのテは山ほどひっかかる。一方、新書サイズのライト版専門書ダイジェスト、てなここのところ目立つパッケージングの企画は、ここ青弓社でも立ち上がってて、その双方流行りが交錯したところにできた一冊。とは言え、こりゃ中味はなかなか濃い。
明治時代に輸入された「恋愛」が、大正時代にどのように現実におろされ、解釈/上演されていったのか、というのがライト・モティ−フ。とは言えこの著者、それを大正期の男性インテリを可能性の相において読み直そうとし、与謝野晶子や平塚らいてうといったお墨付きな「オンナ」の仕事までも、これら同時代の男性インテリとの関係において正しく位置づけなおそうとするのはいい向こう意気で、オンナだったら何でもまんせ〜、になりがちな偏差値世代の優等生ネエちゃんたちの中では、ひと味違ったものになっている。もちろん、佐伯順子の「恋愛」論などもきっちり批判の俎上で、このあたりはあたしも総論異議なし。それにしても、この方面における佐伯順子ショックってのは、そんなに強烈だったんだなあ、と改めて痛感しましたな。小谷野敦が眼の仇にするわけだわ。
ただ、この著者も琉球大に就職したらしいから、かの沖縄インテリ世間のとんでもない呪縛(化石サヨクというもの言いすら、まだ生やさしい)にかかって、ただの大学のセンセへと「上へ向かって堕落」するのでは、と、ちと気にかかる。文科系のガクモンがメルトダウンしてゆく状況で、こういうテキストと解釈/上演のダイナミズムも含み込んだ「歴史」のとらまえ方をさらりとできる知性ってのは、これから先、間違いなくこの日本語を母語とする版図の第一線で頑張ってもらわねばいけないんだからさ。
紙の本
繰り返される恋愛論
2001/09/04 22:09
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
ここ数年、人文科学の主に社会学や文学研究において流行したのが「恋愛研究」であった。「恋愛」は一般に明治時代に翻訳語として成立し、そして新しく西洋からやってきた概念となっている。だから明治以前には「恋愛」は日本には無かったという考えもなされている。そういった事情もあって、これまでの「恋愛研究」は、主として明治時代を中心にしたものが多かった。だが、それでは研究として不十分だと本書は言う。なぜなら、「恋愛」が定着するには時間がかかるであろうし、それよりなにより大正時代は、「恋愛論ブーム」と言えるような現象が起きていたという。
大正時代には、社会においては情死といったいわゆる「心中」が後を絶たず、恋愛スキャンダルが少なからず起きていた。そのために、人々の間には「恋愛」が大きな関心を呼び、恋愛事件の背景を社会的な問題として考察の対象となっていく。明治時代には「恋愛」は文学の対象であったのだが、大正時代になって思想的な課題として知識人の間に広まったのだ。その中心となったのが、厨川白村である。
厨川白村の恋愛論の特徴は、恋愛結婚を強く押し出していることだ。白村は「恋愛至上主義」と呼ばれるように恋愛に高い価値を置いていたので、それが軽軽しく見られている状況が我慢ならなかったらしい。しかしながら、恋愛至上主義といっても「何よりも恋愛が一番である」というのではなく、彼は「結婚は恋愛によらなければならない」と主張する。したがって、白村の主張は恋愛を社会制度に馴染ませようといったものであり、恋愛の持つ「反社会性」「反逆性」といったことが失われる。毒抜きされた恋愛論なのである。
なによりも恋愛が優先され、恋愛のない結婚は認めない。恋愛がありさえすれば、すべて正しい方向、より良い方向へ向かうという白村の恋愛論。結局、白村の恋愛論は現実問題を解決するどころか、問題を維持している。というのも、恋愛のない結婚では、妻は夫に養って貰う対価として家事やセックスの相手となる。夫の従属的立場となるが、恋愛を基にすれば互いに対等で家事も賃金労働の間にも優劣がなくなり、それぞれが相応しい仕事をするのであって、従属や強制といったことが無くなる。いわば恋愛の名のもとに、性別役割や経済力の問題は温存されることになる。つまり「愛する夫の世話をする、そして愛する妻を養う」のは当然ということになるだろう。
明治時代では、恋愛は神聖なもので、肉欲(=性欲)との対立があったのだが、白村の恋愛論は、性欲、恋愛、結婚この三つを一体とした。結局白村の恋愛論は、すべて恋愛によれば、幸せになれるという「恋愛論」であった。要するに「正しい結婚のすすめ」といったものだ。
本書の最後の章では、大正時代の恋愛論は現代の源流であろうとする。恋愛結婚イデオロギーは、男女それぞれ抑圧してきた。だが、大正時代と異なるのは、性欲、恋愛、結婚という三位一体が崩壊しつつあるということ。著者は、現代における結婚の価値、セックスの意味の希薄化に可能性を見る。価値の低下によって、人は抑圧から解放されて各個人によって自由にライフスタイルを選択できるようになるだろうから。
現代も依然として恋愛論のブームである。歴史は繰り返されるのだろうか。それにしても大正時代と異なり、今や恋愛幻想、結婚への幻想も失われつつあるのに、それでも恋愛への関心だけは高い。人は、なぜ幻想だと分かっていても、恋愛に惹かれるのであろうか。