紙の本
音楽って深刻
2008/11/16 09:43
6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:カネゴン太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
宮下氏の著作は前作『ゲルニカ』から読み始め、『20世紀絵画』、『20世紀音楽』(いずれも光文社)と読みつないできました。そして、本書『カラヤンがクラシックを殺した』。絵画(美術)と音楽を縦横無尽に駆けめぐる著者は、色々なところで叩かれているようですが(「宮下誠の絶対領域」というブログ内で拝見)、主張は一貫していて、私の心にはとても響いています。私たちはどこか、この世界の出来事を他人事にして片付けてしまってはいないでしょうか。もっと身近なもの、当たり前を疑ってみなければならないのではないでしょうか。本書と直接関係ないかもしれませんが、宮下氏の著書を読むと、既成概念に風穴が開けられるような想いがして、思考が拓かれます。まずはとっかかりとして、是非本書を手にとってみてください。
紙の本
カラヤンがクラシックを殺した
2016/09/17 12:40
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投稿者:Carmilla - この投稿者のレビュー一覧を見る
筆者の専門は20世紀を中心にした美術史と芸術学で、その方面では高い評価を得ている。
その筆者が「カラヤン」をテーマにしたクラシック音楽の本を書いたのは、専門分野である「20世紀の芸術」との関連性があったからだろう。だができあがったのは、難解であり、見苦しく、独りよがりな文体で彩られた、この上なく醜悪な「カラヤン批判本」だった。筆者は「カラヤンによって、クラシック音楽が持つ精神は堕落する方向に向かった」と主張するが、そのような音楽を受け入れたのは現代の聴衆である。カラヤンは彼らに受け入れられるように、自分が持っている美学を大衆にあわせてに過ぎない。非難されるべきは、彼にそのような美学を要求した聴衆であり、カラヤンではない。
筆者がカラヤンを嫌うのは勝手だが、このような主張がクラシック音楽のファンを買うのは当然であり、ネット上の評価が芳しいものでないのも宜なるかなと考える。
余談だが、筆者は本書を上梓してから約半年後に急逝した。今生きていたら、どんな音楽評論を書いていたのだろうか。彼の書いた哲学本、美術本をもっと読んでみたかった。
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音楽を材料にした下流哲学
2008/11/25 19:38
15人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが死去して来年でちょうど20年になる。ベルリン・フィルの指揮者を長らく勤め、おびただしいディスクを世に送り出したカラヤンは、クラシック音楽の代名詞的な存在であった。日本の音楽雑誌も没後20年ということで改めてカラヤンを取り上げているようである。
そうした風潮に挑戦するかのごとく、カラヤン批判の本が出た。ただし急いで付言すれば、カラヤン批判は彼の生前からあり、カラヤンの名声はいわばそれと同量の批判を伴いながら存在していたのである。したがって私は、どんな新しい視点が本書に盛り込まれているのかに注目したのだが、残念ながら読後感は芳しくなかった。
感心したところもある。カラヤン嫌いを標榜する著者がカラヤンのディスクを徹底的に聴いていること。本書の目的は普通の意味でのディスク批評ではないと著者は断ってはいるが、音楽を論ずる――と言えるかどうかが実は問題なのだが――本で基礎的な部分を押さえておく、つまり批判する相手の音楽的業績を知っておくのは大事なことで、そういう意味では著者の誠実さが伝わってくる本であることは強調しておきたい。
また著者のカラヤン批判は、必ずしも目新しくはないものの、同感できるところも少なくない。「カラヤンとモーツァルトは水と油」という評言など我が意を得たりと手を打った箇所であった。
しかし、である。本書で一番問題なのは、著者のカラヤン批判そのものではない。上述のように、カラヤンの音楽的感性や商業主義を批判する言説は生前から少なからずあったのであり、著者の見解はそこからさほどはずれてはいない。むしろ私が大きな疑問を抱いたのは、著者の持っている哲学自体に対してなのである。
なぜなら、本書は著者がカラヤン批判に名を借りておのれの哲学を披瀝した本なのであって、というかそういう本に過ぎないのであって、その哲学自体のいかがわしさが本書の価値を大きく損なっていると見えるからだ。
ではその哲学とはどういうものだろうか。それは「はじめに」と第1章を読めば明瞭である。
「20世紀末から21世紀にかけての絶望は、人類がこれまでに経験したことのない類の、より深度の深い絶望」「帝国主義は一向になくならない。(…)多くの国々で、国家という名の下に制度化された暴力が一人一人の人間の尊厳を奪い、結果として個性は記号化される」「いわゆる大衆の救いがたい凡庸さには目を覆いたくなる。人が人を殺し、強者が弱者を抑圧する」「いわゆる中流幻想も、『民衆』を『大衆』へと知らず知らずに移行させ、ささやかな幸福感で満足させる極めてよくできた抑圧装置であり、気付こうとする、或いは目覚めようとする意志に対して、目前に迫った危機感や、絶望的なまでの人間不信、人類の救いがたい愚かさに気付かせぬように巧妙にそのネットを張りめぐらしている」
……こういった類の大げさで「絶望」を繰り返す文章が次から次へと出てくるのだ。
では、そういう著者にとってクラシック音楽とは何なのだろうか。「モーツァルトの音楽は本質的には暗い。そして狂気に満ちている」「「暗さと狂気という点では(…)ベートーヴェンの音楽にも共有されている」「〔ブルックナーの〕殆ど狂気と言って良いほどに緻密に仕上げられた対位法」「その狂気と絶望は共有し得ていないものの、ニールセンの交響曲第4番『不滅』もカラヤンのごり押しの力業が奏功して」「カラヤンの音楽は、時代の病理や狂気に抵触しない限りにおいて(…)抜群の適性を示している」「〔指揮者ケーゲルは〕知的と言うより、狂気に満ちた、どこかマッド・サイエンティストのような狂った理知主義的音楽」
……本書ではかくも「狂気」という言葉が大安売りされている。
そう、狂気や病理がなければ、著者にとっては芸術ではないし芸術家でもないのである。本書ではそうした著者の理想(?)を体現する指揮者としてクレンペラーとケーゲルが挙げられている。
たしかに芸術家やその作品に常人には想像もつかぬ狂気が宿っていることはあろう。ただし、そういう「狂気」を言葉として濫発するのが芸術的な態度だとは私は思わない。音楽は所詮音楽であって政治ではない。音楽家は所詮音楽家であって革命家ではない。仮に音楽や特定指揮者の音楽づくりに現存する社会とは違う何かを想起させる力があったとしても、それはあくまで一瞬の夢のようなものなのであって、政治によって世の中の欠陥を一歩一歩変えていく作業とは根底的に異なるものと知るべきであろう。
著者のおかしさは、例えば次のような文章を見れば明瞭である。「彼〔ケーゲル〕は資本主義の欺瞞を鋭くかぎつけ、社会主義によってそれを克服できると本気で考えていた。しかし彼の言う『真正な社会主義』など絵に描いた餅に過ぎなかった。世の中は、右も左も欺瞞だらけだ。それでもケーゲルは戦い続けた。/その音楽の苛烈さはどうだろう」
ケーゲルの社会主義幻想を批判しつつ、音楽によってケーゲルは戦い続けたのだ、と著者は言っている。冗談ではない。ケーゲルにどれほど政治が分かったというのか? カラヤンと対蹠的なケーゲルの音楽づくりを指摘するのはいい。しかしそこに政治的な戦いを見るのは著者の幻想に過ぎない。どんな社会だろうと世をはかなむ人はいる。逆にどんな社会でも楽天的に生きていける人もいる。ケーゲルはたまたま前者だったというに過ぎまい。
「狂気」「絶望」を濫発しながら、どこかうれしそうな著者の顔が見えるような気が私にはする。それこそ資本主義下で言葉や観念によってのみ過激になっていくタイプの学者がいるものだが、そういう学者の書く本がどういうものかを知るためのサンプルとしては、本書は貴重であろう。
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今まで読んだ中での最凶の悪書。
カラヤンを通じて自分の考えを敷衍してるにすぎないマスターベーション的内容。
おおよそ「新書」のカテゴリーからははずれた随筆ないしはアジビラ的内容。
カラヤンを批判するのはいいが論理が完全に破綻をきたしている。
クレンペラーとケーゲルを称揚するのはいいが、それも説得力に欠ける。
難しい言葉を羅列しているが、簡単に書けばよいのだ。
曰く、指揮者、音楽家は通俗的であったはならない。大衆に背を向けろ。大衆の好む音楽をやるな。指揮者自身変わり者であれ。悲劇的であれ。(クレンペラーやケーゲルがそうだからね)。
で、このひと「大衆」が大嫌いである。大衆を無知であると考えている。そういう「無知な大衆」がオレの大好きなクラシック音楽を貶めて汚してるだとの論理である。
それこそ著者が言う、憎むべきファロス中心主義・ロゴス中心主義なんじゃないのか?。
このひと論理を進める中で、自分自身に刃を向けているような気がしてならない。
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酷評なのか、賛辞なのか、わからなかった。
カラヤンがどんなだか知らないのに読むっていうのが、
最初から無理だったようで、ぱらぱらっと読んですぐに返却。
「どうせ売れないから、好きなこと書いてよいよ」と
編集担当とやりとりしたようで、
存分に好きなように書いてあることは感じられた。
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國學院大学文学部教授(20世紀西洋美術史)の宮下誠によるオーケストラ指揮者カラヤンへの批判。
【構成】
第1章 音楽の悪魔-プロレゴーメナ
第2章 流線型の美学-ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)
第3章 孤高の絶対音楽-オットー・クレンペラー(1885~1973)
第4章 絶望の音楽-ヘルベルト・ケーゲル(1920~1990)
20世紀で最も有名なオーケストラ指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤンへの毀誉褒貶は枚挙に暇がない。本書はそのタイトルから知れるように数多あるカラヤン批判の一冊である。大学の文学部の教授が精神史的・芸術史的見地から批判しているつもりらしい。
曰く、20世紀は世界大戦に象徴されるように苦悩と絶望に苛まれた時代であり、そのような時代の苦悩を投射せずに美しさのみを求めたカラヤンの音楽は20世紀という時代への犯罪的行為であり断罪されるべきであるそうだ。それをカラヤンの音楽と、それに対比させる形でのクレンペラー、ケーゲルの存在によって論じている。
そもそも、なぜ戦後冷戦下で長期的な平和の下にあった西ヨーロッパ、アメリカ、日本でそのような精神的苦痛をクラシック音楽に反映させなければならないのか、あるいは戦前の音楽に対してはそのような精神的な苦悩を聴衆が求めていたのか、などはかなり疑問だが、たとえそうであったとしても、この作者の主張には何等の説得力も持たない。
まず本書の論理構造からすれば、カラヤンの音楽が非精神的であり、それが20世紀後半の大衆の傾向を象徴するものであるとしているが、それならば断罪されるべきはカラヤンではなくそのカラヤンの音楽を享受し続けた大衆にあるはずである。世界最高のオーケストラ指揮者であったところで、聴衆の支持のない指揮者がポストを継続できるはずもないし、まして大量のレコード、CDの録音を残せるはずがない。つまり、著者が絶賛するようなクレンペラーやケーゲル(あるいはフルトヴェングラーもか)のような音楽の内面性にまで踏み込んだ演奏がありながら、軽薄なカラヤンの演奏を「聴衆がなぜ選択したのか」が論じられるべき問題であろう。
それを単純な印象論で演奏解釈をあげつらい、ベートーヴェンやブラームスはドイツ的重厚に、モーツァルトは「悲しみ」を表現すべきなどという時代錯誤の見解を並べ立てるなど、滑稽で痛々しいほどである。読了した感想を端的に言えば、カラヤンの音楽よりもこのような論理性の欠片もない文章を草する愚かな学者の方がよほど断罪されるべき存在であろう
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批判するということは、技術がいることだなぁと思った。
気分が悪くなり、途中で断念。
ただ、著者の奥さんが、
「自殺したくなるからやめて」と言ったという、
ケーゲルの指揮したアルビノーニの「アダージョ」とやらを
聞いてみたい。
絶望しきった音楽とは、どんなものなのか?
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[ 内容 ]
20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。
その流麗な「美」に魅せられた人は少なくないだろう。
しかし、「カラヤン以後」、音楽の風景は一変し、何かが決定的に失われてしまったことに気づいているだろうか。
かつて音楽を聴く聴衆は、その成り立ちに息を潜めるがごとく、宗教儀式のように音楽を体験し、享受した。
そこには特別な「意味」が存在した-。
本書は、カラヤンの音楽と、それを鋭く断罪する二人の音楽家、オットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーブルの、絶望や狂気、矛盾や破滅が内在する『危険な音楽』を通して、20世紀から現代までを覆う「負の遺産」を問い直し、音楽、芸術、そして人間存在を考える。
[ 目次 ]
第1章 音楽の悪魔-プロレゴーメナ(死後20年目のブーム 音楽の言語化 ほか)
第2章 流線型の美学-ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)(『大地の歌』 人口楽園 ほか)
第3章 孤高の絶対音楽-オットー・クレンペラー(1885~1973)(満身創痍の鉄人 アンチ・モラリスト ほか)
第4章 絶望の音楽-ヘルベルト・ケーゲル(1920~1990)(自殺したくなる音楽 途絶えたキャリア ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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どういう内容の本多か調べもせず何気なく買って何気なく読み出したのだが、カラヤンを通して20世紀という時代の人類の行過ぎた快楽主義を問うという内容だった。しかもカラヤンと比較されるのがクレンペラーとケーゲル。読み始めてどんどん引き込まれていった。しかし、この本で使われている言葉、哲学や美学の用語なのだろうが私には一度読んでも意味が酌めずに数回読みかえした文が何回も在った。
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ちょっと面白いタイトルでしたので、手にとってみました。今は自分で演奏することはないですがクラシックは4年間いちおう演ってましたので気になります。
さて、内容は表紙に記述されているものをそのまま引用します。
20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。その流麗な「美」に魅せられた人は少なくないだろう。しかし、「カラヤン以後」、音楽の風景は一変し、何かが決定的に失われてしまったことに気づいているだろうか。かつて音楽を聴く聴衆は、その成り立ちに息を潜めるがごとく、宗教儀式のように音楽を体験し、享受した。そこには特別な「意味」が存在した。
本書は、カラヤンの音楽と、それを鋭く断罪する二人の音楽家、オットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルの、絶望や狂気、矛盾や破壊が内在する「危険な音楽」を通じて、20世紀から現代までを覆う「負の遺産」を問い直し、音楽、芸術、そして人間存在を考える。
著者の巻頭言のみ引用。
20世紀のある時点で、クラシック音楽は見紛うことなく、一つの「死」を経験した。その「死」は、人類という種の、今日における絶望的状況の一断面を鮮やかに浮き彫りにする。
このような事態を象徴的に体現したもののひとりが、ほかならぬ、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン、その人である。彼、あるいは彼を取り巻く状況は、時代の病理を理想的に映す鏡である。私たちは、そこに己の姿を映し、見つめ、考えなければならない。
はじめにでも書いてあるのですが、著者の終始主観で、結構丁寧に書かれています。明らかに人によって受け止め方が異なるので、自分の考えはあえて入れませんが、面白い考え方、視点です。
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『クレー──越境する天使』のなかで、本書のことが触れられ、その内容に対する中傷によって、著者は相当に消耗したと書いてあった。カラヤン的なものが、その流線型への化粧が覆い隠してしまった、音楽が本来深く肯定すべき、苦悩に満ちた、死と隣り合わせの生の本質に迫る表現を、クレンペラーとケーゲルの仮借のない音楽に見て取る著者の議論が、なぜそれほどの攻撃の対象にならなければならないのか。そこには一部の歴史修正主義とも共通する、慰撫された状態を逆撫でされることへの過剰な反撥があるのかもしれないが、そうしてまで寄りすがろうとするものが虚無でしかないことを、まずは直視するべきだろう。ただ、そのことを暴き出す著者の議論は、読んでいて痛々しい。やむにやまれず書いたことがひしひしと伝わるが、もう少し、それこそクレンペラー的に論理を積み重ねても良かったのではないか。編集者に恵まれなかったようにも見える。すでに鬼籍に入った著者とは、一度音楽や絵画のことを語り合ってみたかった。
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一つの音楽に この著者が考えていることに対し
内容に対して かなり賛否両論あるんだろう。
確かに その時の歴史的時代背景や
著名な作曲家達の気持ち 精神や宗教や思想が
一つの形としてクラシック音楽となっているものだと思う。
ただ それはその著者の思考であり
個人の精神論であり
みんながみんな そうではない。
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駅ビルの本屋さんで購入する。正直、期待はずれでした。著者の本は、いつも期待はずれです。この本を読むまでは、こちらが悪いと思っていました。僕には、美術、音楽を楽しむための基礎的教養が欠けています。それが、理由だと思っていました。もちろん、それも、原因の一つだと思います。主な原因は、著者にあることが分かりました。芸術評論は、可能なのでしょうか。絵画を見て、美しいと感じる。音楽を聴いて、すばらしいと感じる。それは、言葉で表現できるものではないでしょう。もちろん、何故、すばらしいと感じるのかを知りたいと思います。しかし、それは不毛なことではないでしょうか。著者の書くものは、すばらしいという感動と理屈がつながっていないのです。完璧に、言葉では表すことはできないが、どうにか伝えたい。それに対して、著者の評論は、すばらしいという感動と評論がつながっていないのです。大衆化が、クラシックを大衆に伝わりやすい分かりやすいものにした。それは、きわめて退屈だと指摘している。それが、正しいかどうか分かりません。では、大衆化しなかったクラシックとカラヤンとどこが違うのでしょう。それを具体的に指摘していません。これでは、誰も納得しません。
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言っていることは概ね当たっていると思うし共感も感じるが、カラヤンによって薄っぺらで物事を深く考えない今の社会がもたらされてるというのは言い過ぎである。むしろそのような社会の兆候あるいは表出がカラヤンなのではないかと思った。
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ヘルベルト・フォン・カラヤン批判の書。比較対象としてオットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルを称揚する。「カラヤンに代表される価値観、資本主義的競争原理における勝者の立場の影響力の大きさ、それに対する知的反省の欠如、私はこれらに対しては極めて明確に否定的立場に立たざるを得ない」という主張には思わず諸手を挙げて賛同したくなるが、冷静に読めば、衒学趣味と浅薄な文明批判のだしにカラヤンを利用しているにすぎないとも思う。叙述がなんとなく許光俊のエピゴーネンくさい。