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文章の書き方ではなく、文章とはどういうものなのか、どうあるべきかについて再考させてくれる1冊。美しい文章や技巧に富んだ文章を書けたらという気持ちはたいていの人は持っていると思うが、もっと根源的なこと、「何を」、「誰に」伝えたいのかを考えさせてくれる。登場する文章は必ずしも名文ではないものが多いが、妙に心にひっかかり読み返したくなるものばかり。堅苦しい書き方の本ではないので、肩の力を抜いて読める。
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これを読んでも、名文は書けないだろうなあ。
というか、そもそも「名文」を書く必要があるのか?とすら思えてくる。
無学なおばあちゃんが生涯でただ一度書いた手紙(遺書)、「自由」な文章、「素人」の書いた文章。
それらを賛美するなら、なにも文章教室なんて必要ない。みんな好きなように書けばいいのだ。
ただ、それが「他人が読むに耐えるものかどうか」という基準だけは、やっぱり忘れないでほしいなあと思う。
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よい文章とは何かという問いに、この本ははじめから答えを言っている。綺語を弄した文章ではなくて、誰かに伝えたいと思って腹の底から出た言葉だ。
技術論というよりも心構えの書。「文章教室」と銘打っているが文章読本にありがちな必読リストは無く、あまり美文という訳ではない文章が範として引かれる。文字を知らなかった老婆が必死に学んで残した文章であったり、はちゃめちゃなパロディ小説であったり、労働の中で書く文章であったり、ぼけつつある人が書き残した文章であったり、美しいと言うよりも、どちらかといえば重点が置かれているのはもの凄い文章の方だ。中にはジョブスのスピーチもある。
書き口は語り口調で馴染みやすく、大切なことは何度でも繰り返しているため判りやすい。
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タカハシさんの書く「小説」ではない(と一応されている)文章は、それでも紛れもなく「小説」であると私は思う。
いささか乱暴かもしれないけれど、「小説」が「読むひとそれぞれに何かを語りかけてくるもの」であり、一方たとえば「評論」が「読むひとに何かを教示するもの」であるとするならば、タカハシさんの書くものはすべて「小説」としか感じられないのである。
タカハシさんの「小説」ではない(と一応括られる)文章を読むと、タカハシさんの声が聞こえてくるような気がする。
語りかけられていることはひとつだけ。
「なにも気にせずおもったように書けばいいと思うよ、それでじゅうぶん」。
本文のことばを借りるなら、totalではなくてwhole。
いつもタカハシさんのことばには母性の香りがする。
そしてじぶんも何か書きたくなる。
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もちろん、有り体の文章作成指南書ではない。
「文章」を書く前に、身体化された表現に数多く触れなければならないという、当たり前のことに気付かせてくれる。
鶴見俊輔の本が読みたくなった…
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「等身大の」自分が書く文章を心がけても、「二倍になった(粉飾された)」自分を書いてしまうように、就職活動をはじめ、作文を書くとき、それが正しいことだと教わってきました。読書感想文とか。しかしながら、ありのまま、そのままの文章を書くこともまた難しいことだなと思うのでした。
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こんなことって滅多にないのですが、最初から最後まで一文字も内容が理解できませんでした。自分で自分の頭が、どうかしちゃってるんじゃないの?と思いながら読んでいました。だんだん、自分のあほさ加減に腹が立ってきました。そういう意味では、ものすごい本です。
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この人の文章読本は、
何冊目なのだろう。
たくさん出している。
でも、
これは今までのものより、
ちょっと違う。
何が違うか。
生きる、ということが、
言葉とどう関係しているかが、
中心に書かれてある。
初級向けの文章引用はない。
老年になって、
はじめて読み書きを覚えた言葉で、
書く、「遺書」。
鶴見俊輔の少年時代の、
「校長先生」の短い言葉の意味。
何度、書くの? と思わせる、
小島信夫著「残光」の、
文章のこと。
「小島さんは判っていたのじゃないか、ぼけて<やっと書ける文>のことを」
と新たな、小島信夫論の進展。
高橋源一郎がずっと思考している証拠が、
この本にある。
持続して考え続ける、
ということ。
それも、自身が「偉い人になりつつあるまわりの雰囲気、イメージ」を拒むというか、通過する重要性のことを、
鶴見俊輔の「校長先生」の短い言葉から学んでいるように、
思えるのです。
後半の鶴見俊輔論は、面白くないけれど、
僕は好きだな、この作家は。
っていうか、みんなの文章教室で、
あれだけ鶴見俊輔のことを書くというのは、
まあおそらく僕の読みが、まだ浅いからだろうと思う。
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この本はすごい本だと思う。
『文章教室』というもの(本も含めて)に今まで縁がなかったし、今回もなんとなく教室を覗いてみただけ。そんな出会いだった。
なのに、片足を廊下に残してちょっと覗いた人間を教室の中に引っ張りこみ、座らせ、テキストに釘付けにし、講義にのめり込ませてしまった。
難しいし、「分かった?」と聞かれたら「なんとなく…」とぼそっと返すしかないけれど、引用されている文章も、それに対する高橋源一郎さんの文章も、私を揺さぶって何かを決定的に変えてしまったのではないかと思う。
いや、思いたい。
『文章教室』という教室のすごさ。
もっと言えば、文章のすごさということになるのかもしれないけど、とにかく圧倒される。
もっと読みたい。
もっともっと読みたい。
そして私が立っている場所のこと、そこから見えるもののこと、伝えたいことを伝えたい人に伝えられるようになりたい。
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高橋源一郎の文章教室。といっても美しい文章を書くための教室ではない。高橋サンの文芸評論ではいつも取上げられた文章が全然別のものに見えてくる。
例えば、この本で取上げられている印象的な文章は、小島信夫のボケ老人小説や木村センという遺書を書くためだけに文章を習って初めて書かれた文章。
どちらも高橋さんに取り上げられなけが出会ったとしても何じゃこれで終わる文章だ。
特に小島信夫の小説に対してはある種の希少性に対するレスペクトがある。「直し」が入っていない文章。これを「直接的」、子どもの言葉のように「直接的」だと言う。
高橋サンは死者およびいまだ生まれていない者への視線について言葉を重ねてきた。そして小島信夫の小説を、死んだ人間が書く小説と言う。これらの文章は逆に文章には相手があることを強く意識させるのである。
また労働について書かれた文章について、高橋サンの経験も交えて語ってくれる。次の「思い出しながら、書いた」の中に労働経験を通じて「出会った」文章もあるのだろう。
「ぼくは、ぼくがどうやって「文章」を書くようになったのかを思い出しながら、この本を書いた。ぼくは、たくさんの「文章」を読んだ。そして、いくつもの、素晴らしい「文章」たちに出会った。その「文章」たちは、ぼくを揺すぶり、時にはぼくを突き放し、でも、いつも必ず最後には、ぼくを優しく抱きしめてくれた。そして、気がついた時、ぼくは、ぼくの「文章」を手に入れていたのだった。」
自分も、素晴らしい文章に会ってきたんだろう。高橋サンの文章もその中のひとつだ。
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著者が好きな文章たちを読者に紹介、どこがどういいかを解説してくれる。朝吹真理子さんの文章を、「わけがわからないもので一杯」な世界を文章自体に充満させた、という説は、ちょっと目から鱗だった。
「伝わる」事に重きをおくのか、まったく違う視点で書くのか。
作者いわく、必要なのは、(真剣に相手の)目を見ること、(落ち着いて、世界でなにが起こっているのかを)耳を澄まして聴くこと。だそう。個人的には、短い文章を書く難しさに思いを馳せる。なんとなく手に取ったけれど、面白かった。
それにしても、著者が親切すぎるくらい親切でやさしい。
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本書は一般的に言われる「文章が上手に書けるようになる本」とは少し違います。取り上げられている文章はあまり知られていないもの、一見しただけでは何が書かれているのかわからないものばかりなのです。それなのに、なぜか印象に残ってしまう、心に響いてくるから不思議です。上手な文章とはどういうものなのか?本書の中から心に響く文章を見つけてみてはいかがでしょうか?
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文章を書くノウハウ本というより、こういうのも文章だ、という見本市のような本だった。おばあさんが生まれて初めてかいた、誤字だらけの文章が強烈に胸に残った。文章はテクニックじゃないと教えてくれる。
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私は文章を書くのが苦手だから。それを少しでも克服したいと手に取った一冊だった。ただ、その想いは読み始め10分で裏切られた。
この本は文章の実践的な書き方(構成の仕方、などなど)について説いていない。その本質について語っている。
普通のハウツー本では飽き足らない方にオススメ。
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「ぼくら」すなわち「素人」が書くべき文章とは何か、また人と文章の関係とは何かを、様々な文章を通じて考えていく本。文章「講座」ではなく文章「教室」であることが良く分かる、著者と共に考えていくような作りとなっている。
この本の根底にある考えは、等身大の自分(自分の生き方や生きる場所)を見つめて考える手段が、文章を書くという行為であり、「玄人」の文章、すなわち優れた文章を書くことは、その延長線上にあるということである。
この本は、1章および2章が「はじめに」に当たるイントロダクションの部分である。それから、天→地と降りていくように、死者の文章、プロの(上手な)文章、普通の人の(身近な)文章と、多くの引用文を見ていく形となっている。構成上、読みやすい文章、あるいは書けそうな文章は中盤から後半にかけて出てくるため、頭から読んでいくと少し理解が難しいかもしれない。それでもこの本は、上手で特別で「誰も書いたことがないような」文章を書こうとしがちな「ぼくら」にとって、本当は何を書けばいいのか教えてくれる、何度も読み返すべき本であると言える。