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難解である。この年になってもまだわからない部分が
ちらほら。まだまだ情けない自分を感じる。
おぼろげながらではあるが言わんとしているところ
はわかって、納得する部分、共感する部分も多いが、
細かなというか、ところどころで落ちない部分もあった。
もう少し、後でもう一度読んでみたいと思います。
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ちょっと鼻息荒くなってしまうくらい、おもしろかった。情操教育について、想像力について、歴史について、それから、オバケについて!
ここしばらく思っていたことや気になっていたことがなぜかここでつながっていく不思議。頭より、私の手が確信をもってこの本を掴んでいたような気がする。
知る者は好む者に如かず、好む者は楽しむ者に如かず。
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小林秀雄が言っていることの半分も僕はちゃんと理解できてないと思うんですが、この人の言葉は信用できる、共感できると直観的に思うのです。
そして小林秀雄って人は、とてもかっこいいな〜と思うんです。
女にもてただろうな〜と思うんです。
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026
問題を出すということが一番大切だ、問題をうまく出せばすなわちそれが答えだ、いま物を考えている人がうまく問題を出そうとしない。答ばかり出そうと焦っている。
歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るというのは、古の手ぶり口ぶりが、見えたり聞こえたりするような、想像上の経験をいうのです。
信ずるということと、知るということについて。。。。
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自分は何も問えていないし、
何もわかってはいないということ、
そしてもっと多く問うものがあるということ、
そのことだけがひしひしと感ぜられた。
記憶というものに関し、感動との関連を今後より精細に見ていきたい。
〇引用
人間同士の会話とは相手に意味と同時に言葉を植え付けることだと諭す
⇒言葉を植え付けるというのは、絵画を厳然としたあの「吸引」に似ている。聞き書きも同根だと思われるが。その植えつけられた「言葉」の意味を問うこととは、いったいどういうことだろうか。
君は客観的にはなれるが、無私にはなかなかなれない。しかし、書いている時に、「私」を何も加えないで「私」が出てくる、そういうことがあるんだ。自分を表そうと思っても、表れはしないよ。
考えるは、昔「かむかふ」といった。考えるとは、「自分が身をもって相手と交わる」ことだと本居さんは言っている。だから考えるというのは、宣長さんによると、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な関係に入りこむことが、考えることなのです。そうすると、信じることと、考えることはずいぶん近くなってきませんか。
神は、僕なら僕の非常に個人的経験を通じて経験されるのです。僕の哲学を通じて、あるいは僕の神学を通じて神を知るのではないのです。
あるとき君は、ある山を見て賢いと思う。そこには神がいる。君はその神様と話をすることができる。君はお祈りをすることができる。君は、神様が何かを命令されたように感じる。
記憶を現実生活の中に呼び覚ます、思い出していく。
「あはれ」を感じるものがなければ歴史を読まない方がいい。まず共感しなければいけないものだ。共感するには「あはれ」を感じるでしょう。それはイマジネーションが働いているということだ。
このイマジネーションがないと、人間は本当には認識などできない。ただ視覚でものを見るのではない、実は同時にイマジネーションでものの裏側まで見ているのです。
諸君のめいめいの中に、全歴史があるんだ。ただ、それを諸君が感じてゐないだけなんだ。
雄弁術の目的は、だから真理にはない。真理ではなく、自分の利益にあるんです。
ソクラテスが非常に嫌ったのは、何かの利益のために人を説得しようとするレトリックです。真理と言うものを目指せば相手なんていらなくなる。自問自答していればいいのだ、それだけです。
創作と言うのはやはり、いつでも一つのフォーム、形式なんですよ。自分のナマの経験を、あるフォームに仕立て上げなければならない。それが創作の歓びなんです。そしてその創作の歓びというものは、けっして人のためではない。やっぱり自分で自分のナマの経験と言うものを整理したいという欲求があるのだな。
本当の経験の味わい、経験のリアリティなどというのは、自分でもよくわからないんだ。何か強烈な経験をした時、直に来る衝撃が強いでしょう?その強い衝撃で、みんな我を忘れていますよ。その時、自分が本当に何を言っ���か、何を感じたか、どう行動したか、どう変化したか、どんな意味があるのか、本当に強烈な経験をした場合、なかなか知りえないものです。それこそ私の経験上、そう言えるな。すぐにわかるような経験と言うのは、あまり大した経験ではないね。
みんな自分の経験については支離滅裂なことしかわからないものだ。そこで創作と言う形式が必要になるんです。
想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情も直感もみんな働いている。そういう充実した心の動きを想像力と言うのだ。
対話というものが純粋な形をとった時、それは理想的な自問自答でありうるのです。そこに理想的な自問自答の形をみた。
僕は計画を立てて、何かをしたとうことは、まずないんですよ。
感動しなければ、人間はいつでも分裂しています。だけど感動している時には、世界はなくなって、自分自身と一つになれる。自分自身になるというのは、完全なものです。その人なりに完全なものになるのです。つまり感動している正体こそ、個性ということですよ。
僕は感動を書こうとしたのであって、自分を語ろうとしたのではない。ただ感動がどこかからやってきたのです。
理解するのは易しい。ただしこれを血肉化するのは難しい
イマジネーションは、いつでも血肉と関係がありますよ。イマジネーションというのは頭全体を働かせることですね。頭や精神というのは、常に肉体と直接に触れ合うものです。嬉しくもなるし、顔色にも出ますし、体もどこか変化してきます。本当にイマジネーションというのは、すでに血肉化された精神のことではないですかね。「イマージュ」って「姿」のことですよね。イマジナシオン、イマジネーションって「姿を作る」ことです。何かの姿を作り上げる時、それは必ず血肉化しています。
芸術家をイマジネーションの鋭い人だと呼ぶのは、芸術というものがいつでも体と関係しているからです。
イマジネーションというのはそういうふうに、すでに血肉化された精神
古典を読むというのは、その場その場の取引です。古典が生きているということは、君が生きているということなのです。古典はどんな君にも応じるのですよ。
歴史というものはいつも主観的でしかない
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国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、読了。本書は評論家・小林秀雄が、昭和36年から53年にかけて5回にわたって、全国の学生と交わした講演・対話の記録。録音を文字化したやりとりは、文士・小林の「対話の達人」ぶりをあますことなく生き生きと蘇らせる。贅沢な一冊だ。
自ら手の入らぬ講演速記も録音も許さなかった文士・小林。関係者の情熱が極秘録音という形で残された(新潮社のCDで聞くことが出来る)。小林は志ん生の語りから学んだというが、学生とのやりとりはむしろ自然体であることに人柄出ている。
「本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ」。学生とのやりとりはさながらソクラテスの対話編。講義は「文学の雑感」、「信ずることと知ること」を収録。『本居宣長』執筆中のため、秘密明かすが如き話題が多い。
講演と対話を通読し、驚くのは小林の柔軟な思考態度。対立的に捉えることを退けながら、矛盾の同居の意義を説き明かす。ベルグソンへの言及も多く「直覚を分析」したことを評価するが、小林の本質把握には瞠目する。生きた渾身の批評ここにあり。
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講演CDの白眉をなすのが「信ずることと知ること」である。個と普遍、感情と理論を見事に語り切ってあますところがない。しかもそれを集団の力と結びつけることで個の喪失をも暴き出している。小林は「私」(わたくし)を重んじた。「信ずる心、信ずる能力を失った」という指摘は新興宗教にも向けられたものだ。
http://sessendo.blogspot.jp/2014/06/blog-post_8.html
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ことしもっと注目の新刊のひとつが昭和の英知への回帰というのは少々さびしい気がしないではないが、時代の変化に耐え得る思想として生き続ける条件である強靭さよりもむしろしなやかさをこのころの小林は備えていたということなんだろう。つまりそれはこの本の価値を決めるのは読み手であるという当たり前のことだ。
ベルグソン、柳田國男、本居宣長らに託された、哲学・歴史・文学・科学・信仰、あらゆる人間領域を横断する「近代の超克」への意志。その最終局面は学生たちを前にして、一切の諦観を排し火を湛え続けて鋭利である。
「敏感で利口な人には、人生がやさしかったことなど一度もありません。」
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現代文の授業を思い起こさせる。ことばの奥深さに触れた。また、問答や歴史によって自らを認識できるという話にはいたく感心した。感動が人を動かす。
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自分の中で気になっているんだろう。最近いろいろな場面で小林秀雄という名前を見かけることがある。
いつかこの人の本を読んでみたいと思っていたが間違えなく難しいだろうから無理だなあと思っていた。
が、そんな時にこんなにわかりやすい本が出てくれたことに感謝しなければ。これなら読みやすいはずだ!
と思って読み始めたがそれでも難しかった。
しかしはっとする話は多くあったし今後もっと新しい発見があると思う内容だった。
そのなかでも人間の精神、魂というのは確かにあってしかしいまだ科学的に証明できない。科学はものを測ることしかできない。
また、良い質問を心掛けなさい。
良い質問ができれば答えはもう自分の中にあるはずだという話などが特に印象的だった。
なるほど頭の良い人は考え方がとても柔軟でオカルトなど幅広い分野にも興味を持つのだなと感じた。
またしばらくしたら他の本も読んでみたいと思う。
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難しくて分からないところもあったけれど、その部分も含めて面白かった。
僕のかすかな知的部分が、かなり刺激されました。
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録音は断固拒否、講演記録は門外不出を徹底した小林先生まさかのリーク本(あとが きで逆鱗に触れかねないとことわりが・・もちろんご遺族には取付け済みですが)。
それもそのはず、確かに言葉だけが独り歩 きされては困る内容だし、全国から九州に集まった学生を相手に真摯を究め 対応ゆえの叱咤の数々。 まさに「かくすれば
かくなるものと知りながら」に代表されるような、言葉で表現できない世界と言葉で表現される世界の機微を指導する内容ゆえ納得いきます。
これは、ライブ版新潮CD版(録音・・)を聞かざるを得ないと感じました。 以下は一部抜粋。
『僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデロギーというものが幅をきかせるのです。責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。』
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☆5(付箋23枚/P205→割合11.22%)
この会を本にすることが出来た編者は言う。
(小林秀雄は講演を本にすることを酷く嫌った)
先生は、はじめにこんな話をされた。「うまく質問してくださいよ」、「問題がなければ質問しないわけですからね。問題が間違っていれば、質問しても仕方ないわけです。うまく問題を自分でこしらえて、質問をこしらえなければなりません」。
先生は、対話を進めていけば自問自答になる。さらに進めば「答えを予想しない問いはない」ところにいく。だから「問答を実らせる力は問いのうちにある」とおっしゃったこともある。
立て方が正しければすでにそれが答えになる。批評、文筆、歴史家の知恵の書。
〇科学は、本当に物を知る道ではなく、いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、そういう便利な法則を見いだす学問なのです。
それもたいへん必要なことだけれども、見誤ると、科学さえやっていれば僕らは物を知ることができると思ってしまう。
「そっちの原因は何だ?」「そっちの原因はこうだ」
「じゃ、あっちの原因は?」「あっちの原因はこうだ」。
これ、無限でしょ?原因は無限に、いくらでも調べることができる。一体、これが物を知ることですか?
〇カントは、物が―物質でもいい、精神でもいい、世界でもいいですが―本当は何であるかということは、学問で証明することは不可能なのだと証明したでしょ?
科学は、実在とは何かを知ろうとしているのではないのです。実在の<関係性>を調べるのが科学です。実在の本質 、つまり物自体とはどういうものであるかを調べるのは形而上学です。その形而上学が不可能であるということをカントは証明しました。
〇学生D:
われわれ学生はいかなることを理想とすべきか、また個人と全体との関係はどうあるべきか、それが理屈としては わかりますが、実感として湧いてこないのです。先生はどうお考えですか。
小林:
君に実感として湧いてこない理想を、私が君に与えることはできない。孔子が「憤せざれば啓せず」と言ったように、あなた自身が憤することが大切だ。理想というものは、人から教わるものではない。
参考にするものはいくらでもあるが、理想に火をつけるのは君だろう?
孔子は続けて「悱せざれば発せず」とも言っています。口でうまく言えず、もぐもぐさせているくらいでなければ、導いてやらないというのです。こういう教育はだんだん少なくなったが、原理としては、これが亡びるということはない。
だから、君の質問には、僕は答えられない。いまどういう理想をもったらいいか、ああ、それはこうだよということ は言えない。君が発明したまえ。学問には必ず自得しなければならないものがあるのだ。
個人と全体の問題もやはりそうですよ。自分だったらどうするか、ということになるわけです。だから本当の知恵などというものは、そんなにたくさんはないのです。
ああ、いいですね。学ぶという事は厳しいことでもあって、それが楽しい。
最後にもう一つ、女子学生の質問から。
〇女子学生D:
先生は「昔の人の心を知るのには、昔の心を持っていなければならない。今の人はみんな、現代の心を持って昔の心を見ているだけで、そこには想像力がまるで働いていない」という旨をおっしゃいました。
では今の私たちが古人の心を知り、その心を持つためには、想像力だけで十分なのでしょうか。
小林:
十分です。想像力という言葉を、よく考えてください。想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情も直感もみんな働いている。
歴史を知るには、想像力だけで十分なのでしょうか?
→十分です。
この言い切り、思考の経験。痺れました。
***以下抜き書き**
・諸君は本居さんのものなどお読みになら ないかも知れないが、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」という歌くらいはご存知でしょう。
この有名な歌には、少しもむつかしいところはないようですが、調べるとなかなかむずかしい歌なのです。先ず第一、山桜を諸君ご存知ですか。知らないでしょう。山桜とはどういう趣の桜か知らないで、この歌の味わいは分かるはずはないではないか。宣長さんは大変桜が好きだった人で、若い頃から庭に桜を植えていたが、「死んだら自分の墓には山桜を植えてくれ」と遺言を書いています。その山桜も一流のやつを植えてくれと言って、遺言状には山桜の絵まで描いています。花が咲いて、赤い葉が出ています。山桜というものは、必ず花と葉が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の 桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。
…宣長さんは遺言状の中で、お墓の恰好をはじめ何から何まで詳しく指定しています。何もかも質素に質素にと指定していますが、山桜だけは本当に見事なものを植えてくれと書いています。今、お墓参りをしてみると、後の人が勝手に作ったものですが、立派な石垣などめぐらし、周りにいろいろ碑などを立てている。しかし肝心の桜の世話などしてはいないという様子です。実に心ない業だと思いました。
・今の歴史というのは、正しく調べることになってしまった。いけないことです。そうではないのです、歴史は上手に「思い出す」ことなのです。歴史を知るとい うのは、古の手ぶり口ぶりが、見えたり聞えたりするような、想像上の経験をいうのです。
・歴史を知るというのは、みな現在のことです。現在の諸君のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇って来る。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の今の心の動きなのです。こんな簡単なことを、今の歴史家はみんな忘れているのです。「歴史はすべて現代史である」とクローチェが言ったのは本当のことなのです。なぜなら、諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではないからです。それは史料の中にあるのではない。諸君の心の中にあるのだから、歴史をよく知 るという事は、諸君が自���自身をよく知るということと全く同じことなのです。
・もう一つ重要なことは、歴史は決して自然ではないということです。現代ではこの点の混同が非常に多いのです。僕らは生物として、肉体的には随分自然を背負っています。しかし、眠くなった時に寝たり、食いたい時に食ったりすることは、歴史の主題にはならない。それは自然のことだからです。だから、本当の歴史家は、研究そのものが常に人間の思想、人間の精神に向けられます。人間の精神が対象なら、それは言葉と離すことはできないでしょう。
・学生A 先生がフロイトについて話されたところで、精神は生理的要因にあまり影響されないと言われたと思いますが、実際の生活で全面的にそういうことが言え ますでしょうか。
小林 無論、生理的なものと精神的なものは絶対に密接な関係があるんです。ですから、生理的な原因から説明することのできる精神現象はたくさんあります。けれど、フロイトは、異常な心理を扱った心理学者です。
そんな異常な心理は、いわゆる解剖学的な、肉体の生理学的な原因からでは、とても説明ができそうもない。生理的には全く異常のない、すこぶる健康な患者が出てくるわけですからね。
・カントは、物が―物質でもいい、精神でもいい、世界でもいいですが―本当は何であるかということは、学問で証明することは不可能なのだと証明したでしょ?科学は、実在とは何かを知ろうとしているのではないのです。実在の<関係性>を調べるのが科学です。実在の本質 、つまり物自体とはどういうものであるかを調べるのは形而上学です。その形而上学が不可能であるということをカントは証明しました。
・もう一つ、庶民という問題があるね。庶民は物を考えなかったなんて、これは嘘です。そんなものは今の色眼鏡で見た考え方です。もう少し、昔の学者の生活を調べなければいけない。伊藤仁斎という人は材木屋の息子で、学問が好きで、独学を続けた。やがて京都で塾を開いて、ひたすら月謝によって彼は生活したのです。その月謝というのはどこから来たか。これはあらゆる階級から来たのです。無論、農民もいます。町人もいます。公家もいます。武士もいます。
彼らは学問が面白かったのですよ。面白くなくて、どうして百姓が来ますか、町人が来ますか。
・学生B 社会のあらゆる分野が専門化されていく時代に、現在の教育制度はどのように変えて行ったらよろしいでしょうか。
小林 学問の分化をはばむ理由は何もない。学問が分化しながら進歩するのは当然でしょう。しかし教育の問題となると、学問の分化以前のことで、「学ぶ」という基本的な意味が考えられていなくてはなりません。教育論などという大問題は、私にはお話しできないが、さしあたり考えるに、現代の教育に一番欠けているのは感情の教育でしょう。情操の教育が一番欠けているのではないですか。
学校の先生方が、生徒を美術館に連れていったりしますが、きわめて形式的なことです。あれは美術に関する知的教育をやっているのであって、美しいということを感じる力が育成 されるのかどうか、そこはまったく考えられていない。
・もう一つ悪いのはジャーナリズムの趣味です。戦後の青年はどうだとか、いまの青年はどうだとか、騒ぎ立てすぎるのではないですか。戦前の人と戦後の人の間の思想の食い違いというようなことなど、お互いに捨てるがいいのです。これは一種の猜疑心です。
いくら外面的なことが変っても、少し深い問題とか、微妙な問題に入ってみると、戦前も戦後もない大問題が人生にはたくさんあります。いまの世の中がむずかしくなったとか何とかいうけれども、敏感で利口な人には、人生がやさしかったことなど一度もありません。
・学生C 先生は、学問とは知る喜びである、道徳とは楽しいものであると言われましたが、私には苦しいことのほ うが多いのではないかと思えます。いかがでしょうか。
小林 喜びといっても、苦しくない喜びなんてありませんよ。学問をする人はそれを知っています。嬉しい嬉しいで、学問をしている人などいません。困難があるから、面白いのです。やさしいことはすぐつまらなくなります。そういうふうに人間の精神はできているのです。子どもの喜びとは違うのです。
喜びというものは、あなたの心の中から湧き上がるのです。僕が与えることのできるものではない。学問が喜びであるか、苦しみであるか、というような質問は、質問自体がおかしい。それはあなたの意思次第です。
・学生D われわれ学生はいかなることを理想とすべきか、また個人と全体との関係はどうあるべきか、それが理屈としては わかりますが、実感として湧いてこないのです。先生はどうお考えですか。
小林 君に実感として湧いてこない理想を、私が君に与えることはできない。孔子が「憤せざれば啓せず」と言ったように、あなた自身が憤することが大切だ。理想というものは、人から教わるものではない。参考にするものはいくらでもあるが、理想に火をつけるのは君だろう?孔子は続けて「悱せざれば発せず」とも言っています。口でうまく言えず、もぐもぐさせているくらいでなければ、導いてやらないというのです。こういう教育はだんだん少なくなったが、原理としては、これが亡びるということはない。だから、君の質問には、僕は答えられない。いまどういう理想をもったらいいか、ああ、それはこうだよということ は言えない。君が発明したまえ。学問には必ず自得しなければならないものがあるのだ。
個人と全体の問題もやはりそうですよ。自分だったらどうするか、ということになるわけです。だから本当の知恵などというものは、そんなにたくさんはないのです。
・歴史家ならば、自分の心の中に、藤原の都の人々の心持ちを生かすという術がなければいけない。つまり、歴史家には二つ、術が要る。一つは調べるほうの術。そして調べた結果を、現代の自分がどういう関心をもって迎えるかという術です。
・批評というのは、僕の経験では、創作につながります。僕は、悪口を書いたことはありません。少し前には書いたこともありましたけれども、途中から悪口はつまらなくなって、書かなくなった。悪 口というものは、決して創作にはつながらない。人を褒めることは、必ず創作につながります。
・科学は、本当に物を知る道ではなく、いかに能率的に生活すべきか、行動すべきか、そういう便利な法則を見いだす学問なのです���それもたいへん必要なことだけれども、見誤ると、科学さえやっていれば僕らは物を知ることができると思ってしまう。
「そっちの原因は何だ?」「そっちの原因はこうだ」「じゃ、あっちの原因は?」「あっちの原因はこうだ」。これ、無限でしょ?原因は無限に、いくらでも調べることができる。一体、これが物を知ることですか?
・人生というのは、大きな芝居みたいなところがありますが、さまざまな俳優がいろいろ面白いことをしているのを客席から見ているだ けではいられなくなる。僕らはその芝居の中へ入って、自分も俳優になろうとします。それが人生だよ。そして、そこで働くものが認識なのです。
・人間は、自分の得意なところで誤ります。自分の拙いところではけっして失敗しません。得意なところで思わぬ失敗をして不幸になる。言葉もそれと同じだな。あまり使いやすい道具というのは、手を傷つけるのです。
・僕は自分の子供の頃をよく振り返ってみるが、親父のことなんか、みんなお見通しだったね。ああ、親父はこういう性質を持っているなと見抜いていたよ。いい性質もあった。悪い性質もあった。僕は14、5歳の時に、そのくらい見抜いたね。諸君だってそうだろう?子供ってみんなそういうものだよ。非常に敏感なものだ。子供の教育と かなんとかって、今やかましいことを言うけれど、子供に対して少し恥じればいいんだよ。
・昔は、『増鏡』とか『今鏡』とか、歴史のことを鏡と言ったのです。鏡の中には、君自身が映るのです。歴史を読んで、自己を発見できないような歴史では駄目です。
・経験、経験と一口に言うが、自分が本当に何を経験したかなんて、実はよくわかっていないものなんだよ。本当の経験の味わい、経験のリアリティなどというのは、自分でもよくわからないんだ。何か強烈な経験をした時、直かに来る衝撃が強いでしょう?その強い衝撃で、みんな我を忘れていますよ。その時、自分が本当に何を言ったか、何を感じたか、どう行動したか、どう変化したのか、どんな意味があるのか、本当に強烈な経験をした 場合、なかなか知りえないものです。
・女子学生D 先生は「昔の人の心を知るのには、昔の心を持っていなければならない。今の人はみんな、現代の心を持って昔の心を見ているだけで、そこには想像力がまるで働いていない」という旨をおっしゃいました。では今の私たちが古人の心を知り、その心を持つためには、想像力だけで十分なのでしょうか。
小林 十分です。想像力という言葉を、よく考えてください。想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情も直感もみんな働いている。
・どうして宣長までたどり着いたか、確かなことは言えません。ただ、感動から始めたということだけは間違いない。感動というのは、いつでも統一されているものです。分裂した感動なんてありません。感動する時には、世界はなくなるものです。感動したときには、どんな莫迦でも、いつも自分自身になるのです。
これは天与の知恵だね。人間というのは、そういう生まれつ���のものなのだな。感動しなければ、人間はいつでも分裂しています。だけど、感動している時には、世界はなくなって、自分自身と一つになれる。自分自身になるというのは、完全なものです。莫迦は莫迦なりに、利口は利口なりに、その人なりに完全なものになるのです。つまり、感動している正体こそが個性ということですよ。
・「無いにも有るにもそんな事は実はもう 問題で無い。我々はオバケはどうでも居るものと思った人が、昔は大いに有り、今でも少しはある理由が、判らないので困って居るだけである」―柳田国男
・先生は、はじめにこんな話をされた。「うまく質問してくださいよ」、「問題がなければ質問しないわけですからね。問題が間違っていれば、質問しても仕方ないわけです。うまく問題を自分でこしらえて、質問をこしらえなければなりません」。先生は、対話を進めていけば自問自答になる。さらに進めば「答えを予想しない問いはない」ところにいく。だから「問答を実らせる力は問いのうちにある」とおっしゃったこともある。
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「全国学生青年合宿教室」(4泊5日)に小林秀雄さんが登壇するときは300、400人という学生が全国から集まったという反応に驚きます。知りたいことがあれば、移動は苦にならないことのあらわれだと思いました。引用したい発言がたくさんありました。終始、自分がまずどうしたいと考えるのか、質問するまえに考えろといわれているようで、自分の奥行きを作っておかないことには、解決につながる道すじは、質問の答えを待っているだけの姿勢では見えてこないようです。
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スペシャリティとオリジナリティーの違い。
本来自分らしさというのは自分の無能さ無力さ、気質、弱さを克服して、普遍的な人格のもとで滲み出てくるもの。
万人の如くに知り、自分流に信じる。最後は自身のその日その日の選択と決断であろう。