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とてもおもしろかった。頭のよい(独自の視点を持ち深くよく物事を考えておられる)ひととひとの、忌憚なくなされるおしゃべりを一緒に聴く楽しみ。
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橋本治さんと内田樹さんの対談を納めた本。
またしても、内田本です(笑。
ここ半年くらい、内田樹さんの本は、結構な頻度で読んでいて、もはや、内田ファンなんだろうと自認しはじめておりまが・・・・。
この本の魅力は、当代きってのコトバの使い手二人による、ハイブローな会話なのですが、正直、何回も「もうやめよう」と思ってしまいましたw。
なんというか、結論がないというか、どこに向かって会話が進んでいくのか、全然読めないw。
主には内田さんがコトバを投げかけ、それについて、橋本さんが、自由奔放に思いついたことを喋り、それを内田さんが拾いなおそうとするんだけど、言った先からまた次の話題へと展開していってしまう、みたいな、収拾のつかない会話が繰りかえされます。
読みようによっては、頭の良い二人(二人とも東大卒)が、自分達の知識の深さと感性の鋭さを自慢しあっているだけじゃないか、って感じもしなくもないのですが、それでもなんとなく、読了しちゃうまで、頑張って読ませちゃうんだから、何かしら、魅力があるんでしょうね。
ただし、そんな感じでどこに行くのか、何を結論にするのかなど眼中にない本なので、断片的に、ぐっとくるフレーズはあったものの、読後感としては、「終わった~」ってなもんで、何かを得られた感は、あまりありませんでした。
まぁ、休み明けのぼけた頭にはちょうど良い刺激なった、というところでしょうか。
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本にマーカー引きすぎてえらいことになっている。
それくらい「そうだよな!」とか「そうだったのか!」が詰まっている。
身体知は大事。
水泳ばかりやってたら水泳に有利な身体になるように、
文句ばっかり言ってたら文句を言うのに有利な身体になる。
この前読んだ「ミラーニューロン」も、
人間が形から変化することを証明しているのではないかな。
特に唯物論的なことを言いたいのではない。
心というものはあると思う。
愛とか勇気とかと同じくらいには。
愛とか勇気とか国家とか常識とか、
それらすべては共同幻想だから、
なんとなく皆が「在る」と思っているものは「在る」ことになっている。
その方がこのよくわからん世界を生きるために都合がよろしいのだろう。
幽霊もそう。
天皇もそう。
天皇が万系一世というのも実際にそうである必要はなくて、
そういう物語が共有されているというのが大切。
その方が上手く社会が廻る。
少なくとも今までは廻ってきたわけであるからね。
以下、
興味のあった話題を羅列。
・文明化された都市で残された自然は身体である。
とするとピアッシングやタトゥーは身体の文明化になる。
・「、」と「・・・」の違い、タメの表現。
・タフネスの理由は幸福な思い出にある。
・「義務教育」を「教育を受ける義務がある」と思っている学生が多い。
「オレ様化する」のは無時間モデルの消費者思考だから、
少ない労力(授業に出ない・聞かない)で、
どれだけ利益(単位・点数・学歴)を得るかに執心する(コスパ)。
とりあえずクレームつける、とかは典型的な「賢い消費者」の行動だろうな。
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対談集の苦手な私が珍しく楽しめた。
たとえば文学者の語る公共の概念が特に面白い。
社会学者や政治学者ではなく、文学(研究)者と文学(執筆)者が語る公共:一人ひとりが自分のできることを「お互いさまだからね」と差し出すこと。相手のそれを受け取ること。
橋本治が「理解できないことを書かない」「理解してから書く」「理解するとは、自分がその話し手になりきれること」という基準を持っていることにも驚き、その責任感に胸が暖かくなった。
今度、ひとつ読んでみよう。
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ファンを公言しているので、内田先生が橋本氏に多少寄っているところがあるのはやむを得ないとして、まあそれを差し引いてもとてもおもしろい対談集であった。けっして引かれたレールの上を歩こうとしない、というのが橋本氏の一貫した姿勢なんだろうけれども、内田先生もよくその姿勢に合わせられるなあと、頭のいい2人だからこそできた対談ではなかったかと。
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タイトルそのまんま、お二人の対談集。
5年くらい前の対談ですが、内田先生が言っていることが震災後も全然ブレてないのがすごい。
二人が掛け合うごとに話がどんどん広がっていって、面白い。橋本さんの著作は読んだことがないのですが、すっかり橋本先生のファンになりました。
橋本さんの「教養というのは、くだらないことを分かるためのパーツ」という話がおもしろかった。ことにこのお二人の対談は、哲学から古文から映画から義太夫・能楽に宇多田ヒカルまで知ってないと、すみずみまでは楽しめないものなぁと実感。あぁ、世の中のことが全部知りたい。
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大好きな橋本治と、最近興味を持った内田樹の対談集ということで読んでみました。
橋本治が自信を持ってあちこち話題が飛ぶのを、内田樹が常識でつなぎとめようという感じの対談でした。
たとえば、橋本治は桃尻娘を書くときに、
俺が知っている十二年分、彼女が知らないんだな。そういう引き算をしちゃったんです。
と、主人公のキャラクターのパーソナリティの作り方を明かすと、内田樹が、
先生は誰でもそういうことができると思ってるんでしょ。引き算が。あえてしないんじゃないんです。「できない」んですよ。引き算なんて。
と応じてみせる。うん。全般そんな感じのやり取りが続く本です。
★★★
また、内田樹が自身のブログの敷居が高いと言われたけど、敷居の下げ方が分からないとこぼすと、インターネットをしていない橋本治が、
簡単ですよ。書き手の個性をもろ出しにしてしまえば、敷居は低くなるんですよ。テヘッとか、入れるとか。
(snip)
普通に書くということが、偉そうであるということに、もうなってしまったんですよね。
この回答が内田樹の役に立ったかどうかは分からないけど。ww
★★★
あと、これは大切だって思って思わずツイートしてしまったのだけれど、
内田 壊すのは簡単なんですよ。物を壊すのって。作るのは壊す百倍くらい手間がかかるから。
橋本 でも何かを作ると、ちゃんと壊れるんですよ。最大の破壊は建設なりと思っていますから。
内田 すごい、これは名言! そうか、そういうことを考えるんだ。
橋本 だって新しいものがあって、古いものあったら、もういらないな、となって、古いものって完全に捨てるじゃないですか。中途半端な捨て方は、捨ててないんですよ。破壊なんかされると、破壊しちゃったけれど、ちょっと惜しかったんじゃない? といわれますから。
内田 ほんとうにそうですね。批判なんか、あまりしても意味がないんですよね。批判するくらいなら、批判されているものよりもいいものをこっちで作っていれば、自然に不用品は捨てられちゃうんだし。
ということで、おもしろいですよ。おすすめ。
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橋本治と内田樹の対談。本書で内田先生が述べている通り、「橋本治とは何者なのか」を橋本フリークの内田先生が対談で解体していくような本。ところが橋本先生は、解体できるような、生半な存在ではなかったとまざまざと思い知らされる本。面白かったです。
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有意義な雑談って感じですね。内田樹さんを知らなかったのですが、内田さん「私は性格悪いから」と繰り返し対談で語られてましたが、橋本治と比べるとかなり普通のおじさんに感じてしまいます。内田さんの聞き上手ぶりが冴えてる不思議な一冊だと思いました。橋本さん、借金は返せたのだろうか…(余計なお世話)。
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読む人を選ぶ本である。五十歳代の男性なら、共感できるところが多いだろう。対談集だが、どちらかと言えば、橋本治が主で、内田樹が控えに回っているところが面白い。内田樹といえば、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで、次々と本を出しまくっている超売れっ子である。
一方、橋本治はといえば、「背中の銀杏が泣いている。止めてくれるなおっかさん。」のポスターで売り出したことを知っている人が今どれだけいるだろうか。それよりも、『桃尻娘』や、その桃尻語で訳した『枕草子』に始まる日本の古典の現代語訳シリーズのほうが今では有名かも知れない。美術、歌舞伎にも造詣が深いマルチ・タレントとして異彩を放つ。
ではあるが、橋本の本はまともに書評されたことがないのだそうな。「小説現代」でデビューした橋本は文芸二に属していて、「文学界」や「群像」のような所謂文芸一との間には、一本の線が引かれているらしく、文二のほうは中間小説と呼ばれ、文一の「純文学」とは同じ扱いをされないのだという。この文一、文二という分類の仕方が可笑しい(橋本と内田はともに東大卒)。
ジャンルを軽々と飛び越え、編み物の本も書けば、ちくまプリマー新書(このシリーズを企画したのも橋本)のように教科書風の本も書くという橋本のような書き手は、批評家としても批評しにくい相手にちがいない。そういう意味では、この対談集は内田による「橋本治」解剖という狙いがあるのではないだろうか。そう考えると、誰にでも喧嘩を売ると豪語する内田のここでの低姿勢ぶりが理解できる。
実際、東大の先輩にあたる橋本に対し、内田は以前から秘かに尊敬の念をあたためていたらしい。評者などは読んだこともない「アストロモモンガ」だとか「シネマほらセット」などというばかげたタイトルの本や「デビッド100コラム」や「ロバート本」などという巫山戯たものまで読破しているらしい。頒価が1100円だったところから『ナポレオン・ソロ』を洒落てみたというが、分かる人がどれだけいたことか。
『窯変源氏物語』九千枚を書く中で、夕霧中将が漢詩を書くのだが、紫式部も実際の漢詩までは書いていないのを平仄から勉強して漢詩を作ってしまったというから、橋本治、並みの凝り性ではない。また、それをごく自然にやってしまうというあたりにずば抜けた才能を感じるのだが、評者などから見れば対談相手の内田樹もそんじょそこらのインテリとは頭の良さがちがうと常々感じていたのに、橋本相手だと内田がただの優等生にしか見えないほど、橋本のパーソナリティはブッ飛んでいる。
橋本の放つ言葉に、「はあはあ」とか「ふーむ」と返事をするばかりの内田に、ファンはいつもとちがう焦れったさを感じてしまうにちがいない。「ひさしを貸して母屋を取られる。」ということわざがあるが、今売り出しの内田センセイが、どこかの知らないご隠居に説教されているような雰囲気が濃厚なのである。
しかし、そこは賢明な内田センセイのことだ。はじめから、そういう狙いでこの対談を受けたにちがいない。素晴らしい才能が世間にまともに評価されていないことに業を煮やし、自らヨイショに出たのだろう。狙いは当たったのではないか。ヨイショに気をよくしたわけでもないだろうが橋本治が結構素顔を見せている。
啓蒙家的な素質を持つ橋本治と大学教授でもある内田樹の対談である。若者や教育について卓見が光る。また、身体論、古典芸能への傾倒ぶりもある年齢を迎えた読者には興趣が深いものがある。喫茶店の隅で、煙草でも吸いながら、頭のいい二人の話を聞いているようで実に愉しい。特に近頃どこでも肩身の狭い思いをしている愛煙家にはお薦め。溜飲の下がる思いのすることうけあいである。
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13039
自分自身や仕事について語りながら、日本の歴史、社会、文化、世相にまでリンクしてしまう、まさに縦横無尽な対談。
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天才橋本治について、内田センセイが尋常ならざる興味を持って切り込んでいく、という体の対談。したがってこのタイトルはちょっとヘンだな、と思う。内田樹ミーツ橋本治なのである。どちらも世の常識からすると相当ヘンな人なのだが、やはり橋本治という人はどこか超越してしまっているような風格がある。人を食ったような、でもこれ天然なのかな?とかよくわからない。それでいてその言葉がしばしば本質を鋭く突いているように感じるから始末が悪い。データで説得しない説得力の最たるものではないだろうか。
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橋本治さんの公共性への感覚が、わかる!!って思いました。私もなによりも公共的でいることが憧れだとよく思ってました。
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賢い人って世の中にはいるんだなあと実感。
でも、あの窯変源氏を書き上げる人が
まともなはずないの(笑)
でも、気張りすぎてないので、
電車の中で読むのにちょうど良かったです。
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あとがき(by橋本治)より
「今をときめく内田樹が橋本治と対談をしているのである。なにも知らない人がこれを聞いたら、「きっと、すごく重要なことを縦横無尽に語っているのだ」と勘違いしてしまうかもしれないが、この本には「重要なこと」なんかろくにない。なにしろ、この対談集の主たるテーマは、「橋本治」だからである。」
まさにそう、そう勘違いしてしまっていました。
基本的には、橋本治の盛大な自分語りの本。橋本治を大好きな内田樹に促されるままに、語る語る。そのための本だから良いんだけど、これを享受できるだけの橋本治愛は、いまの私にはまだなかった。読んだことのあるいくつかの本は全てとても面白かったのだけれどね。
それでも随所随所、私が少なからず興味をもっている「なにか」について、たとえば戦後の民主主義教育のことや、小津映画のこと、おしゃれについて、神仏混こうについて、、、語っている箇所は、それぞれへ~と思えて楽しかった。