投稿元:
レビューを見る
1月?
(かつて?)文系大学生が読むべき本といわれる第三弾である。
[内容]?ではヴェーバーとマルクスを取り上げその「方法とその周辺にある諸問題を」扱っている。まず、章前半ではマルクスが扱われる。「マルクスは、人間生活の歴史が結局外的―経済的利害状況によって大きく軌道づけられると考え」ており、一方で、彼が、内的―人間的な諸動機から発する諸個人の行動の法則性の問題を視野の外に置いたのは、「最小限度に必要なもの、そうした第一に着手さるべきものとして経済学批判の仕事に集中した」と筆者は推測する。マルクスにおいては、上部構造は経済的な基礎(下部構造)から根本的な制約を受けていることが強調され、上部構造の運動法則に関しては積極的に何も言われていなかったのだ。ではヴェーバーはどうであるかというと、「重点の差異はあれ、終始様々な文化領域に手足や頭をつっこん」でいるという特徴がある。そして彼は、「経済学的利害状況による根本的な制約を十分に認めながらも、それだけには止まらないで、さらに他の文化諸領域における社会現象がそうした経済的利害状況の制約から相対的に独立して、どういう『固有な法則性』をもって独自な動きを示すのか、また逆に、経済の動きをどのように制約することになるのか」ということを正面から取り上げている。つまり、一つ確かなこととして指摘できるのはヴェーバーの「社会学」は、マルクスの場合よりも射程距離が大きいということである。?では、「ロビンソン・クルーソウ」の物語の意図しようとしたことを筆者なりの解釈で説明してある。それによると、作者のダニエル・デフォウは、ロビンソン・クルーソウという架空の人物に仮託し、当時のイギリスの現実の一面を書いているのではないかという。つまり、当時イギリスの国富を担っていた、さらにまたその輝かしい将来を担うであろう中産的生産者層の行動様式の中に含まれている、こうした側面をユートピア知的に理想化して描いたのではないかと筆者は指摘している。?では、「儒教とピュウリタニズム」という二軸を中心にヴェーバーの宗教社会学の観点から説明がなされている。まずヴェーバーが宗教に注目した理由は、宗教的社会倫理といったものを分析し、調べていくとその角度から、それぞれ、その当時の民衆の生活の根本的なあり方を、あるいは社会の構造を見通すことができると考えたからだという。そして、彼の分析では、旧中国における宗教的二重構造を指摘する。つまり、儒教が一つの身分的倫理であり、支配者層と結びついたのに対し、一般の勤労民衆と結びついていたのは、道教ないし、俗間の仏教であった。一方、キリスト教の発展の場合は、「民衆の宗教意識が絶えず支配者層の宗教意識を自分の中に捲きこみ、消化して、そこから新しい生命の躍動する文化を絶えず生み出していった」という。二者の違いは、前者が二重構造が固定化しているのに対し、後者は、二重構造が発生しても絶えず壊されていくという点にあるという。?では、ヴェーバーの社会学の基礎が紹介されている。彼は、宗教と経済の二つの対極とする緊張関係の中で歴史的現実の動きを推し進める根本的なダイナミックスを見出そうとする。つまり���経済的な利害状況とは日常的なものである。一方で宗教ないし思想というのは、非日常的なものをはらんでいる。個々人は歴史過程の中で利害状況に基づき行動するが、歴史の曲がり角というべき状況では、宗教ないし思想による新たな理念が、決定的な作用をもたらすのであるという。
[感想]
読み始めたときは正直読了することができるかどうか不安になったが、読みすすめていくと内容に引き込まれた。とくにマルクスとヴェーバーの比較というのはすごく意外な感じがしたが、双方が向いているベクトルは全く違う方向を向いているわけではないという点は読み終わり納得した。しかし、彼らの目的がどこにあったかを考えるとそれは自明のことであったのかもしれない。全章を通し筆者の考え方が一貫しており、それぞれ別々の講演内容を文章化したものであったがわかりにくさはあまり感じなかった。
投稿元:
レビューを見る
ウェーバーとマルクスって書いてあるけど主にウェーバーの社会科学の方法について。
大塚久雄のウェーバー解釈の特徴は、ウェーバーとマルクスを相反する経済思想家と見るのではなく、両者に共通するものがあるとしている点にある。巷では「マルクスと対峙する」と形容されるウェーバーは、マルクスを批判することによってマルクスの見解を相対化しながら自分の立場に大きく取り入れていったのだとか。また、よくある「ウェーバーは宗教のみで世界の動きを説明しようとしている」というウェーバー批判をばっさり斬り、「宗教に焦点を当てているのみで宗教のみで説明しようとしているわけではない」とウェーバーを擁護し、その社会学における洞察力を高く評価している。
一番おもしろいのは3章の「経済人ロビンソン・クルーソー」のところ。「ロビンソン・クルーソー漂流記」はイギリスの資本主義勃興を象徴するような小説で、ロビンソン・クルーソーこそ「合理的経済人=ホモ・エコノメトリカス」であるとする解釈は本当におもしろい。実際、ロビンソンは無人島で囲い込み(=エンクロージャー)を行い農業や牧畜を行って富を蓄え、時の概念を忘れず、さらに貸借対照表までつけてしまうようなアダム・スミスが想定するような「合理的な」人間だったわけです。また、ロビンソンが貨幣の蓄積にはまったく興味がなかったということも歴史家の歴史解釈と一致する。そうそう。資本主義というのは現代社会に蔓延するような拝金主義ではなくて、禁欲的に労働にはげみ、労働それ自体を目的として献身したがために、偶発的に富の蓄積が得られたというキリスト教の隣人愛に起源をもつ経済システムである(ウェーバーの解釈によれば)ということを忘れるな。
投稿元:
レビューを見る
人間の「疎外」に立ち向かったマルクスとマックスウェーバーを比較検討した本です。
マルクスは封建社会から分業が成長していった結果、自由を手にしたように見えたが、むしろ人間から大きな力が働いて人間から離れて行き「疎外」が生まれていく。これを解決しなければならないと考えた。
マックスウェーバーは、歴史のダイナミックな過程から文化的な領域、宗教にまでその対象を広げてゆく。その文化的な領域が経済を制約し、「疎外」が発生すると考えたのである。
問題の対象が非常に大きな問題であるために、やや分かりにくい部分もあるが「疎外」に対して異なるアプローチを行った二人を比較検討した良書である。
投稿元:
レビューを見る
ヴェーバーとマルクスの採った社会分析の手法を解説。
口語でちょっと要点はつかみづらいけれど、両者、とくにヴェーバーに関する記述は秀逸。
投稿元:
レビューを見る
マルクスとウェーバーの共通性や相違点など、大事な点が要所要所で繰り返されていてすごくわかりやすい。
ただ、この類の内容は、自分の血肉として語るのが難しい。うまく浸透してこない。
やはり原典を当たらねば。。。
投稿元:
レビューを見る
面白い。ロビンソン・クルーソーの話とか、大学でそのままやった授業なので懐かしくて泣きそう…。
「そもそも社会科学って何なの?人間は自分の意志をもってるのに、どうして科学の対象にできるの?」ということからスタート。岩波版プロ倫の訳者の講義録ということで、読み進められるか不安だったが、語り口が上手く、引き込まれる文章。イメージの湧きやすい比喩もすてき。じっくり読みたい。
投稿元:
レビューを見る
ヴェーバーとマルクスに関しての紹介。
大塚久雄的ヴェーバー社会学に関する基礎となる理論を易しめに提示。歴史過程のダイナミクスは理念と利害状況の緊張関係、もっと詳しく言えば、理念と内的‐心理的利害状況と外的‐社会的利害状況の利害状況とのこと。むむむー。
いつか読むかもしれないヴェーバー作品への予習です。
投稿元:
レビューを見る
本書は四部構成になっており、それぞれが筆者の大塚久雄氏の講義を文字おこししたものになっている。第一部はマルクスとウェーバーを対比させた上で社会科学における考え方を述べたもの、第二部はロビンソン・クルーソウとイギリスの産業革命によるエンクロージャーの関連性、第三部はウェーバーの述べるピューリタリズムからみる宗教社会学、第四部は第三部の内容を更に掘り下げマクロの視点で解釈する内容となっている。
マルクスとウェーバーを取り上げ、社会科学における視点とその解釈について述べる。
マルクスが社会全体を俯瞰し個ではなく全体で社会を考えようとするのに対し、ウェーバーは個に注目し、そこから全体へと拡げて解釈している。
投稿元:
レビューを見る
学生時代に先生に勧められて読みました。先生は大塚久雄をよく研究されており、かなり影響を受けたものです。歴史学はもちろん経済学等の社会科学を学ぶ学生には、必読書だと思います。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
自然現象とちがい、生きた人間の日々の営みを対象とする社会科学において、科学的認識は果して成り立つものだろうか。
もし成り立つとすれば、どのような意味においてか。
この問題に正面から取り組んだ典型的な事例としてマルクスとヴェーバーを取りあげ、両者の方法の比較検討の上に立って社会科学の今後の方向を問う。
[ 目次 ]
1 社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス
2 経済人ロビンソン・クルーソウ
3 ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって―アジアの文化とキリスト教
4 ヴェーバー社会学における思想と経済
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
ウェーバの「儒教とピュウリタニズム」の解説が一番分かりやすい。
東洋の文化と西洋の文化を対比することにより、それぞれの文化の補完可能性を模索しているようにも読める。
投稿元:
レビューを見る
目次:
Ⅰ 社会科学の方法 ―ヴェーバーとマルクス―
Ⅱ 経済人ロビンソン・クルーソウ
Ⅲ ヴェーバーの「儒教とピュウリタニズム」をめぐって
―アジアの文化とキリスト教―
Ⅳ ヴェーバー社会学における思想と経済
あとがき
投稿元:
レビューを見る
「大塚史学」、当方が学生時代のときでさえ既に死語的扱いがなされていたように記憶するが、その後も同様では?
科学の特性の一つとして進歩が挙げられるとすれば、何も「大塚久雄の見方は古い」イコール価値無き考えではないはず。
どんな学問も先人の研鑽の上に成り立つものなのに、どうも社会科学(ことに経済学)は学問としての基本的振る舞いがもしかするとできていないのかもしれないな。
それはともかく改めて同著を読んで思ったのだが、ヴェーバーの方に軍配を挙げたくなるものの、(ヴェーバー自身も認識しているが)ヴェーバーの成果はマルクスの成果(というかその他多くの賢人の遺産)の上に成立している観点である。
つまり同著含めてここには連綿と続く科学の豊饒な果実が成っていると見て差し支えないかと思う。
投稿元:
レビューを見る
社会学古典文献購読の授業で読んだ。
次に『プロ倫』を読むための”導入”らしいけど少し文体がややこしかった。先生曰く、当時(1966年)学生運動などでマルクスがいように取り上げられていて、その崇拝者たちにも誤解無いように注意書きみたいなものが書かれたりしていることが多いらしい。
内容としては
ヴェーバーとマルクスを対立として見るのではなく重なるところ、二人の見方の違いが書かれている。
Ⅲ章の輪読レジュメを担当したが、ヴェーバーの論考「儒教とピュウリタリズム」の解釈にとどまらず、マルクスと比べるなどの解説の仕方が面白かった。
投稿元:
レビューを見る
――――――――――――――――――――――――――――――
フランスの文化が占めている地位を、アジアで占めているのは中国文化、それから古代ギリシャやイスラエルの文化が占めている地位をアジアで占めているのは古代インドの文化だというのです。
ところがアジアでは、結局はっきりとイスラエルにあたる役割をはたすものは出てこなかった。
仏教の一つの宗派――たぶん浄土真宗でないかと思う――がそういう方向を指し示していたといっています。145
――――――――――――――――――――――――――――――
自分はプロテスタンティズムの倫理だけで資本主義の発生を、いや資本主義の精神の発生をさえも説明できたとは思っていない。
それには、政治的な、あるいは経済的な、その他さまざまの利害状況もまたあずかって力があったのであって、その双方から接近することこそが不可欠なのだ、と。193
――――――――――――――――――――――――――――――