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投稿者:本好き - この投稿者のレビュー一覧を見る
比較的さくっと読破できるので、定期的に繰り返し読むと良いかな、と思いました。
これでタルムードのすべてが分かる、という本ではありませんが、ユダヤ人が何を大切にしてきて、どういった志向を持つようになったか、その表面的な部分は知ることができるので、タルムードに興味のある方は入門書として手に取ってみても良いのではないかな、と思います。
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新約聖書の元の元はここかも?です。
日常生活で必要な語録が詰まっています。
本の初心者や低学年におすすめです。
速いうちに本に触れる事はとても大切です。
高校生に初めてこの本に出会い衝撃を覚えました。
ベスト書物の一つです。
新約聖書と組み合わせると効果倍増です。
サンプル語録
「カリフラワーに棲む虫は、カリフラワーが全世界だと思っている。」
「毎日、今日があなたの最後の日だと思え。
毎日、今日があなたの最初の日だと思え。」
こんなのが一杯載ってます。
是非、若者全員に読んで欲しいです。
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whyを問う
物事の本質を学ぶ
それに対する好奇心
そして、相対的な物事の見方、考え方
どんな逆境でも、宗教では無い救い
それは、自分自身のマインドと思う
どんな時代でも
どんな環境でも
どんな社会でも
生き抜く事ができる信仰心でない
自分の中にある哲学
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ユダヤ教が素晴らしいというのはあちこちから点で聞いていて興味を持っていた。
なにかまとまったものがないかと探していて、この本か、石角さんの「タルムード金言集」かどっちにしようか迷い、こっちを買ったが正解。
石角さんのものは日本人を卑下するような内容が多いとあったので、あんまりそんなのは読みたくないなと思っていて、アマゾンレビューで、それと双璧をなす高評価がこの本。
なんといっても集約性の高さが素晴らしい。ユダヤ教の僧(ラビ)である筆者が、タルムードだけでなく、ラビッシュ、聖書など、ユダヤ教が正本とするものあちこちから金言をピックアップして、項目ごとに解説している。
若干の訳の怪しさ、タイトルと本文のズレなどはあったが全く気にならないくらい、珠玉の言葉の数々。
深く理解するというよりも、どんなことが言われているかを網羅的に知りたい人にとっては、これ。
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5000年続いている民族。長きに渡り辛い出来事を経験しながら残り続け活躍者を送り出す民族。その基本的な行動指針が分かりやすく知れた。
まとめていくと中庸という言葉が思い浮かぶ。全てにおいてバランスが取れている状態を理想としているように捉えた。そのバランスというのは多面的に捉えなくてはいけない。それを一人で完結するのは難しく、だから何千年もの積み重ねが本質に届けてくれるのだと思う。
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いくつものタルムード、ユダヤの金言が書かれており、納得感も多く、実生活に生かせる内容がたくさん。中には一見すると理解するのに難しい表現もあり、ユダヤ教について更に知りたいという欲求が掻き立てられた。
個人的に注目した言葉:「文章を書くことは、小切手を書くのに似ている。思想がないのに文章を書こうとするのは、銀行に残高がないのに小切手を書こうとするようなものだ。」
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・ユダヤ人は旧約聖書の教えをずっと守ってきた
・5,000年の真理を学んできている
・幸運は蝶のようなもの。勝手に手中には入らない。通り過ぎたら捕まえなくてはならない。
・善を一つ行ってしまえば簡単なもの。2回目はもっと容易にできる。
・人間の最も貴重なものは時間と健康
・ユダヤの金言
┗成功の半分は忍耐
┗賢人とは あらゆる人から学べる人
┗強い人とは 感情を抑えられる人
┗豊かな人とは 自分の持っているもので満ち足りている人
┗人に愛される人とは あらゆる人をほめる人。
・神が絶対に許さない罪=同じことについて何回も悔やむこと。
・よいこと →はじめはイバラの山道、やがて平坦な道に入る
・悪いこと →はじめは平坦な道、やがてイバラの道に出る
・死んで唯一持っていけるのは良い行い
・どのような上り坂にも下り坂がある
・健康ほど大きな宝はない
・睡眠ほど良い医者はない
・胃の1/3は食べ物、1/3は飲み物、1/3は空にしておく。
・人生とは賢人にとってはゲームではなく、夢。
・自分が持っているものを必要としている人に売るのがビジネスではない。
自分が持っていないものをそれを必要としない人に売るのがビジネスである。
・人生はバランスが大切
・健康は普段は感じない。病気になると痛みや苦しみを感じる。幸福も普段は感じない。失ってから感じる。
・失敗は経験になる、しなかったことは後悔。
・最高の知恵とは親切さと謙虚
・謙虚とは自分を主張しないで、相手の求めている事をできるだけ認める
・人は生まれると喜び、死ぬと悲しむ。本来は逆がよい。生まれたらこの先どうなるか分からないが、死ぬ時はなにを成し得たかが分かる
・急いで答えるものは、急いで間違えを犯す
・和解とはお互いが非を認める
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ユダヤの教えこそが、現代人の叡智の結晶であると考えさせられます。
今日から意識していきたい教えばかりです。40年以上前に書かれた本の再編とは思え無いほど、今大切にすべき事が山ほど書いてあります。
賢人とはあらゆる人から学べる人
強い人とは感情を抑えられる人
豊かな人とは自分のもっているもので満ち足りてる人
人に愛される人とは人を誉める人
私もそうでありたいです。
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タルムードを箴言集風に上手く落とし込めている。
所々筆者の解説に首を傾げる部分はあるが概ねよかった。ユダヤ人の価値観は日本人と大きく異なる。刷り込むというのは難しいかもしれないが、オーディオブックなどを介して自分の心に刻みたいところだ。
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本書を読んだユダヤ初心者の私の解釈では、
学問と中庸を是とする文化が宗教という入れ物により保存されており、歴史的な選択圧を受けて中身も洗練されてきた。
ユダヤ人の遺伝子が優れているのではなく、学問や論理を重要視する文化が今日に適合している。
その文化は中庸を重んじ、また人間の性(さが)を受け入れているため無理がない(戒律はあるが、根本的に無理がない感じ?)。
知恵を重んじる文化、歴史的な迫害、仲間意識から商業で成功を収めている。
なお、この感想は読者の解釈であるので正しくは本書を参照されたい。
星3.5点を四捨五入して星4点
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初めてユダヤ系の本を読みましたが、キリスト教との違いや大事にしているものに、とても親近感がわきました。日本人にも似ている部分が多いからかな?
歴史の中で積み重ねた叡智はやはり偉大
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記録:
歴史から金言(ためになることわざ的なもの)まで知れて、また、キリスト教とユダヤ教の違いもわかりやすい。良い本でした。
個人的にユダヤ教に興味がありユダヤに関する本を読み漁っているけど、著者がユダヤ人であると文章のリアリティがあってとても良い。狂信や崇拝はせず、客観的すぎず。
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サクッと読めた。知識は進むが、知恵は変わらない過去から学ぶ
学び
酒は危ない
口は災い
家庭教育の大事さ
Todo
ときたま読みたいな
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ラビ・マービン・トケイヤー (著)
1936年9月4日、ニューヨーク生まれ。1958年、同市イェシバ大学卒。1962年、ラビ(ユダヤ教の牧師)の資格を取得。1967年、東京広尾に日本ユダヤ教団設立。初代ラビに就任し、1976年まで活躍
,加瀬英明 (翻訳)
1936年、東京生まれ。慶應義塾大学、エール大学、コロンビア大学に学ぶ。「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長。外交評論家として内外に豊富な人脈を築き、77年より福田・中曽根内閣で首相特別顧問として対米交渉に貢献。日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役などを歴任
ユダヤ系の本凄い好きで過去に積読しまくって読まずに忘れてたんだけど、やっぱりユダヤ系の本面白いしこれも面白かった。極端な話、仮に日本が崩壊してユダヤ人みたいに世界中へ散らばる事態になっても、皇室さえ存続していれば、いつかどこかで天皇家を中心に国家を取り戻すこともありえる所がユダヤ教にシンパシー感じるのかな。
今日、世界にユダヤ人は二〇〇〇万人もいない。たった一四〇〇万人ちょっとである。このうちおよそ八〇〇万人が、ユダヤ人の古くて新しい祖国であるイスラエルに住み、残りが世界中に散らばっている。
一四〇〇万人といえば、世界の大都市の人口とあまり変わらないし、もし一つの国をつくっていたとしても、世界の国を人口順に並べてみれば、中ほどの目立たない場所に入るだろう。それなのに、ユダヤ人は世界の自然科学、社会科学、政治、芸術、音楽、文学、ビジネス、ジャーナリズムといったあらゆる分野に、きら、星のように成功者がひしめいている。どういうわけか、ユダヤ人はスポーツだけは苦手であるが、他の分野なら、第一位から第三位ぐらいの間には入っているだろう。
キリスト、マルクス、アインシュタイン、フロイト、ベルクソン、ロバート・オッペンハイマー、ハイフェッツ、トロツキー、ディズレーリ、キッシンジャー、ドラッカー……。 著名なユダヤ系ビジネスマンでは、ロスチャイルド、ピューリッツアー、ロイター、アーネスト・オッペンハイマー(デ・ビアス社)、マーカス・サミュエル(シェル石油)、アンドレ・シトロエン、カミッロ・オリベッティ……。 アメリカで活躍中のユダヤ人としては、マイケル・デル、ジョージ・ソロス、スティーブン・スピルバーグ、マーク・ザッカーバーグ、ラリー・ペイジ……。
ユダヤ人がいなかったとしたら、おそらく今日の世界の社会科学や科学技術は、これほど進歩していなかったはずである。ナチス・ドイツの科学技術水準だって、きわめて低いものになっていただろう。そして、成功したユダヤ人は、しばしばドイツ人とか、フランス人とか、アメリカ人として知られている場合が多い。
というのは、ユダヤ人は成功者を生む確率がもっとも高い民族なのである。私はユダヤ系アメリカ人なので、すぐに野球を例にひくが、世界の諸民族を野球チームにたとえれば、ユダヤ人はもっとも打率の高い民族なのである。人類の最優秀チームだといっても良いだろう。イスラエルは建国以来七〇年にもならない移民の国なのに、石と砂の砂漠の土地に緑の農業を興し、工業化を進めて、大きく発展した。
このように人間は環境によってつくられる。ユダヤ人はユダヤの環境の作品である。しかし、文化とか、伝統、環境といったものは、ソフトウェアであって、何千年もかかって開発されるものである。そこでユダヤ人の文化や伝統は、仕事の面でも、私生活の面でも、もっとも成功率が高い人間を生むソフトウェアであるといえよう。
ユダヤ教は、『旧約聖書』に基づいている。そしてユダヤ人にとって『旧約聖書』は、毎朝、インクがまだ乾かないうちに届けられてくる新聞ほどに新鮮なものなのである。
イスラエルには、多くの敬虔なユダヤ教徒がいる。ユダヤ人は宗教によって毎日『聖書』を勉強することを義務づけられているし、アメリカにもこのような敬虔なユダヤ人は多い。もっとも、私自身について言えば、もはや戒律を守ってはいない。しかし、ユダヤ人は戒律を守らないからといって、ユダヤ人の伝統を失ったわけではない。幼いころから学ぶことは、ユダヤ人の民族的な伝統なのである。学ぶこと、教育こそは、ユダヤ人にとって何よりも重要なのである。ユダヤ教がユダヤ人をつくるので、ユダヤ人は学ばないとユダヤ人になれないのだ。
「正しいことを行っている者は、一人で歩むことを怖れない。しかし、悪いことをしている者は、一人で歩むことを怖れるからです」
一生の間、人間が使えるもっとも貴重なものは、金銭ではない。時間である。というのは、『タルムード』は、人間は無限に金銭や富を手に入れることができるが、一生の時間は限られている、と教えているからである。
『タルムード』は、「限られているものは何か?」と尋ねている。それは、人の生命であり、時間である。金銭よりは、時間のほうが大切なのだ。それなのに、人びとは金銭を使うときには慎重であっても、時間を浪費することについては、さして気にとめない。
そして、人間は他人のお金を預って使うことになれば、緊張して、細かい神経を配る。他人に金銭的な負担をかけることには、神経をとがらすものである。そのくせ、約束の時間に遅れたり、また、つまらない用件や長居で他人の時間を潰したり、浪費することには、あまりかまわないものだ。 これは、人びとが時間よりもお金を大切にしていることを示している。 時間も、お金も、両方とも重要なものである。しかし、二つのなかでは、時間のほうが大切であることを忘れてはならない。
悪人は、人の前ではじめは美しい世界を描きだす。それは、見渡すかぎり白銀の雪に覆われた光景に似ている。 しかし、現実という太陽が照ると、雪は溶け、一面、泥沼の醜い世界が広がるようになる。悪人が美しい世界をあなたの前につくりだしても、騙されてはならない。明日、目を覚ますと、泥沼の世界になっているかもしれないから。
これは、一つのことに優れているからといって、ほかのことに優れているとはいえないという意味である。 たとえば『タルムード』を究めた、もっとも賢いといわれるラビでも、鍵をしまい忘れることがある。そして世界中の富をほとんど一人で握っているような大商人でも、学問のことになるとまったく駄目な場合もある。 このように人間にはみな限度がある。一つのこと��究めたからといって、ほかのこともできるとは限らない。一つの専門に優れているからといって、その専門外の意見を聞いた場合には、まったくの 素人 とであることが多い。 そこで、自分が一つのことに 長けているとしても、自信を持ちすぎてはならないという戒めなのである。
そこで、何々〝らしさ〟とか、まともさといったものは徳目として強調されるが、実際には自己保全のための処世術なのである。といっても、個性は、服装や髪型といった 末梢的な、つまらない、表面的なものにあらわして満足するべきものではない。かえって、個性がない人ほど、そのような安易な方法で個性的であるように装いたがるものだ。奇異な服装や、外見のために人びとから警戒されたり、差別されることに対して神経を使うよりも、もっと大切なことに自分の個性を向け、活かすべきである。
民主主義は、世界で最初にユダヤ人がつくったものである。 ユダヤ人は一般にインフォーマルな服装を好む。イスラエルでは、上着にネクタイを締めている者は、政府高官でも少ない。
カリフラワーは、いろいろなところにある。そして、人は自らを閉じこめてしまうことによって、自由を失ってしまうのだ。 ユダヤ人は世界に散り、全世界を放浪したために、一つの世界のとりこになることが少ない。とはいっても、この格言があるのだから、やはりユダヤの世界にも、カリフラワーがたくさん存在してきたのだ。
若者のなかに理想主義者が多く、老人の間に保守主義者が多いのは、経験の量に比例しているのだ。 ユダヤ人が『タルムード』やユダヤの古典を、かびが生えた古書のようには扱わずに、まるで昨日書かれた書物のような新鮮さをもって読むのは、長い歴史の経験から生みだされた教訓を大切にするからである。
ユダヤ人は知的には素直ではない。ユダヤ人はつねに好奇心に燃えているので、物事をあらゆる角度から見ようとする。〝ヘブライ〟の意味は、〝もう一方に立つ〟ということで ある。 ユダヤ人は、よく質問する。 そこで、こういうジョークがあるほどだ。 「ユダヤ人は、どうしてそんなによく質問するのだ?」 「どうして、よく質問してはいけないのだ?」 事実、ユダヤ人に質問すると、質問で返ってくる場合が多い。 忍耐強く、たくさん質問しなければ、成功しないのだ。
それに、もともとユダヤ人はキリスト教徒のように、金銭を蔑視したり、罪深いものであるとは、考えなかった。金銭は、使いかたによって、良くも、悪くもなる。お金自体には、責任はない。むしろ、〈金銭は、機会を提供する〉ものだと考えているのである。
ユダヤ人は、金銭を良いものだとは言わないし、悪いものだとも言わない。お金があったほうが、人生でいろいろなことができる機会が増えるというのである。
人間が権力を持っている者、また、高い地位についている者を敬うときには、その人間をほめているのではなく、その者が持っている権力や、ついている地位に対して敬意を払っている。
キリスト教が説くお金やセックスヘの蔑視のために、十分な資産をつくらなかったり、人生における楽しみを逃した者がどれだけいるのだろうか? それも、人間が自分に自信を持たないからである。
物を崇拝してはならない。お金を崇拝する者が 滑稽 に見えるのは、物を崇拝しているからである。人間は自分が崇拝しているものにできるだけ近づきたいと思い、同時に同化してしまう。だから、物を崇拝する者は、自分も物になってしまう。 人間はお金のために存在しているのではない。ちょうど洋服が人間のために存在するようなものである。逆になれば、人間はハンガーになってしまう。
誰でも、その人なりに、どうすればお金を稼げるかは知っている。しかし、お金の使いかたを知っている者は、何人いるだろうか? 人間はお金の主人であるべきだ、といっても、お金には不思議な魔力がある。たとえば、この世の中でほとんどのものは、使うことによって、値打ちがわかる。それなのに、お金だけは自分でつくってみなければ、値打ちがわからない。
ユダヤのことわざにも、似たような発想がある。〈銀貨は丸い。こちらに転がってくるかと思うと、あっちに転がってゆく〉
ユダヤ人は、悲しい目をしている。しかし、底抜けに明るい。悲しさを知っているからこそ、明るさがどれほど貴重なものかがわかり、夜を知っているから、太陽の恵みを楽しむことができるのだ。
ブドウの房は、 〝重ければ重いほど〟、下に下がる。 これは、人間は謙虚であるほど腰が低くなるということを意味している。
『タルムード』は、〈世界でもっとも不幸な人間は、自分を意識することが過剰な人間である〉といっている。 自分の失敗をいつも他人が笑っていると思う者は、自分が世界の中心にあり、他人が一日に二四時間自分を注視していると勘違いしているのである。 そこで、このようなことで自信を失っている者は、鼻もちならないほど自信が過剰であるのと変わりがない。いってみれば、自己中心で、 傲慢 なのである。思いあがりからくるかん違いなのだ。
私は読者のみなさんに、ぜひ『聖書』を読まれることをすすめたい。もし、全部読むことができなければ、初めのほうだけでもよい。数多くの教訓が得られるだろう。
人びとは 石 鹼 で体を洗い、涙で心を洗う。もう一つ、美しいことわざがある。〈天国の一隅には、祈れなかったが、泣けた人のために場所がとってある〉 喜怒哀楽。泣けない人間は、楽しむことができない。夜がなければ、明るい昼はない。 泣くのを恥ずかしがる者は、喜ぶときも、ほんとうに喜んではいない。つくって、装っているのだ。
ユダヤ人は昔から〝本の民族〟とか、〝学問の民族〟と呼ばれてきた。人間にたとえれば、ユダヤ人にとって学問は血のようなものであった。いったい、血液が流れていない人間がいるものだろうか? それと同じように、学問のないユダヤ人などは考えられないのである。
おそらく学ぶことを宗教的な義務にした民族は、世界にほかにはなかっただろう。
ユダヤ人は、教育といえば、学校という公共の教育施設よりも、家庭を思い浮かべる。家庭における教育を重視するのだ。というのは、子どもたちは学校では知識を学ぶが、家庭において知恵を教えられるからである。そして、子どもたちの生活の中心は家庭にある。
愚か者にとって、老年は〝冬��である。 賢者にとって、老年は〝黄金期〟である。
〈ユダヤ人が二人集まると、三人分の意見が出る〉ということわざがある。ユダヤ人に質問をすると質問で返ってくるといわれるほど、ユダヤ人は好奇心が強い。とにかく、ユダヤ人ほどよくしゃべる民族はないだろう。
ユダヤ人は、激しい恋愛をしない。このことはユダヤ人の結婚観に基づいている。 ユダヤ教では、『聖書』の 世記のなかで、神が人間に〝生めよ、ふえよ、地に満ちよ〟と命じてから、結婚はすべてのユダヤ人にとって聖なる義務となっている。ヘブライ語で結婚は〝ギドゥシン〟というが、〝聖なるもの〟という言葉と同じである。
ユダヤ人は功利的な民族だといわれる。ユダヤの知恵は、長い経験に基づいている。 ユダヤ人は、子どもが成長して結婚すると、親は同じ家には住まないことがルールになっている。親は新婚夫婦が新居を構えられるように、援助する。同じ屋根はいただかないのだ。
これは、人間は、いっしょにいる者に影響されるということだ。 もっとも、年老いた夫が若返らず、妻がいつまでも子どものように若々しかったら、この結婚はうまくいくまい。
知識を豊富に持っている者は、人びとに大切にされる。というのは、便利だからである。しかし、彼は知識のために大切にされているのであり、人間として愛されているのではない。 これに対し、美しい心を持った者は、人間として愛される。はじめは知性のある者が、心のある者より大切にされているようでも、結局は美しい心の持ち主のほうが勝つことになる。
★ 一人の古い友だちのほうが、一〇人の新しい友だちよりも良い。
ある意味では、長い歴史を眺めれば、ユダヤ人は優れた者が生き残るという法則にしたがって 淘汰 され、ユダヤ人のなかでも知的に優れた者だけが生き残ったといえる。 そしてユダヤ人は苦難に耐え抜くだけの自信(ユダヤ教が絶対に正しいという) と、力を持ってきた。ユダヤ人が自分たちの文化に揺るぎない自信を持つところに、底力がある。
ユダヤ人は、他の諸民族から〝本の民族〟という別名をつけられている。そして間違い なく歴史を通して、世界でもっとも教育が高い民族である。アメリカの統計を使えば、今日、ユダヤ人はアメリカの人口の二パーセント程度にしかあたらないのに、精神分析医、弁護士、数学者のそれぞれ一〇パーセント前後が、ユダヤ人である。アメリカの大学では、最上位成績の者がファイ・ベータ・カッパ(ジョン・F・ケネディがこの会員だった) の会員となるが、この三分の一以上がユダヤ人なのだ。
ユダヤ教のラビは、学者、地域社会の指導者、相談相手を兼ねているが、妻帯しており、ふつうの人間生活を送っている。カトリックの僧侶や尼僧のように、生涯、異性を知ってはならないといった行者は、ユダヤ人から見れば非人間的なことである。人間をつくって性を与えた神に背くことになるのだ。ユダヤ人は誰であれ、独身でいることを神に背くと考えてきた。
ユダヤ人はキリスト教徒のように、性を不潔なものとして蔑視しない。神が人間に性の快楽を与えた以上、悪いものであるはずがないのだ。異性を見て、心のなかで色情を催したら���体が 姦淫 したのと同じである、というのはユダヤ人にはまったく縁のないことである。反対に、ユダヤ教は夫婦であっても、快楽をともなわない性交渉を持つことを禁じている。
ユダヤ人の金銭に対する態度も、まったく同じである。キリスト教徒は金銭を性と同じように罪深く、不潔であり、千歩譲っても必要悪であるとしか考えてこなかった。しかしユダヤ人は、このようなタブーに縛られてはいない。ここでもお金は性と同じように使いかたによって、良くも悪くもなるものだとみなした。ユダヤ人は、「金銭は機会を提供する」ものだと、古代から言ってきたのである。ユダヤ人の世界では貧乏は不名誉ではないが、キリスト教徒のように清いとかいって鼻にかけて自慢できることではない。
それに、ユダヤ人が笑いが好きだということは、ユダヤ人が楽観主義者であることを示している。マーク・シャガールの絵は、ユダヤ人街に住むユダヤ人の人生観を典型的に表現している。空を漂う恋人たちや、家畜、甘い夢、花束といったものは、ユダヤ人街の世界だ。もっとも、ユダヤ人は住んでいる土地の影響を受けたから、シャガールの絵の世界は、同時にスラブ人の農民のロマンチシズムを多分にあらわしている。ユダヤ人は夢多く、楽観的なのだ。
ヨーロッパで、キリスト教徒が金銭を蔑視していたときに、為替や、銀行制度をつくったのはユダヤ人であったことを思い起こしてほしい。ユダヤ人はキリスト教会が金利を罪悪だとみなしていたときに、金利は当然のことだと思っていた。もっとも、今日、あらゆる銀行が、金銭に汚い人びとによって経営されているというのなら、これも一つの識見である。