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フランスの映画監督ジャン=ピエール・メルヴィルの「メルヴィル」が本名ではなく、このアメリカの大作家への敬意からつけられていることを近年まで不覚にも知らなかった
2011/09/03 09:22
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投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
平石貴樹『アメリカ文学史』のなかに、ハーマン・メルヴィルは《アメリカ文学最大の作家であるとしばしば言われる》という言葉がある。最大の作家のひとりではなく、最大の作家、なのだ。著者は続けて《本書もそうした評価にくみする》と記す。この文学史のなかで、それに匹敵する言葉で形容された小説家は他にはいない。
そのメルヴィルの十作近い長編小説群の、圧倒的な頂点に位置するのが『白鯨』である。もしこの小説がなければ、メルヴィルが《アメリカ文学最大の作家であるとしばしば言われる》ということは確実にない。
一番新しい『白鯨』邦訳である八木敏雄訳・岩波文庫版の訳者による「解説」には次のような箇所がある。《わたしは、阿部知二、田中西二郎、富田彬、宮西豊逸、野崎孝、高村勝治、坂下昇、幾野宏、原光、千石英世の諸氏につづく第一一番目の『白鯨』の翻訳者である。》
しかも最初の全訳刊行が戦後であり、これらすべての訳書は半世紀のあいだに訳されている。調べたわけではないが、同じ小説にこれほどの異なる訳があるものは他にないのではないか。
今回私は最も新しい訳本を購入し、これを読みつつ、この際という感じもあって、他の訳書をできるだけ図書館から借りて参考にすることした。手元に並べたのは、阿部知二訳(旧岩波文庫版)、田中西二郎訳(新潮文庫版)、野崎孝訳(中央公論社版)、千石英世訳(講談社文芸文庫版)の4つである(40年以上前に私が読んだのは、たぶん筑摩世界文学大系本の阿部知二訳)。
ただすべての訳をくらべる余裕はないし、他の訳に気をとられて肝心の八木訳を読むのをおろそかにしたくない。他の本は適宜参考にとどめることにした。
各訳書の、おおまかな分かりやすい差を指摘するとすれば、まず訳注が挙げられよう。量的には、やはり新しい八木訳が多い。400字詰め原稿用紙換算で150枚はあるだろうか。次いで多いのは田中訳であり、阿部訳、野崎訳はそれより下回る。たとえば八木訳に対し、同じ岩波の旧版にあたる阿部訳における訳注は半分足らずといったところである。2000年に刊行された千石訳は他の訳書と違って巻末の注はなく、すべて文中の割注であり読みやすい。だが長い注は入れられないという欠点もある。
『白鯨』の各訳書には同じロックウェル・ケントの挿絵があるが、岩波新版では目次の前にクレジットがあり、正規の手続きを踏んでいるらしい。そのためもあり、八木訳版におけるケントの挿絵数は他にくらべてずっと多く、全部で90枚ほどある。次いで多いのは阿部訳版の60枚以上で、千石訳版は20枚ほど、野崎訳版は10枚少し。田中訳版にはない。ただしこの挿絵の図柄を調べてみると、八木訳版にないものが、挿絵数の少ない他の訳書にいくつもあるのに気づいた。最新の岩波文庫版がケントの挿絵すべてを収録しているわけではないのである。
訳注のなかに、『白鯨』の物語の重大な背景のひとつとなった、マッコウ鯨の攻撃にあって沈没した「エセックス号」のものがあった。もともとメルヴィル自身、エセックス号に乗っていた航海士チェースの本を読んでおり、原注で引用している。田中訳、千石訳では、メルヴィルが引用した本の題名を記しており、さら田中西二郎はチャールズ・オルスン『わが名はイシュメール』を通してメルヴィルとエセックス号の関係を記している。
だが新しい八木敏雄の注は細かい文字で1ページも費やした情報量が多いもので、近年刊行されたエセックス号関連の書籍に言及している。ただし2000年にアメリカで刊行され全米図書賞を得た本にはふれているものの、それがすでに2003年にナサニエル・フィルブリック『復讐する海/捕鯨船エセックス号の悲劇』として邦訳刊行されたことは見逃している(その訳注が入っている文庫中巻刊行は2004年10月)。
フィルブリックによれば、エセックス号は《全長二十六・五メートル、排水量二百三十八トンと捕鯨船としては小型だった》ということだが、そんな記述を通して、『白鯨』の船、ピークオッド号の大きさが推測される。
読むものの想像力を刺激したいためか、この小説には白鯨(モービィ・ディック)もそれを追うピークオッド号も正確な大きさの記述がない。第77章にはマッコウ鯨について《体長八〇フィートになんなんとする》という言い方をしているが、約24メートルというのは現在の一般的なマッコウ鯨より大きいはずだ。だがメルヴィルはモービィ・ディックについて、八〇フィート以上の大きさを想定しているのだろう。仮にピークオッド号がエセックス号より一回り大きい捕鯨船だったとしても、船と比較しての獲物の相対的な大きさが推測される。これはスピルバーグの傑作『ジョーズ』における、サメが全貌をあらわしたときの、「船が小さすぎる」という見事なセリフに繋がるもので、あの映画では船に比較してのサメの大きさをなかなか見事に描いていた。残念なことにヒューストンの『白鯨』には、そうした見事な演出はない。
『白鯨』第78章に、かつての私にとって最も強い記憶がきざまれた、鯨の頭の巨大な脳油袋に乗組員のひとりが落ちてしまう場面がある。ピークオッド号の人々は舷側につるされた巨大な鯨の頭から貴重な油を汲むのだが、それにしても単なる面白さをはるかに越えるものとして、汲めども尽きぬ、という形容をこの偉大な小説に冠することに私は何のためらいもない。
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マッコウクジラの蘊蓄
2024/01/11 08:14
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投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
物語は中盤でようやく航海も落ち着いて、マッコウクジラの生態的な蘊蓄が語られ、当時の捕鯨の模様が読者の前で描かれる。ここまで来ればもはや退屈と感じないのが不思議。スターバスタッブスタッブは航海士、狩人として描かれ、フェダラーという謎めいた存在も現われてかなり不気味。他の捕鯨船とも何度か遭遇し、モビー・ディックという伝説の白い鯨の存在がしだいに明らかになり、エイハブ船長の狂気は冷たく燃えさかる。
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鯨を仕留め、解体しながら鯨の体の解剖学的知識や鯨の生態まで鯨学が述べられる。
鯨には顔がないためまるで無貌の神のようだ。西洋人は鯨油と鯨骨だけ取り肉は鮫にくれてやっていたらしい。もったいない話だ。
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衒学というか、まさに鯨学。ストーリーだけ抜き出したら200ページくらいの1巻もので収まるんじゃねえかな、とか思いながら粛々と鯨学を読む。
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これはやはり現代人が思い浮かべる「小説」ではないな。
小説でもあり、詩でもあり、ルポタージュでもあり、哲学書でもあり、、、
様々な知識・教養を背景に圧倒してくる、こちらのあまりの教養の無さに怯えてる始末というのが本当のところ。
なお上巻でもそうだったが、挿絵もなかなかgood。
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『白鯨』新訳版、その中巻です。
上巻はイシュメールが船出するまでを描いて「物語」然としたところがありましたが、中巻はだいぶ趣が異なります。捕鯨船での日々、マッコウクジラとの死闘、そして鯨にまつわる衒学的・百科全書的な語りと、まさに鯨尽くし。特に第八十七章「無敵艦隊」は、鯨のユートピアとでも言うべき光景を描いていっそ幻想的ですらあります。
イシュメールの語りが「イシュメール自身」から「全知全能の第三者」まで自在に行き来するのも面白いところ。一人称から三人称への振り幅が大きく視点がころころ変わります。最初は読み辛いと感じるかもしれませんが、慣れてくるとこれがまた楽しい。イシュメールの視点と神の視点へ、また神の視点からイシュメールの視点へと行ったり来たりを繰り返すことで、捕鯨船ピークオッドの様相が立体的に浮かび上がってきます。
狂える船長エイハブ、高貴なる野蛮人クィークエグら、登場人物の魅力も相変わらず。特に、楽天家の航海士スタッブは諧謔においても捕鯨においても中巻の主役ともいえる活躍を見せてくれます。軽口を叩きながら離れ業をやってのけるスタッブの姿は必読かと。
上巻に引き続き、お勧めします。
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[配架場所]2F展示 [請求記号]B-933/Me37/2 [資料番号]2004108853、2004108854
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メルヴィル氏は、まことに博覧強記にして饒舌であります。鯨と捕鯨に関する多くの知識を読者に伝えてくれます。ですから、モービィ・ディックの姿はまだ見えないのであります。
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途中面白い出来事があったと思うと、しばらく退屈な細かな説明・解説が続くという繰り返し。
なかなか読み進めてゆくのが難しい。文学史に出てくる作品として、意地でパラパラ読んでは中断、読んでは中断を繰り返している。一応、中まで読み終わり、残すは下巻。多分今年中には完読できるかと…
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情報的で読むのに少し疲れました。あとは今となれば間違ってる情報じゃないかと思うことも多々あったけど、メルヴィルは過去の情報からこれは間違っていると白鯨を読んでいる今の自分と同じことも言っているので、将来自分も間違ってるなと思われるだろうなと思った。その時は素直に認めることにしよう。
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「わたし」という一人称となんかこの冷静なかんじに対する違和感は継続中。ただ、このあいだ千石訳を見かけて立ち読みしてみたらそれはそれで微妙な感じがあったので、八木訳に慣れてきてしまっているのかも。
中巻はある意味脱線の最高潮で、モービィ・ディックとはほぼ関係のない、脈絡のない(ように見える)クジラの薀蓄やさまざまなエピソードの羅列なので、すーっと読み続ける、というわけにはいかなかった… 若干時間がかかって読了。注釈は充実していいかんじ。
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捕鯨の仕方、鯨の頭の中の構造と油、他の捕鯨船とのやりとりなど、捕鯨と鯨に関する情報。
全然知らなかったけど、油そんなにあるの。
あと、目と耳が隣なの。
ハーレムみたいに移動してるオスもいるとか。
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中巻ではますます百科全書的な様相を呈している。鯨の絵について、油について、頭について、などなど解説が詳しく書かれている。鯨を世界と見立てているのかと考えた。
捕鯨シーンがいくつかあったが、これが手に汗握る、ワクワクするシーンだった。ボートに乗り込み、銛を打ち込み殺す。鯨に引っ張られて加速するボートが見えるようだった。
キャラではフェデラーというエイハブが隠していた拝火教徒が出てくるが、不気味なだけでまだよくは分からない。今回、よく活躍したのはスタッブだろう。よく喋るし嫌なやつに思えるけど、鯨をとるのは上手いようだ。
またMGSについての考察をしたい。
その夜エイハブの顔を観察していた者がいたとするなら、エイハブのなか
にもふたつの相反するものがあって拮抗していることに気づいたことだろ
う。その片方の生きた足はいきいきとした響きをとどろかせていたのに、
もう一方の死んだほうの足が立てるのはまるで棺桶を打つ音。この老人は
生と死をまたにかけて歩いていたのだ。(p.115)
この記述はカズの様子に似ている。生と死が共存している。
肉体は冒涜されても、復讐心にもえる霊魂は生き延び、そのむくろのうえ
をさまよい、人をおびやかすのだ。 / (中略) かくして、生前、大いな
る鯨の肉体は敵にとって真の脅威であったろうが、死後、その亡霊はこの
世にとってのいわれない脅威と化すのである。
中巻を読んで、新しい考えが出来た。それがスカルフェイスが白鯨なのではないかということだ。白鯨とは復讐の対象であり、その復讐は消えることはなく世界に蔓延して行く。スカルフェイスは世界は復讐で一つになると、人を信じていた。その点がゼロとは違うところだ。
だがスカルフェイスはあっさり死ぬ。それはエイハブの最後にも似た感じだ。だとするとスカルフェイス白鯨ではなくて、復讐を求めていて、復讐と白鯨がイコールになっているのかもしれない。
スカルフェイスは最後はヒューイによって殺される。あれも復讐の連鎖ではあるのだろう。
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上巻
https://booklog.jp/item/1/4003230817
上巻の感想で「中巻では本格的に捕鯨がはじまるかな」とか書きましたが、
本格的に始まったのは作者メルヴィルによる鯨レポートだった(笑)
メルヴィル自身が捕鯨船に乗っていたこともあり、物語としても経験が元になっているのですが、それにしても鯨についての語りがこの中巻の半分を占めています。
そのため”私”という一人称は、ピークオッド号の唯一の生き残りイシュメールでもありしかし作者でもあり、二人が綯い交ぜになっているような感じになっています。
この鯨語りの目線が多岐に及んでいます。
鯨の種類、習性といった化学的(当時の)根拠を述べるもの。
そもそも旧約聖書の時代から現代の捕鯨に至るまで、人間は鯨とどのようにかかわってきてどのように捉えてきたのかを鯨の絵や鯨を使った生活用品や工芸品など、美術や伝承としての論点から語ったもの。
鯨の体の作りはどうなっているか、どうやって解体するか、鯨の食べ方(スタッブの焼き方拘りとうんざりするコックさんのエピソードがなかなか楽しい)、捕鯨で命を落とすのはどんな場合かなどというような作者メルヴィルの捕鯨船員としての体験からくるもの。
他の捕鯨船の話として、狂信者に精神的に乗っ取られた船、鯨に沈められた船のエピソードも語られます。
さて、私はあくまでも読書を”物語”として楽しむ…というか論文としては理解できない…のですが、
その私がこの鯨レポートを非常に楽しく読めました。
なにしろ鯨の体のつくりについては「鯨の口の中に入ってみると、右側には○○がありしばらく進むと△△に行きつき…」などと観光ガイドのようで、文学としても非常に楽しい。
最近は、楽しく読める科学生物本が増えているけれど、この「白鯨」も科学的には素人のはずのメルヴィルが作家として述べている事が実に生物本としても興味深いのです。
さらに白い鯨は恐れられているけれどそもそも人は゛白゛を怖れてきた歴史があり…、などと文学的考察を熱く語ったりしていて多角的な目線で語られています。
この小説の原題は「モービィ・ディック」ですが、日本語訳が゛はくげい゛となると語呂も良いし、ただ゛鯨゛というより゛白い鯨゛と言うことで迫力と特殊感が増しますね。
物語の舞台であるピークオッド号の話では、鯨を挙げたり、他の捕鯨船と行き合ったりしながら、エイハブ船長最大の目的である白鯨のモービィ・ディック追跡を続けます。
上巻序盤でイシュメールが「心の友!」となった気高き野蛮人クイークェグとの親しい関係は相変わらず。鯨を仕留めた後には「捕った鯨の上で解体するクイークェグと、私(イシュメール)は一本のベルトで繋がっていて、彼が海に沈んだりしたら私も命を共にする」とかいう作業をしています。。
この後このピークオッド号は沈没の悲劇に向かうはずですが…、いまのところ膨大な鯨薀蓄や鯨考察、多種多様な捕鯨者たちの物語にあまり悲劇性が感じられずただただ思ったより興味深く読みやすい、と感じているところ。(読みやすいからと言って理解しているわけではないかもで���が)