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我が国が誇る哲学者、西田幾多郎の代表作にして、我が国最初の哲学書です!
2020/03/12 16:51
2人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、我が国が誇る哲学者、西田幾多郎によって著された日本で最初とも言える哲学書です。西田幾多郎は、私たち人間がもつ意識というものを深く掘り下げ、心の最深部に存在する「真実の心」とは一体どういうものかを追求し続けた人物で、同書『善の研究』は彼の一番の代表作でもあります。同書は、誰もがこの不朽の名著を読めるように、易しい現代語訳で書き直し、適宜、解説を入れるなど、読者が読み易く、理解し易いように編集された画期的な書です。ぜひ、この機会に同書で西田幾多郎の深い思想に触れてみては如何でしょうか。
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丁寧な解説
2017/01/14 14:15
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:でぃー - この投稿者のレビュー一覧を見る
西田幾多郎の「善の研究」は非常に難解であり、すぐに理解できるものではない。それゆえ、読み切るまでに挫折もしやすい。だが、本著は非常に解説が丁寧である。まず第一に難しい漢字には読みが記されている。そして、本文に登場してくる人物や諸学説、難解語などにしっかりとした解説がある。また、まとまりごとに要点や小坂氏による解説があり、読み進めやすい。だがやはり難解ではある。
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哲学における根本問題を純粋経験によって解決しようという、西洋思想に囚われぬ初にして至高の日本哲学書「善の研究」を、注釈とわかりやすい解説を添えてわかりやすく噛み砕いた一冊。原著を買って、章の一つの節を読むのに数時間唸りながら読んでいた最中に発売されて…もう少し待てばよかった。。。注釈は言わずもがな、見慣れた書体とルビがあるというだけで、かなり読みやすくなるのだから不思議。日本哲学を語る上で、避けては通れない一冊。まずはこの本で予習をして、次こそは原著だけで読み込んでみよう。シーザーを理解するのに、シーザーである必要はないワケで、このような難解な本に対してこそ、理解社会学として意味と説明を構造化し理解する自身の腕が問われる。しかしそれは西田幾多郎の言う純粋経験に基づく実存と対を為すもの…じゃあどうすればいいのか?それを考えるのが哲学の楽しみ。唯物論と唯心論を超越した二元的哲学論。
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烏兎の庭 第三部 書評 11.25.06
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto03/bunsho/zen.html
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日本を代表する思想家西田幾太郎のエッセンスが凝縮された伝説的名著
……と聞いて読み始めたのだよ
しかし、これは難解だ
もちろん哲学書なわけで簡単なはずがないんだけど、頑張って読み切りたい
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"いわゆる心というのは単に内なるものではなく、いわば内の内なるものであり、同様に物というのは単に外なるものではなく、いわば内の外なるものである。すなわち、物は心の外に超越したものではなく、心の内に超越したものである。"
内の内なるもの、内の外なるもの(内に超越したもの)とある。
心で普通に捉えるものは、これまでの経験で蓄えられたものであると思う。経験(無意識的な経験も含め)を超えたものの直覚はないとすると、よくよく考えるということか?
しかし、考えること(反省すること)とは違うと。ものになりきるのだと。決して経験したことのないようにものを直覚するべく、無心で感じるということだろうか。
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わが国最初の独創的な哲学書である西田幾多郎の『善の研究』のテクストに、西田研究者の小坂国継氏による注釈を付したもの。テクストは一段落ずつ切られて注釈が挟まれ、各章の終わりには小坂氏の「解説」が置かれている。
小坂氏はほかにもいくつか西田の論文のコメンタリーの仕事を手がけているが、本書の注釈もそれらに劣らず、手堅くポイントが押さえられている。西田哲学に関する研究書には、解釈者独自の理解が前面に出されたものが少なくない中で、本書の解説は西田自身に語らせるようなものになっている。
また、『善の研究』では、当時流行していた哲学者の思想が参照されて議論が進められることも多く、今日の読者がその内容を理解することを難しくしているが、本書の注釈はそうした書肆的情報についての解説も充実していて、読者の理解を助けてくれる。
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西田幾多郎「善の研究」は岩波文庫で大学生の頃に読んだのが最初でした。
理解してたつもりだったんでしょうね。あれからかなり年月が流れたので、「今読んだらどう思うかな?」という気持ちで、注釈付きの講談社学術文庫版を購入。
これを読み終えた今でも、理解できてるとは思いませんが、それでも以前よりは分かったかな。
ありきたりな言葉ですが、深いですよね(笑。
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真の実在を把握するには疑いうるものを全て疑う必要がある。デカルトの方法的懐疑。
しかし帰結は我思うゆえに我ありでなく
意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは単に意識には必ず統一がなければならぬの意にすぎない。もしこれ以上に所有者がなければならぬとの考えならばそは明らかに独断。
意識に先立って意識の所有者の存在を前提しているのは独断。私さえも不確かであるのでただ直接的な経験の事実。疑う私も疑われる対象も直接的な経験そのもの
主もなく客もない知識とその対象とが全く合一している
西田哲学は西洋哲学と東洋哲学の合流点。
いかに生きるかという実在の問題、
世界はこういうものであるという哲学的世界観および人生観と人生はこうせねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。
宗教と科学の仲裁というれいの命題か。
真の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるところに成立する
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”善とは何か?
→自分をつきつめていくこと。
→小さな自分(偽我)をそぎ落とし、より大きな自己へ。
→★好きなこと、いいと思うことについて、発信すること、広めていくこと!
<キーフレーズ>
<きっかけ>
人間塾 2016年8月の課題図書”
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我々は何を為すべきか、いずこに安心すべきかの問題を論ずる前に、まず天地人生の真相はいかなるものであるか、真の実在とはいかなるものであるかを明らかにせねばならぬ。
今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、全ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識を本として出立せねばならぬ。
科学というものは何か仮定的知識の上に築き上げられたもので、実在の最深なる説明を目的としたものではない。
物の形状、大小、位置、運動という如きことすら、我々が直覚する所のものはすべて物そのものの客観的状態ではない。我らの意識を離れて物そのものを直覚することは到底不可能である。
我々の世界は意識現象の事実より組み立てられている。種々の哲学も科学も皆この事実の説明に過ぎない。
我々の意識現象の外に独立自全の事実はない。我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
上の考えは、我々が深き反省の結果としてどうしてもここに到らねばならぬものであるが、一見我々の常識と非常に相違するばかりでなく、これによりて宇宙の現象を説明しようとすると種々の難問に出会うのである。しかし、これらの難問は、多くは純粋経験の立脚地を厳密に守るより起こったというよりも、むしろ純粋経験の上に加えた独断の結果であると考える。
我々の思想感情の内容はすべて一般的である。幾千年を経過し幾千里を隔てていても思想感情は互いに相通ずることができる。故に、偉大なる人は幾多の人を感化して一団となし、同一の精神をもって支配する。この時これらの人の精神を一と見なすことができる。
個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。
因果律は客観的に存在するものではなく、我々の思考の「習慣」に基づく「信念」に過ぎない。
因果律というのは、我々の意識現象の変化を本として、これより起こった思惟の習慣であることは、この因果律によりて宇宙全体を説明しようとすると、すぐに自家撞着に陥るのをもってみても分かる。因果律は世界に始めがなければならぬと要求する。しかし、もしどこかを始めと定むれば因果律はさらにその原因は如何と尋ねる。すなわち自分で自分の不完全なることを明らかにしているのである。
意識は時、場所、力の数量的限定の下に立つべきものではなく、したがって機械的因果律の支配を受くべきものではない。
同一の景色でも自分の心持ちによって鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして悲しく見ゆることもある。仏教などにて自分の心持ち次第にてこの世界が天堂ともなり地獄ともなるというが如く、つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたものである。いかに純知識の対象なる客観的世界であるといっても、この関係を免れることはできぬ。
明瞭なる目的観念を持っている時は能動であり、持っていない時は受動である。意志や思惟が能動的であると考えられ、反対に衝動や知覚が受動的と考えられるのはこれによる。
意識の外なる物体とか客観的世界とかいうものは存在しない。我々が客観界と呼んでいるのも、やはり一種の統一力によって統一されたものである。ただ、それが個人の外にあるように見えるのは、それらの意識現象が単なる個人の統一力によるものと思われないような、ある普遍的な性質を持っているというだけのことである。いわゆる客観界とは、各人に共通しているような普遍的性質の存在から推理され想定された抽象的世界にほかならないのである。
個人の意識が昨日の意識と今日の意識とただちに統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見なすことができる。この考えを推し進めていく時は、ただに一個人の範囲内ばかりでなく、他人との意識もまた同一の理由によって連結して一と見なすことができる。理は何人が考えても同一であるように、我々の意識の根底には普遍的なるものがある。我々はこれにより相理解し相交通することができる。
普遍的理性が一般人心の根底に相通ずるばかりでなく、ある一社会に生まれたる人はいかに独創に富むにせよ、皆その特殊なる社会精神の支配を受けざるものはない。各個人の精神は皆この社会精神の一細胞に過ぎないのである。
時間というのは我々の経験の内容を統一する形式にすぎない。意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、反対にこの統一作用によって時間が成立するのである。
純粋経験の範囲を昨日の意識と今日の意識に限定する理由はなく、それを個人の生涯にまで拡大して、個人の一生の意識というものも同一の意識の体系的な発展と考えることができる。同様の理由で、我々は自己の意識と他人の意識をも同一の意識体系に属すると考えることができる。
通常、我々は自己と他人は空間的に隔たっているため別個の実在であると考えがちである。しかし、空間というものは客観的な実在ではなく、時間と同様我々の経験の内容を統一する形式にほかならない。
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真の自己を知るのが善。こう言い切っているが、真の自己とはなんだろう。それはマニュアル的に知ることではないのかもしれない。何度も読み返して理解すべき本なのだろう。
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言っていることがとても難しいので、一語一語の意味をじっくりと考えながら、外国語を読むような感覚で読み進んだ。
同著は、岩波文庫からも出版されているけれど、岩波版が原文のみを収録しているのに対して、こちらには注釈がついている。用語の解説については、単にそのまま他の言葉で言い換えているだけのようなことが多くて、あまり参考にならなかったのだけれど、各章の終わりにある、その章のまとめには、要点が簡潔に書き加えられていて、原文だけを読むよりはわかりやすかった。
この本は、「純粋経験」「実在」「善」「宗教」の全四編から成っていて、主題は、第三編の「善」にある。一番読みやすいのも、この第三編であるので、ここだけを読んでも充分に要点は含まれていると思う。
この部分と比べると、第一編、第二編は、扱っている内容が極めて抽象的な概念であることもあって、かなり難しい。書かれた順番として、第一編は、第三編よりも後に書かれたということなので、より、話しの骨格を明確にするために、補助的に追加したものなのだろう。
この本の話しの進め方は、非常に緻密で、一段一段と論理を着実に積み重ねながら、話しを展開している。だから、途中でわからなくなると、自動的に、その後の話しにもついていけなくなるので、特に初めの部分は重要だ。
その、一番最初に出てくるのが「純粋経験」という概念で、その概念を起点として、この著書のすべての話しへとつながっている。しかし、一番難しかったのもこの始め部分だったので、ここがよくわからないために止めてしまうぐらいであれば、最初に、第三編の「善」から読んでしまったほうがいいと思う。
読んでいて思うのは、論理展開の厳密さで、その中に少しの不純物も混じらせまいとする、異様なまでの注意深さだ。
デカルトが「我思うゆえに我あり」というところを出発点として、それ以外の一切を排除したのと同じように、「最初にあるのは純粋経験だけである」ということだけを認めて、そこから、余計な偏見やノイズを丁寧に取り除きながら、思考を前に進めていく。
だから、あきれるほど遠まわしな言い回しが多いし、なんでわざわざ簡単なことをそこまでまわりくどく言うのかと思う部分もあるけれど、この進め方でのみ、誤りの入り込む余地のない、純粋な世界観を組み上げることが出来るのだろうと思う。
第三編の中にある、「意思の自由」というものはあるかどうか、という話しは特に面白かった。「善」というものが成立するかどうかは、意思に自由があるかどうかに大きくかかっているところがあり、この本では、特にその部分について詳しく検証がおこなわれている。
「善とは、宇宙の根源的統一力と合致した、個人性を実現するような行為」という結論については、納得がいく内容ではあったけれども、あまり斬新さや、新しい気づきは得られなかった。この本は、主張している内容そのものよりも、「道徳」や「善」といった抽象的なものを考える時の思考の進め方という点で、学ぶところが多い本だった。
思惟を進行せしむるものは我々の随意作用ではなく、思惟は己自身にて発展するのである。我々が全く自���を棄てて思惟の対象すなわち問題に純一となった時、さらに適当にいえば自己をその中に没した時、はじめて思惟の活動を見るのである。(p.61)
我が欲求を生ずるというよりはむしろ現実の動機がすなわち我である。(p.95)
世界はこのようなもの、人生はこのようなものという哲学的世界観および人生観と、人間はかくせねばならぬ、かかる処に安心せねばならぬという道徳宗教の実践的要求とは密接の関係を持っている。人は相容れない知識的確信と実践的要求とをもって満足することはできない。(p.125)
もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するのをもって一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。(p.146)
意思の発展完成はただちに自己の発展感性となるので、善とは自己の発展感性であるということができる。すなわち、我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発展を遂げるのが最上の善である。竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。(p.328)
西田にとって善とは人格の発現にあるが、その場合人格とは宇宙の根源的統一力と合致するとともに、それが各人において各様の個性をもって現れたものであった。(p.345)
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約2ヶ月掛けて本編を読み終えた。
途中で挫折しかけつつも、読むとハッとしたり力が湧いてきたりと、なんだか旅をしているような読書だなと思いながら来た。体験の連続のようだった。
"純粋経験"の第1編は、難解ではあったけど予習の甲斐もあってスラスラっと。
(講談社現代新書100や100分de名著テキスト等)
第2編の"実在"で大いに躓き、混乱。
第3編の"善"で、ここまでの理解が繋がっていった。
第4編の"宗教"では何度もハッとさせて貰った。
読書に限らず、経験は不可逆的な変化をもたらすと誰かが言っていた気がするけど
この本の通読は、正しく不可逆的な変化をもたらした感じがする。
何かを経験するということについて、主客未分の状態に視点をもってしまった。そしてそれに対する論理的な理解の限界も。
読み切れて良かった。何かが沁み込んだ良い旅路だった。
補論はこれから。
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主観と客観は同じであるという主客合一の考え方、なかなか難解である
ただ、個人性の実現、個と全体がつながる利他や社会性の倫理観や二元論を嫌う考え方は、この対立が増す現代にこそ学ぶべき示唆があるように思えた