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紙の本
人はなぜ廃墟に美を見出し、それを描くのか
2003/04/23 00:16
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投稿者:桃屋五郎左衛門 - この投稿者のレビュー一覧を見る
西欧近代絵画史を繙くと、廃墟を描いた絵画の系譜を辿ることができる。それらは今まさに崩壊していく建造物を描いたものであったり、静謐な風景の中に描かれた古代遺跡であったり、ネクロポリスと呼ぶべき無人の都市景観であったりする。私たちはそうした絵画の存在と魅力をかつてユルスナールや澁澤龍彦の秀逸なエセー、そしてここに取り上げる谷川渥の一連の著作を通じて知ったのだった。そのせいか二年前のヴェネツィア絵画展では、現実の風景の中にそこにあるはずのない古代遺跡を移し変えたカプリッチォ(綺想画)の小品の前でもっとも長い時間足をとめて見入ってしまったものだ。
モンス・デジデリオに代表される動態としての廃墟から、ピクチャレスク美学とも結びついたユベール・ロベールらの静態としての廃墟への変遷、さらに現実の古代をその規模においてはるかに凌駕するようなバロック的廃墟を生み出したピラネージから廃墟の断片の蒐集家ジョン・ソーンへ。本書の内容を一言で言えば、これら四人を中心にコンパクトにまとめられた17世紀から20世紀に至る西欧近代美術史における「廃墟の表象史」、もしくは廃墟画とその背後にある精神史を読み解く「廃墟のイコノロジー」の試みといったところか。
確かに廃墟画というテーマ自体は谷川渥のこれまでの著作に親しんできた読者にとっては既に馴染み深いものだが、「あとがき」によれば、本書は「廃墟論の集大成」として企図されているとのことだ。巻末には廃墟に関するかなり本格的な文献案内も備えており、また過去の文章をベースとした箇所についても加筆・修正が施されている。だから、『廃墟大全』(本書とほぼ時を同じくして復刊した)、『形象と時間』、『表象の迷宮』などが手元にあったとしても、本書を手にとって見る価値は充分にある。
個人的にとくに興味を惹いた箇所は、廃墟という主題が美術史において登場するのがなぜ近代以降なのか、という問いに対する著者の答えだ。
≪廃墟の表象は、…遠い過去の文明の記憶を保持しつつ、その過去と現在とを隔てる時間的距離を意識すると同時に、また現在をひとつの遠い過去とするであろう遠い未来との間に横たわる時間的距離をも意識し、さらに過去と未来とのあわいに存在するこの自己なるものを相対化しうるような時間意識の成熟によってはじめて可能になるのだ。≫
それは、たとえば、クロード・ロランのように過去の黄金時代への憧憬を喚起する装置となる場合もあれば、ユベール・ロベール—ディドロのように「二つの永遠」のあわいに立つ人間のはかなさへの観相に向かう場合もあるだろうし、シュペーア—ヒトラーのように自らの権力意志の未来永劫に続くモニュメントの夢想となる場合があるにしても、廃墟に美を見出すのは、ヘレニズム的な円環的な時間意識やヘブライズム的なさほど遠くないものと感受された起源と終末を結ぶ線分的な時間意識ではなく、過去にも未来にもはるかに延長される直線的なものとして時間を把握する近代的な時間意識であることは共通しており、「あるものとあったもの、あるものとありえたであろうものとの対照」のうちに廃墟は表象されていったのだということになる。なるほど廃墟とはまさに近代的な画題だったのだ。
しかし、私は本書をより上質な紙の、大判のカラー図版入りの書物として読みたかった。新書版という制約によって、せっかくの百枚を超える豊富な図版が、あまりにも小さく、しかもすべてモノクロで、ディテールがつぶれてしまっているものも少なくはなかったからだ。けれども、本書の内容からすれば、これが過分に贅沢な注文とは私には思えない。