「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。
紙の本
ケルトと日本 (角川選書)
ユーラシア大陸の西と東の端、アイルランドと日本。遙か遠くで生まれたふたつの文化には、響きあう何かがある。研究者、画家、詩人、映画監督等が多角的なアプローチで照らし出す、画...
ケルトと日本 (角川選書)
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
商品説明
ユーラシア大陸の西と東の端、アイルランドと日本。遙か遠くで生まれたふたつの文化には、響きあう何かがある。研究者、画家、詩人、映画監督等が多角的なアプローチで照らし出す、画期的ケルト考。【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧
畏怖する精神 | 鎌田東二 著 | 7-27 |
---|---|---|
ケルト神話の宇宙観 | 井村君江 著 | 28-64 |
「ケルト的なもの」はなぜ賛美されたのか | 鶴岡真弓 著 | 65-99 |
著者紹介
鎌田 東二
- 略歴
- 〈鎌田〉1951年生まれ。武蔵丘短期大学助教授。著書に「宗教と霊性」「エッジの思想」など。
〈鶴岡〉1952年生まれ。立命館大学文学部教授。著書に「ケルト/装飾的思考」など。
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
素朴な比較論は、もうやめて
2001/02/16 20:01
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:mau - この投稿者のレビュー一覧を見る
『非ギリシャ・ローマ、非キリスト教的なヨーロッパを代表するように言われるアイルランド的なるもの、ケルト的なるものの「絵」が、どのように近代で作られてきたかのほうがとても重要なのです。』(鶴岡、p271)
なんともムズ痒い一冊。問題点は、実は最後に収められている96年での対談で全て明らかになっているというのに。
上の引用にあるように、「ケルト→周縁→非ギリシャ・ローマ、非キリスト教→西欧文化の源」という発想は、ナショナリズムの昂揚のために19世紀後半に強化されたものに過ぎない。それは「中央」を固定させた一元的なものの見方であり、エキゾティズムの逆説的な顕れでしかない。
鶴岡氏の論文は、その罠を暴くための入念な論証となっている。「ケルトマニア」なる単語で当時の学者の熱狂振りにやんわり釘を指す原氏の文章も、また「ケルト」研究の更なる段階を示唆して興味深い。
それに対して「日本(というか神道)」側は相変わらず「ほらアニミズム、似てる似てる」の素朴な比較論の域を出ていない。論理的な西洋思想に対抗するとは言え、直観だけで人を説得できる自信があるというのか。
神道が仏教と比較した際に「周縁」宗教扱いされるのも、私には納得いかない。天皇制との繋がりをみても神道の重要性がそれほど薄かったとは思えない。第一、沖縄・アイヌ・朝鮮への文化的搾取を棚に上げて自分だけマイノリティぶる権利はないと思うのだが、どうだろう。
紙の本
ケルト的なるものと日本的なるものに通じる何かを探る、比較文学研究家らによる新たなケルト考への試み
2000/12/07 18:15
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:高橋洋一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ケルトとは、紀元前5世紀から紀元前1世紀にかけて中欧と西欧に繁栄したインド・ヨーロッパ語族の一分派の総称で、現在では、スコットランド、アイルランド、フランス西北部にケルト系言語の名残があるとされる。ケルト神話は、神々と英雄と妖精が入り組んで作り上げている独特の世界であり、さらには彼らに魔術をかけて、力を貸したり、滅ぼしたり、その運命を魔法の杖で変える力のあるドルイドと呼ばれる者たちが存在した。ドルイドたちの行動がケルト独特の生死観や自然観を見せていて、そこからケルト民族が持っていたであろう超自然的な宇宙観もうかがえるのである。
鎌田東二・鶴岡真弓編著『ケルトと日本』は、近年一層関心が高まっている“ケルト的なるもの”と“日本的なるもの”に通じ合う何かがあるという仮説の下に、ケルト研究者や、ケルトに注目している神道学研究家、比較文学研究家、アイルランド文学研究家らがそれぞれの立場から、そのテーマに多角的にアプローチした、新たなケルト考への試みである。
「二十世紀末の今日、新たなケルト・リバイバルや縄文および神道リバイバルが興っているかに見える。しかし、それは、近代化の道程で辺境に追いやられ、敗北していった異端の伝統や異郷に対する単なる懐郷ではない。また、近代化の諸矛盾を突破する一方法としてのポスト・モダン的問題に引きつけたものでもない。そのような面が皆無とは言えないが、むしろ文明の構造を相対的、総合的に問い返す原初からのまなざしとして、ケルトや縄文や神道が一つの焦点になってきている」と鎌田氏は言う。そして、いち早く縄文文化とケルトを比較した画家・岡本太郎の鋭い洞察を紹介する。
「空間に強烈に挑み、激しく、うねり、流れ進む。決して固定しない。まさに無限に流動する線・・・地球の方がこちらにからみついてくるような、情感にみちた動の宇宙観」を感得し、「驚くのは、このケルトと縄文文化の表情に、信じ難いほどそっくりなのがあることだ」と岡本は指摘している。この岡本の言葉などを重要な問題提起と受け止め、現代文明を形成する諸構造が一体何に根ざすのかを自己認識する契機として、ケルトや縄文や神道のように固有な文化古層の領域の意味を新たに問いなおそう、という鎌田氏の試みは十分に説得的である。
鶴岡真弓「「ケルト的なもの」はなぜ賛美されたのか—近代国民国家の創造とケルト性」は、ケルト文化評価をめぐる重層的な論考で、ケルトなるものについて示唆に富んだ問題提起が行われていて読みごたえがある。井村君江「ケルト神話の宇宙観—ドイルドを中心にして」もケルトへの想像力を刺激してくれる論考である。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2000.12.08)