紙の本
言葉がすんなりとやわらかく明晰
2018/05/22 11:29
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
数学書であることは間違いないが、数学嫌いの人にお薦め。抽象化の道を突き進んだ(近代西洋)数学に、身体性を取り戻す試みとして、岡潔とA.チューリングを紹介する。後半は、ほぼ、岡潔の評伝。「和算」等、その国独自の数学への指摘も面白い。
紙の本
深くて優しい
2020/06/02 15:34
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ゆっくり - この投稿者のレビュー一覧を見る
森田さんのご活動で「数学の演奏会」というイベントで直接接して素晴らしいと思っていたので、本が出るのを楽しみにしていました。「数学する」ということは特別ではなく美学だと感じる文章をたくさんの人に読んで欲しいものです。
紙の本
小林秀雄賞を受賞した傑作です!
2019/02/06 10:15
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、数学はもっと人間のためのあることはできないのかをテーマに考察した画期的な書です。数学的な理論において、人間の身体や心の存在場所はあるのかと考えた著者は、最終的にアラン・チューリングと岡潔という二人に偉大な数学者にたどり着きます。著者がそこに見たものは一体何であったのか?詳細はぜひ、本書をお読みください。
紙の本
数学する身体
2016/04/30 15:45
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Carmilla - この投稿者のレビュー一覧を見る
月一度の「東京遠征」(本当は毎週のように足を運びたいのだが、先立つものが…(><)○倍のバカヤロー!!)の際、ふと立ち寄った本屋で見かけた数学本。パラパラめくってみると、およそ数学者とは思えない柔らかな思考と文体に夢中になり、立ち読みから5分足らずで購入を即決。文体が柔らかいのも当然、かれはもともと文系学部を志望していたが、尊敬できる数学の師匠に出会ったらしく、大学は数学科で幾何学を専攻していたという経歴の持ち主だそうだ。彼の文章を読むと「数学も文化である」ということを実感する。この本には、小難しい「数式」という概念が全く出てこない。それどころか折に触れ「数学の歴史」という概念が出てくるため、理系及び数学アレルギーを持っている読者でも、すんなりと理解できること請け合いである。日本古来の数学を「和算」、日本の学校教育で展開されている算数・数学を「近代(西洋)数学」と定義する著者の思考が、今後どのような展開を遂げるのか興味深い。
紙の本
わかるようなわからないような…
2020/08/01 22:41
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:makiko - この投稿者のレビュー一覧を見る
数学は頭脳の働きだけでするものではなく身体を使っていること、チューリングと岡潔の業績を中心とした数学の歴史、岡潔の根本的考えが記述されていました。著者の岡潔に対する強い憧れを感じました。『人間の建設』を読んでから岡潔に興味があったので、図らずも彼について知ることができてラッキーでした。
それにしても、高校までの科目の「数学」なんて、数学することのほんのさわりに過ぎないんだなぁ。
投稿元:
レビューを見る
数学を哲学する。日本人は数学や算数を「計算」だと勘違いしているが「思考」である。だからそこに「情緒」がある。
数学=追及すること
情緒=他者とのつながりを見出すこと
個性=他者とのつながりによって見出す差別的な自分
個性を求める=他者とのつながりを深めて、自分自身を追及すること
数学する身体=自分の体を追及する。つまり個を追及することである。だから他者とのつながりを深めること。情緒を持つということだ。
結論は、数学に情緒を求めることが、「数学する身体」である。
数学で他者とのつながりを見出すのだ。
古武術家の甲野善紀先生が興味を持つのも納得。
なんかよくわからないけれど、できること。それをそのまま受け入れて、追及する。数学だ。
投稿元:
レビューを見る
ムの字
@_submoomin
森田真生さんという人はまあそろそろ詐欺師と言っていいと思いますよ。
H. Hosaka @H_H 10月24日
森田真生氏に関する問題を一言でまとめると、こうなるのでは。狭義の数学者でない人が、狭義の数学者であると誤解されうる肩書を用いて、数学に関する活動を行っている。
けーた @ke_ta3 10月24日
森田真生氏が圏論の初歩を講義してたり、数学基礎論サマースクールとかに来て勉強してたのを見た限りでは真面目に数学独学してる人だと思われたが、書いてることは勉強してるはずの現代数学とは全く関係なく、ひたすら「岡潔はすごい」「身体性が大事」を繰り返すだけになっちゃってる感じはするね。
Twitterより。
投稿元:
レビューを見る
タイトルは難しそうだが、水が大地にしみ込むようにするりと読める。数学に対するものの見方が少し変わる。
そしてあとがきでこの著者が影響を受けた人を見ると納得である。
投稿元:
レビューを見る
帯背
数学の存在意義を問う話題の書
帯裏
「数学を通して世界をわかりたい!」
人間が生み出す数学の道具は、時代や場所とともに姿を変えてきた。
ものを数えるために使われた手足の指や、後に生まれた記号や計算・・・
道具の変遷は数学者の行為を変え、記号化の徹底は抽象化を究めていく。
コンピュータや人工知能の誕生で、人間の思考は変貌を遂げるのか?
論考はチューリング、岡潔のふたりにたどりつき、生成していく。
本書は、「数学と情緒」(『考える人』2013年夏号)、「数学する身体」(『新潮』同年9月号)、「計算と情緒」(同2014年1月号)、「零の場所」(同10月号)、「アラン・チューリングの艸のみち」(『みちくさ』No.1スマートニュース株式会社発行)を大幅に加筆修正したものです。
投稿元:
レビューを見る
2015.11.2-2015.11.3
武術家の甲野善紀氏が勧めてゐるので購入。独立の研究者といふ著書の行き方にも関心があつた。
数学が発生段階から身体と不可分であり、考へるといふことは、普通に思はれてゐる以上に身体的な過程なのだ、といふ論点は興味深い。それがギリシャ時代の数学を例に説かれてゐるあたりは秀逸だ。
他方で、人工知能が人類の脅威になるのではないかと心配される程に発展し、「情報」が一人の人間の処理能力とは無関係に増殖する時代に、数学を身体化するといふ岡潔の理想がどのやうな指針となるのかは不明確だと思はれる。
とは言へ、他の人達の力を借り、過去の遺産の助けを得ながらも、他人には伺ひ知れないものを抱へて生きる他ないのが人間である以上、頼りになるのはこの身体であり、その持つ潜在力が充分に使はれてゐないのは確かなので、頭でつかちになり勝ちな今の日本で、読まれる価値がある本だらう。
投稿元:
レビューを見る
20160315読了
著者、30歳。在野で研究している人。●数学のなりたちが興味深かった。あと、チューリングと岡潔。正直言って、数学的な話題や情緒と数学に関する部分は頭のなかがハテナだらけ。「零から」とか「零まで」とか…もうさっぱりで、結論としては、自分に数学的センスは皆無だった。知ってた。●新聞11月の書評。
投稿元:
レビューを見る
読了。以前、途中経過で味わった興奮は得られなかった。岡潔の話が、少しついて行けなかった。岡潔について書かれたところは、岡潔の書いた本の方がやはり迫力があると思った。著者自信の言葉で語られたら良かったと思う。自分は、岡潔の論文は見たこともない。たぶん理解できないと思う。でもいつか読んでみたいと感じた。心の話がでてきた。仏教に通じるのかなと思った。
投稿元:
レビューを見る
なぜ公理は公理であるのか。1とは何か。
無限についてカントールはこういった思索を繰り返したのだろうか。作者は、人類全体の思考の枠組みを一段階広げるような発見に至る準備運動をしているのかもしれない。それが結実するのかはわからないが、何かどでかいことを成し得るポテンシャルを感じる。
純粋才能が良き出会いを重ね(特に古武術の甲野善紀氏との出会いは大きいと感じる)、アンテナの感度の良さ、感受性、知性、数学的素質が融合してここまでの考察に至る。わかりやすい上に深いので、そのまま講話として宗教な人にパクられそうである。
投稿元:
レビューを見る
これはもう(生活の一部ではなく)生活そのものが数学という方々の崇高な物語になっていると感じました。
うらやましくもあり、また心洗われる思いもしました。
芭蕉ー岡潔ー著者が「一つの身体」となって現代に現れたような錯覚を覚えるほどに本作に引き込まれました。
投稿元:
レビューを見る
中学校に上がって「算数」が「数学」に変わり、今振り返ればなぜなのかと思わずにはいられないほどに苦手科目となって立ちはだかった。その苦手意識は高校進学後もつきまとい、結果として「数学が苦手だから」という理由で文系クラスに進級。大学も文系学科に進学し、歴史で卒論を書き、就職先がIT屋。仕事として数学が生み出した技術を扱う日々が始まった。かれこれもうすぐ8年。
この本を読んで、改めて物事には「歴史」があり、その積み重ねを人間が紡いできた結果の世界に生きているのだと痛感するばかり。
本書には小難しい数式はいっさい出てこない。数学研究を行う著者がもともと文系だったということもあり(これにはかなり驚いた)、紡がれる言葉の数々は流麗で美しい。数学という学問を思想的に分析・解説されていくことで自分の人生にも実感として数字が馴染んでくるようだ。数字は身近なもの、身体の延長である道具なのだ。