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冷静にみると主人公の執事はワーカーホリックで?意固地な?人物なのだが、なぜか憎めないのは、その?品格?のせいなのか。抑制された雰囲気がすばらしい。名作である。古き良きイギリスと美しい田園風景。訳もよかった。映画もよかった。
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この人の前2作は日本が舞台だったですけど、正直、よくわかりませんでした。
今回、「執事」っていう「イギリスそのものみたいな文化」っていうんでしょうか?なんかわかりやすかったです。
日本じゃ、そういう役割してるの「奥様」だったんでしょうか?内助の功、みたいな。だって、お休みなしですよ。常にご主人さま一筋ですよ。
でも、それでよかったんでしょうか?自分自身の幸せは?っていう終わりですよね。良かったことにしとこう、みたいな。
女中頭かわいそうだなあ。あんなに積極的にアタックしたのに。気付けよ、てか、わざと気付かないふりなんじゃないか?
いかにも執事の口から出てきそうな丁寧で謙譲で尊敬な日本語訳がいいです。
現代にそんな日本語がすらすらと話せる日本人ていないんじゃないでしょうか。
映画になってるらしいけど、なんか、映画にしたくなるような風景が見えますよね。
やっぱ、ウチにもひとり、執事欲しいな〜。
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品格のある、古き良きイギリスを描いた作品。
非イギリス人にとって、
この作品の本当の良さをしみじみと感じるのは難しいのかも。
それと翻訳で読むのではなく、
原語のままで読むべきなのであろう、きっと。
1989 年 ブッカー賞受賞作品。
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ほんと、上質な感動を味わえる。ラスト、スティーブンスの心の暗雲が晴れていくよう、読んでいる自分の心も浄化された。上品に慎ましく生きていきたいと思える作品。
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映画公開の時に映画を見たのですが、「私を離さないで」が公開になり、カズオ・イシグロに興味を持ったので、改めて原作を読んでみました。入り込める人にはとても楽しめる本だと思います。
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図書館で借りてきて読みました。
イギリスの古きよき時代、とでも言うのでしょうか?豊かに広がる田園風景や暮らしている人の素朴でやさしい人柄などの表現に、何かノスタルジーを感じます。主人公はある旧家の執事を長年勤め上げた(今も執事として勤めている)人なのですがその方の一本芯の入った勤め方も、態度も、人生観も今では遠い昔のものなのかもしれませんね。
彼が昔を回顧する色々なエピソードがあり、色々と場が変化するのでちょっとついていくのに大変でしたが最終的に夕日を眺め、これからの展望を望ませるラストは非常に素敵でした。
ああいう、まあタイトルどおり日の落ちる最後の光であれ、明るい(かな?)終わりはいいものです。
姉が英語が流麗で素敵だ、と言ってました。英語で読みたいな、時間があったら…
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馴染みのない格調の高さに、最初は読みにくいと感じていたけれど、中盤からタイトルの意味するところがわかってきて、それからは引き込まれた。
職務に忠実であること。人として慎みを持つこと。今の時代には余りそぐわない価値観かも知れず、違和感やじれったさを感じないでもなかったが、老執事の語りが心にしみた。
ミス・ケントンのセリフや行動から、執事の気持ちを読み解いても面白い。
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素晴らしい。
読んでいて、先を読むのがもったいないと思うほど。
出逢えて良かった。
イギリス紳士の仕える執事の話。
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1950年代が舞台。初老の執事が休暇の自動車旅行の間に過去を回想する。 第1次大戦の後の処理、やはり執事だった父の思い出、大英帝国栄光の最後の日々、民主主義と衆愚政治、主人への忠誠、執事の矜持。 そして職業的態度に包み隠された女中頭への淡い恋心。 淡々と語る口調全体に常に響いいているのはユーモアというよりペーソスで、読者が誰しも期待していた結末を見事に裏切ってくれる。 帝国の落日、執事の凋落、自分の老い、50年代という過去に舞台を置いたからこそ実現できた遠い思い出。 これこそ執事を扱った小説の傑作だろう。
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ずっと以前から存在は知っていたが,このたび「NHK テレビ3か月トピック英会話 聴く読むわかる!英文学の名作名場面」に背中を押されるようにして読んだ.戦前までの英国の栄光とともに存在した貴族的な精神への限りなきノスタルジーをドライブ旅行に出た執事が回想する.最後の日の名残りに英国の没落と執事スティーブンスの終わりに近づいた人生が重なる.
落ち着いた語り口が印象的な佳作.「わたしを離さないで」の微熱をおびたような感じとはずいぶん違う.
ところで,日本にもこういう過去への郷愁を感じさせる小説はあるんだろうか.日本の小説は戦争の影が忍び寄ったとたん真っ暗になってしまって,こういう風にはなかなか語れないのかもしれない.江戸への郷愁を感じさせるものはあるかも.
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憑依型かと思われるような・・・ある空想(筆者の頭の中にある世界)上のある時代の、ある設定のある人物の職業をその人になり変わって物語に現れるとき、こんなにもリアリティを持ち丁寧に確実にしっかり細部まで描ききれるのは本当にすごい。読んでいてその人物が確かに生きて経験したこたことが鮮やかに迫ってくるようです。
執事という職業は現代人にはピンとこないけれど、仕事における姿勢や品格(キーワード)やコミュニケーションのひとつの有効な手段となるジョーク(キーワード)にたいする思考は考えさせられる。大きな屋敷に住む主人に仕えることが執事ではあるが、それを自分の職業に対する奉仕の捉え方として読むと背筋が伸びるおもいです。
村上春樹のエッセイを読んで知った作家です、彼の作品から目が離せない。
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カズオ・イシグロ氏の三番目の長編。
舞台は戦後のイギリス。大きなお屋敷で働く執事の旅行と回想。日本では執事というものはあまり馴染みがなく、イメージが摑みにくいが、イギリスは紳士の国というのがとてもうなずける。ただ、swallowのギャグの訳は無理があると思う。英語の韻の訳出なのでどうしても限界があるから致し方ないが。
二度とは戻らない時の流れにとても切なさを感じたが、胸を痛みつけるというより、ふっともれるため息のような悲しさ。それは、過ぎ去った時に思いを馳せながらも、その過去に照らされた今を歩いていこうとする、主人公とその想い人の力強い後姿からくるのではないのだろうか。
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ダーリントン卿の執事が、小旅行に出かけ、過ぎし日々を回想する物語 執事という仕事は、自分があって自分がない厳しい職業 今の時代では存在感が薄いと思われる
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主人公スティーブンスは、ダーリントン・ホールと呼ばれる由緒正しい名家の執事である。大戦後、ダーリントン卿は失脚、館はアメリカ人ファラディ氏の所有するところとなる。家付きの執事として仕えることになったスティーブンスに新しい主人は、一度ゆっくりイギリス見物でもしたらいい、と旅行を勧める。初めは遠慮したスティーブンスだが、かつていっしょに勤めた女中頭で、今は結婚して田舎で暮らすミス・ケントンから来た手紙のことを思い出し、訪ねてみようと思い立つ。
小旅行の間、スティーブンスの脳裏に去来するのは、数々の歴史的事件の舞台となったダーリントン・ホールの栄華の日々であり、いっしょに働いていた有能な女中頭ミス・ケントンの思い出である。人手不足もあり、満足の行く仕事ができないスティーブンスは、もう一度ミス・ケントンに戻って来てほしいと考えている。今回の休暇旅行は彼にとってはそういう意味のある旅行だった。しかし、ジョーク好きのファラディ氏は、「おいおい、スティーブンス。ガールフレンドに会いにいきたい?その年でかい?」と、からかうのだった。他者であるファラディ氏の価値観と主人公の価値観との相違が暗示されている大事なところだ。
回想のなかに当時のドイツ駐英大使リッペントロップの名が度々登場することからも、英国とドイツの間に再度戦端が開かれようとしていた時代であることがわかる。スティーブンスが仕えるダーリントン卿は、第一次世界大戦後の賠償問題で疲弊したドイツに同情的で、宥和政策を推進しようとしていることが言葉の端々から伝わる。卿を崇拝する主人公は、卿の仕事が円滑に進むよう、交渉の舞台であるダーリントン・ホールの運営に心を砕く。
執事という職業はイギリスにしかなく、他の国のそれは召使である、と言われるほど、英国人にとって執事という職の持つ意味合いには重いものがある。スティーブンスが目指すのは「品格」を持った執事である。では「品格」とは何か。スティーブンスは言う「品格の有無を決定するのは、自らの職業的あり方を貫き、それに堪える能力だと言えるのではありますまいか」と。この言葉が、彼の行動、意思決定を終始つかさどる。尊敬する父も、そのように生きてきた。スティーブンスに感情がないわけではない。おそらく、執事という職を辞しさえすれば、自分の思いを表面に出すこともできるのだろうが、執事である間は、執事であることを貫き、それに堪えるのだ。
読者から見ると、朴念仁の石部金吉にしか見えないスティーブンスだが、執事という生き方しか知らない彼にとって、より良い執事をめざす限り、気がおけず、能力について尊敬も覚える女性を前にしても、同僚の線を決して越えることはない。それは、ヒューマニズムの問題や、イデオロギーに関しても同じである。主人の決定に異議を唱えるなどということは、執事としての分を超えることになるからだ。彼の考える「品格」を持った執事である、ということは「頭」や「心」は主人に預け、有能な「手足」として働く、いわば「道具」に徹するということである。
ダーリントン・ホールで暮らしているうちはそれでよかった。しかし、たとえ車で出かける数日間の旅行にしても、一歩屋敷の外に出れば、そこは異世界である。スティーブンスは執事ではなく、一人のイギリス人として扱われる。はじめは、とまどい、やがて上流階級の人間と見られることに快感を覚え、本来の出自を隠すようになる。そこには「品格」をもった執事スティーブンスの姿はない。むしろ、それがスティーブンス本来の姿であった。
「執事」という殻をかぶり、本来の自分をみつめることを怠ってきたつけは、この旅行の真の目的であったミス・ケントンとの再開できっちり払わせられることになる。スティーブンスの腹積もりでは、不幸な結婚に陥っているミス・ケントンをそこから救い出し、もう一度ダーリントン・ホールに連れ戻し、かつての愉しい日々を再開する、というものだった。しかし、その期待はあえなく潰える。彼が顧みることのなかった時間は、他の人間を成長させるに充分な時間であった。夕闇迫る桟橋で、こみ上げる涙の苦さ。
アメリカ人という他者の洗礼を受けることで、名残りの日々を過ごすための新たな生きがいを見つけることになるスティーブンス。ほろ苦い結末だが、人生の夕暮れを照らすやさしい光が、そこにさしているようだ。鼻をかむためのハンカチを貸してくれる男の言うとおり「夕方が一日でいちばんいい時間」なのかもしれない。
蛇足ながら訳について一言。1990年に、この翻訳が出たとき、丸谷才一氏は書評の最後に「土屋政雄の翻訳は見事なもの」と、付け加えるのを忘れなかった。そのことに異議はないのだが、72ページで、ダーリントン卿の「これは誇張ではあるまい?」という質問に対し、スティーブンスが「とんでもございません」と答えているのが気になる。文化庁は、誤用ではないとしているようだが、「品格」を大事とする英国の執事が使う言葉とは思えない。ここは、「とんでもないことでございます」と訳してもらわないと、スティーブンスも浮かばれないのではないだろうか。
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ダーリントンホールの思い出がつづられる。ミス・ケントン。尊敬していた父の老い。ココアミーティング。ダーリントン卿の過ち。品格。終わってしまったことは振り返らない。すべては思い出になって流れさる。