紙の本
いつまでも心に残る名作。命を捧げて山となった巨人の話
2009/05/19 22:05
15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:チャミ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「花さき山」「もちもちの木」の斉藤隆介と滝平二郎さんのコンビで贈る、心に感動を与える絵本。三コは秋田の平野にずっと昔から生きている巨人。その山のように大きな体を見たものは誰もいなかったが、三コのやった仕事だけは目にすることはできた。例えば、きこりたちのために谷川にかけられた橋や百姓たちのためにつくられたため池など。そんなある日、三コの姿を見ることができたものがいる。オイダラ村のオンチャと呼ばれる次男坊や三男坊たちだ。彼らは跡取りでないために仕事がない。そんな彼らのために、三コは山に木を植え、きこりの仕事を作ってあげた。ところが、ある日、その山が山火事になる。どんどん燃え広がる山火事。このまま、火が広がれば、秋田の国は火の海になるかもしれない…というその瞬間、三コは山を抱きかかえて火を消そうとしがみついた。村人たちに最後の笑顔と「焼け跡にはまた木を植えろ」という言葉を残して…。
斉藤隆介の民話風の創作絵本。あとがきには次のような言葉が記されています。「八郎は水に入って死に、三コは火にかぶさって死ぬ。しかし、太く貫いて共通点はある。それは、八郎も三コも働く貧しい人々のために命を捧げて死ぬ巨人だということである。しかも、はにかみを知る心優しき巨人だということである。それが、私の、人間の理想像だ」と。「花さき山」で老婆が言った、「いいことをすれば花になる。命を捧げれば山になる」という言葉がよみがえり、山のように大きな命の尊さを深く思う。命を無駄にすることなく、誰かのために生きること。私たちが忘れがちなものがこの絵本には描かれています。
さらに、斉藤さんのあとがきの続きには、次のような滝平さんの仕事への情熱を感じさせる言葉が描かれています。「この十年(1975年当時)、常に私の挿絵を書いてきてくれた滝平さんが、それを(三コ)をすばらしい絵本にしてくれた。前作「八郎」よりさらに一段の進境である。かいてはかき直し、かき直してはかき、私と編集者を二年待たせた。できばえは待ったかいがあった。インスタントばやりの当今、作者も画家も編集者も、こんなもどかしいような手間をかけたことに、私はひそやかな誇りを感じている」
このあとがきが書かれた時から30年以上の時が過ぎ、さらに世の中は効率の良さを求め、時間短縮へと突き進んできています。
気の遠くなる作業を繰り返し、何度もやり直し、納得のいくまで手間をかけられた傑作だからこそ、絵を見ただけで心を打つものがあり、心に深く刻まれるのでしょう。そんな作品を創りあげることのできる作家がこの世から去られたことが、とても悲しく惜しく思います。
紙の本
心優しき巨人の坐す国
2016/02/13 17:48
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投稿者:しましま - この投稿者のレビュー一覧を見る
『八郎』と同じく秋田が舞台で巨人が主人公。八郎は海に沈み、三コは山を抱いて死んでいく、貧しくも、日々を懸命に生きる人々のために…。
斎藤氏の作品は“自己犠牲”を扱っているものが多い気がするが、これはその極めつけではないだろうか。生命を軽んずる事もなく、使命感にとらわれた悲壮さもない。人のために笑って命を捧げる魂の大きさを巨人という形に表しているのではないかと思う。
紙の本
オンチャ(農家の次男三男たち)の悲哀
2015/07/29 20:32
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投稿者:弥生丸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
表紙の巨人三コの絵が、逞しく圧巻。三コは秋田に住む巨人。元は農村のオンチャ(次男三男たち)、秋田の野を駆け抜けるうちに、いつしか大男になったという。
土地も仕事もないオンチャたちのために、三コは海に山を放り投げて木を植え、オイダラ山をつくる。暮らしが立つようになったオンチャたちは大喜び。ところがある日、山火事が起こり、燃え盛るオイダラ山の悲鳴とオンチャたちの嘆きを聞いた三コは、自らを、、、
壮絶な物語。悲劇的な英雄譚に、貧しい農村の不遇のオンチャたちの悲哀をひしひしと感じる。情味豊かな語りと、滝平二郎氏の迫力に満ちた絵が調和して素晴らしい。
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5歳の娘にはちょっと難しかったようです。
読みながら、私の方が
「ああ、こんな本だったんだ!」と。
幼い頃、母に読んでもらったけれど
細かい設定はすべて忘れてしまっていて
「おおきな男が山火事に身体をのせて火を消した」
ということしか覚えてなかったのです。
秋田の豊かな山。
長男以外は「人間のカス」というセリフ。
稲作以外の仕事を作り出す気概。
あぁ、そういうことだったんだ!と
今さらながらに感じ入り。
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またもやでっかい男の話
三コは農家の次男坊三男坊たちに、山できこりをする仕事を与える。山火事になる。身をていして火を消す><
イケメン!
秋田弁
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ほかに『八郎』『モチモチの木』『半日村』『ふき』などの名作を
生み出してきたこの名コンビの作品に共通しているのは、東北の民
話の形を借りた創作絵本であること、そして、貧しい人々に対する
優しい眼差しに満ちていること、です。
『三コ』は、秋田の山の中に住むと語り継がれてきた巨人の物語で
す。姿を見たものはいないけれど、何百年も生きていると信じられ
ていて、橋が欲しい、溜池が欲しいと言った村人達の願いを人知れ
ずかなえてあげる心優しい大男。それが三コです。
その三コは、ある日、オンチャ(農家の次男・三男)達の「仕事が
なくて村では暮していけない」という悩みを耳にします。「三コ」
と呼ばれるくらいですから、自身も三男坊であった三コは、このオ
ンチャ達のために、ハゲ山であったオイダラ山に木を植えてあげま
す。おかげでオンチャ達には仕事ができ、育った木は生計を支える
ようになりました。しかし、その山に異変が起きます。
異変に気付き駆け付けた三コが目にしたのは、轟々と燃えさかるオ
イダラ山でした。山火事はどんどん勢いを増し、オイダラ山だけで
なく、隣接する森をも燃やし始めます。火事の勢いを前にして、な
すすべなく泣き崩れるオンチャ達に、三コはニコッと笑いかけたか
と思うと、自らの巨体を燃えさかる火の上に投げ出すのです…。
『八郎』は、自らの命を投げ出して津波をとめる大男の話でした。
『三コ』は、山火事を消すために自らの命を差し出す巨人の話です。
自己犠牲の美談のように思えますが、どちらもそんな説教くささと
は無縁です。目の前で困っている人に自分が持っているものを使っ
てもらう。自らの巨体が役立つなら、笑って差し出す。そこにある
のは何の気負いも衒いもない、自然で清々しい振る舞いです。
著者の斎藤隆介氏は、「あとがき」で、八郎と三コに共通するのは、
「働く貧しい人々のために命をささげて死ぬ巨人だということ…
しかも、はにかみを知る心やさしき巨人だということ」だと述べて
います。そして、「それが私の、人間の理想像だ」とも。
巨人の身体の大きさに仮託されているのは、きっと魂の大きさでし
ょう。はにかみを知るやさしさと、人のために命を捧げることので
きる強さを併せ持つ魂の巨人に育って欲しい。それが子ども達に対
する斎藤氏の願いだったのだと思います。『三コ』の発表は1969年。
実は井上の生まれた年です。そのことを今回知って、40年前にこん
な大きな宿題をもらっていたのかと深く感じ入った次第です。
震災が起きてからの一ヶ月、「がんばろう」「あなたは一人じゃな
い」等の言葉が繰り返し語られています。それらの言葉の空虚さに
うんざりしつつ、かと言って何か具体的に役に立つことができるわ
けでもない自分が情けなく思えてしょうがなかった時、久しぶりに
読みたくなったのが『三コ』であり『八郎』であり『花さき山』で
した。これらの絵本の中にこめられた、東北の風土や人々に対��る
静かな祈りに触れ、どれだけ自分の気持ちが鎮まったことか。長く
絶版だった『三コ』がこの3月に復刊されたのにも縁を感じました。
『三コ』の文章の完成には十数年、絵の完成には二年の歳月が必要
だったそうです。時間をかけることで初めて宿る、確かなものがこ
こにはあります。是非、読んでみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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三コは、秋田の平野の子だ。
いつごろ生まれたのか、だれも知らない。
ずっとむかしから生きていた。
オイダラ村あたりの、水のみ百姓の小セガレだったことはたしかだ。
三吉か三太か、ほんとのなまえさえチャントでなく、三コと半パに
しか呼んでもらえないのが何よりのしょうこだ。
そいつがいつのころからか、秋田の平野を風にのってかけはじめた。
それから、せいがデッカクなりはじめたらしい。
ちいさな村の、ちいさな土地にしばりつけられて、四つンばいにな
ってくらすことに、しんぼうならなくなったんだろう。からだがそ
だったのは、魂がそだったからだろう。
何百年ものあいだに何人かだから、三コの声をきいたものはわずか
だが、たしかにきいたものがあるのだから、三コは、生きているに
ちがいないといわれた。
けれども、すがたを見たものは、だれもいない。
だけど、三コのやったしごとのあとだけは、だれでも見ることがで
きた。
「ここサ橋がかかっていれば、なんぼちか道になるべなァ」
などと木コリたちが、谷川の断崖に立ってなげくことがたびかさな
ると、ある嵐のあと、むこうの断崖に、ふといイタヤカエデの大木
がおしたおされて、橋になっていることがあった。
「三コがしてくれたんだべ」
木コリたちは、みんなではなしあった。
ところが、とうとう、ほんとに三コを見たものがでた。それも一人
や二人じゃない。おおぜいのオイダラ村のオンチャたちだ。
オンチャとは、土地をわけてもらえない、次男坊・三男坊たちのこ
とだ。すくない土地を弟たちにわけてしまえば、あととり総領たち
も食えなくなる。そこでオンチャたちは、なにかほかのしごとをし
たいのだが、せまいちいさな村にしごとなんて、そんなにあるわけ
のものではない。
「ハゲ山のオイダラ山に木を植えろ、山しごとができりゃオンチャ
がたも食えら。よそのオンチャがたは、そうして食ってら。」
雲はそういうと、ホカホカ笑って行っちまった。
「ンだンだ。」オンチャがたは手をうってよろこんだ。
サァ。それから三コはいそがしかった。
東へ走り、北へ走り、あっちの国からすこし、
こっちの国からすこしずつ、ブナ・マツ・スギ・ヒバ・イタヤカエ
デなどをひんぬいてきた。
なぜって一ぺんにあんまりたくさんぬいてくれば、
あっちのオンチャがこまるからだ。
山はまたコロコロよろこんだ。
なぜってハゲあたまに木を植えてもらい、
はだかのはだに衣を着���てもらったんだから――。
やがて三コは遠く遠く、
南の山のいただきが、ホーズキほどに
赤くなっているのを見た。
オイダラ山が泣いている。あついといって泣いている。
オイダラ山とオンチャたちの泣き声が、心を引きさくように、
はっきりときこえた。
ジョヤサ、
ジョヤサ、
ジョヤサ!
三コは走った、走った、走った。
オイダラ山は、もえさかる金のタキギになっていた。
おそかったのだ。もうまにあわない。三コが北から東から、
引きぬきひんぬいてきて植えた、マツ・スギ・ヒバ・イタヤカエデ
は、一団のタキギとなって、えんえんともえさかってた。
三コはさけんでみんなのほうをむいた。
もういちどオンチャたちをジッとよく見た。
そしてニコッとわらった。
「いいかァ、火がきえたら、焼けあとには木を植えるんだぞゥ。
ハッハッハッ、焼け山の土はよく肥えて、木はスンスンなんぼでも
伸びらァ!みんな。オンチャがた。マメでくらせェ!」
三コは言いおわると、オイダラ山にむきなおって、
オイダラ山にかぶさった。
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●[2]編集後記
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東京では今がサクラの盛りです。
サクラの代名詞になっているソメイヨシノは、雑種のため子孫を残
すことができません。人が挿木で増やしてあげない限り、自ら増え
ることができないのです。ソメイヨシノの花の美しさは、子孫を残
すことを目的としないからこそのものなのかもしれません。
とこどろころ混じる白い花はヤマザクラです。地味ですが、ソメイ
ヨシノよりも個人的には好きです。葉の芽吹きが開花とが一緒なの
で、白と新緑のコントラストを楽しめるのも嬉しいですね。もとも
とサクラと言えばヤマザクラでしたが、人工的に増やされたソメイ
ヨシノに押され、今やすっかり影が薄くなってしまいました。
サクラの「サ」は「神霊」、「クラ」は「座」を意味します。山か
ら降りてきた神様が一休みする場所がサクラで、そこから霊的なエ
ネルギーが里に広がり、稲の一粒一粒に宿るのです。毎年の実りを
もたらす再生と循環の象徴。それがサクラの本来的意味合いです。
福島でも開花宣言がされたそうです。東北はこれからがサクラの本
番ですね。
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自分にしか出来ないことがきっと世の中にはあると思うけど、実際にその場面に遭遇したとき、果たしてボクは何もかも犠牲にしてまでそれを実行することが出来るきるだろうか…。
考えさせられてしまう。
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「岳」つながりで。主人公の島崎三歩の名前の由来のひとつがこの絵本「三コ」とお聞きしたので。この絵本のお話は創作民話ですが、じっくり読みすすめると三コという大男の、山のために自らの命を投げ出す姿は涙を誘います。その三コと三歩は確かにどこか似ているところがあります。同じ作者・画家による絵本「花さき山」にこの「三コ」と「八郎」という大男の話がでてきます。 (Er)
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八郎と似ているけど作者は対照的と言っている絵本です。
大切なものを守るために命を捨てるということは
大学生の私にはまだピンときません。
それがはたして本当にいいことなのか、いつかは自分もそう思えるのかなんて考えて読みました。
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斎藤×滝平コンビの絵本が、なんとなく好きだ
『八郎』をよんだときにこちらもよもうと思っていたので、図書館で借りた
秋田のオイダラ村の子・三コは、平野を風にのってかけているうちにせいがデッカクなり、人に姿は見せずとも、みんなの生活を少しずつ良くしてくれている……
たしかに、『八郎』のときと雰囲気が似ている
八郎も三コも、ドラゴンボールの悟空のようで、かっこいいのだ
良い意味で、頓着せず、気の向くままに、優しいと思う
「三コ」に添えて、という斎藤さんの文章の中に、働く貧しい人々のために命をささげて死ぬ巨人・はにかみを知る心やさしき巨人が理想像だと、あった
これをよんで、民話的で筋がよくわからないと考えてしまうのではなく、もっと柔軟に物語に身を委ねてみようと思った
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版画の力強さ、文書の力強さ、どちらも素晴らしかった。子どもに読み聞かせたい。
「げんきをおとすな! ダメダと思ったときがダメなんだぞゥ!」
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斎藤隆介さん作、滝平二郎さん画。
あまりにも有名で、教科書で見知った人もいると思います。
一度見たら忘れない画の力と、読みだすと一気にその物語に引き込まれていくのがわかる、まるで風景画のような文章が特徴であると、私は思います。
このような絵本は得てして、大人になってその意味を知った・考えた、と感じるように思います。
だから大人の本なのかというと、そうではないと思います。
何かしら心に引っかかり、感性に訴えかけてくるものを持った本です。出会えただけで意味のある本なのです。
こういう本こそ、劇や朗読、読み聞かせで出逢いたいなと感じます。
大男三コは、強く優しい人間です。
本当に人間なのか、はたまた神様の使いなのか。
こんな人間が存在するわけがない、と思ってしまいますが、作者の斎藤隆介さんは「それが私の、人間の理想だ」と書かれています。
ここを見るといつも、やなせたかしさんの言葉も思い出します。
「正義とは、困っている人を助けること」
人が間違った方向に向き始めたことに気づくには、時として絵本や漫画やアニメの力を使うべきなんじゃないでしょうか。
受け取り方は十人十色でも、作者の想いは伝わってきます。
そんな、力を持った作品です。是非、出会ってみてください。
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『花さき山』を読んで、“三コ”と出てきて、手に取りました。『八郎』は読んだことがあったが『三コ』は読んでなかったので。『八郎』と似ている。八郎も三コも働く貧しい人々のために命を捧げて死ぬ、はにかみを知る心優しい巨人である。それが、作者の人間の理想像だという。
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斉藤隆介は人の優しさをとことん描く。
優しさとは、自分よりも他人を大切すること。
でも自分を大切にしないことではない。
他を大切にする自分を大切にする様、力強く切り絵と訛りのある言葉でズンズンと心に響かせていく。
サンコのようにでっかく生きたい!
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八郎と同じく秋田の民話。オイチャ(土地を相続できない次男三男)たちのためにオイダラ山を守った話。秋田が木の国になったわけが描かれている。 みんなのために生きた大男という点で八郎と共通している。秋田県の南にあって火が燃える山ということで,オイダラ山は鳥海山がモデルだろうか?