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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2010.12
- 出版社: 群像社
- サイズ:17cm/283p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-903619-24-8
紙の本
寝台特急黄色い矢 作品集「青い火影」 2 (群像社ライブラリー)
著者 ヴィクトル・ペレーヴィン (著),中村 唯史 (訳),岩本 和久 (訳)
子供の頃にベッドから見た部屋の記憶は奥深い世界の始まり。共に暮らす魅惑的な異性の心には永遠に近づけない、謎の同行者の正体を探るには奇抜なジャンプを試みるしかない。連続殺人...
寝台特急黄色い矢 作品集「青い火影」 2 (群像社ライブラリー)
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商品説明
子供の頃にベッドから見た部屋の記憶は奥深い世界の始まり。共に暮らす魅惑的な異性の心には永遠に近づけない、謎の同行者の正体を探るには奇抜なジャンプを試みるしかない。連続殺人事件におびえる娼婦と潜水艦乗組員の性を超越したかけひきも、シャーマンが蘇らせた死者を連れた国外脱出も、霧深いペテルブルグで麻薬片手に警備につく革命軍兵士も、すべて現実?!死んだ者だけが降りることのできる寝台特急に読者を乗せて疾走するペレーヴィンのみずみずしい才能がいかんなく発揮されたデビュー時代の中短編集。【「BOOK」データベースの商品解説】
生きている空間を列車のイメージで表現したユニークな表題作をはじめ、「幼年時代の存在論」「ターザン・ジャンプ」「水晶の世界」など、ペレーヴィンの初期中短編を7編収録する。【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧
幼年時代の存在論 | 11−25 | |
---|---|---|
ニカ | 27−49 | |
ターザン・ジャンプ | 51−78 |
著者紹介
ヴィクトル・ペレーヴィン
- 略歴
- 〈ヴィクトル・ペレーヴィン〉1962年モスクワ生まれ。20世紀末のロシアに登場して以来、国外からも熱い注目を浴びつづけている現代作家。著書に「チャパーエフと空虚」「虫の生活」「恐怖の兜」など。
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紙の本
現代ロシアを代表する作家ペレーヴィンの言葉の操作には刺激される。具体的に書きつつも、それが示すものを抽象的にし、抽象的に書きつつも、それが示すものを具体的にしてしまう。だから、スリリングな読書体験をさせてもらえる。多様な作風が試みられた短篇集。
2011/01/19 17:55
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
言葉は具体的なものか、それとも抽象的なものか。あるいは、言葉は確かなものか、それともあやういものか。
ペレーヴィンという作家は、具体性と抽象性をうまく使い分け、言葉をあやつる。多彩な作風が観察できるこの短篇集を読んでみると、言語という記号が具体性にできること、抽象性にできることの広がりに愉快に酔える。
「言葉にしかできないことに挑みたい」「言葉の持つ可能性に賭けたい」といった心意気は、多くの作家が口にするものだ。映像で見せれば台無しになる事象や出来事を、言葉の喚起する力で読み手の脳裡に浮かび上がらせる、観念を重ねれば到達できる場所に読み手を連れ去るなどといったことだろう。では、どういう取り組みで、それらは可能か。ペレーヴィンのスタイルが、例としてとても刺激的なものだと思う。
具体的に書きつつも、それが示すものを抽象的にし、抽象的に書きつつも、それが示すものを具体的にしてしまう高度のテクニックが彼の小説を支える。だからこそとてもスリリングな読書体験をさせてもらえる。
「私はあなたを愛している」と言ったとき、その言葉は果たして具体的か、抽象的か。相手の様子だけでは思いが伝わってこなくとも、言葉により「愛してくれているのか」と具体的感情が分かった気にさせられる。そこにいる相手が仕草や目の色で発するものより、時に言葉は具体的なものだ。
しかし、目の色の下に、「私はあなたをあやめて保険金をごっそり得たい。そのために、『愛してる』と言い、あなたを釣って信用させたい」という真意が隠されているなら、この言葉は極めて抽象的だ。
いや、人の悪い例だった。相手のことをどれだけ大切に感じ、守り抜きたい、一生そばにいてほしいと好意を抱いても、それを伝えるのに「愛している」という記号ぐらいしか人間は持ち合わせていない。だから抽象性が高い、曖昧だ……と言い直しておくことにする。
シニフィアン(表すもの)とシニフィエ(意味するもの)の話ではなく、両者が合体したシーニュ(記号)の二面性の話になるかと思う。発する側からも受け止める側でも、具体的なことと抽象的なことは分かれる。
両者の「すれ違い」「幸福な結合」が、言ってみれば文学というもののセクシーさなのだ。
「ニカ」は、とらえどころのない神秘的な女性を、同居している男性の視点で描いた短い小説。ニンフェット的な少女への欲望を書いた『ロリータ』のイメージが重なると思ったら、実際、「ニンフェット」「ハンバート・ハンバート」という、たとえが使われている。
男性は彼女の首筋を指でなぞりながら、柔らかな曲線に他の男の手が触れる情景を思い浮かべる。嫉妬で相手をしばる独善的な愛かと思いきや、「それがたとえどんな手であろうと、彼女の心に触れることは決してないだろうと感じていた」(P28)という表現で、なかなか自負の高い愛情だと分かる。
けれども、「その夜私は、ニカにいつもよりも特に優しくしてやったが、そのあいだ、柔らかな身体の上を這いまわっている自分の手が、彼女にとっては森の中をいっしょに散歩しているとき胸やお腹によく触れる小枝や何かとたいして変わりないのだという想いを、どうしても拭うことができなかった」(P31)というように、自己否定も愛にはつきまとう。自信と不安に揺れ動く男性の内面が、共感を誘いながら具体的に表されていく。
この種の愛の話は、何らかの形で破局を迎え、やるせない気持ちにさせられるはずと考えて読んでいく。果たして破局は訪れ、それは短篇小説に欠かせない唐突さやあっけなさという特徴で説明できる。
しかし、言葉で具体的に表現されてきたはずのラブ・ストーリーが、実は、まるで抽象的なものであったと知らされる。まったく、ありゃりゃりゃ……という感じの結末。悲劇的な破局であるにもかかわらず、全体に一貫していた作家のユーモアに頬をゆるめる。
表題作「黄色い矢」もまた、ペレーヴィンの言葉の操作に翻弄される作品。中篇で他の短篇より長い分だけ、具体性と抽象性の配分は巧妙である。
モスクワ-ペテルブルグを「赤い矢」という寝台列車が走り、西武鉄道の上にも「赤い矢」は走り、ロダーリの物語の中を「青い矢」が走るが、ここでの「黄色い矢」は列車なのか。列車のように疾走する私たちの生活が書かれた物語か、列車の中で繰り広げられる生活が書かれた物語か、最後まで判然としない。
ある部分では、やはり列車の中の出来事だと思わせ、ある部分では、やはり生活を列車に見立てて書いているだけだと思わせる。生活を後方に引かせて列車を前面に具体的に出したり、逆に、列車を後方に引かせて生活を前面に具体的に出したりする。
「黄色い矢」が、列車のように走る管理主義を示唆するなら、そこから降りることは死を意味するという設定は、なかなかに厳しい。古い赤い毛布でくるまれた死体が客車から放り出されるのが葬式である。副葬品は、しきたりに従い、枕とタオル。赤い毛布は、赤い国旗のイメージに自然と重なる。
もしかすると、ソ連の体制が暗示され批判的に書かれただけでなく、ハチントンの指摘するような「経済成長」と「民主政治」を目指して進むキリスト教伝統の西欧諸国の価値観の押しつけも、また全体主義も、車両として含まれているのかもしれない。
「黄色い矢」には主人公のアンドレイがあちこちで目にする陽光の意味も合わせられている。それは「意識やより良きものへの希望を持ち、その希望の根拠のなさについて理解していたということ」(P198)だとされる。
黒澤明監督「どてすかでん」の結末が、寄る辺ない世界からの出口となる道を示していない、人を脅すのは簡単だ……というラジオ解説が流れるくだりがある。「光陰」も想起させる黄色い矢に、ペレーヴィンが託したものもないわけではなかろう。
言葉という記号への意識の強さは、次の2ケ所にそっと書かれていた。
「僕は生きたまま、この列車を降りたい」というフレーズには意味があるのに、それを構成している一つ一つの単語が無意味であることを、僕は知っている。僕は自分自身が誰なのかさえ知らない。それでは、誰がここを抜けだすのか? そして、どこに向かって?(P226)
眠くなったアンドレイには、書かれていることがよく理解できなかった――言葉は別の言葉の上に重なり、目の前に複雑な幾何学的構成を作り出した。彼は本を閉じた。(P259)
彼の作り出す幾何学的構成は、他にも何冊か出されている邦訳本で楽しむことができる。幸いにして、私の乗る「黄色い矢」では、本を自由に読むことが許されているので……。