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絵本 日本の童話名作選(第二期 芥川 新美作品ほか) 13巻セット
- 税込価格:23,320円(212pt)
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紙の本
出来すぎたお話ではあるけれど、そもそも「よゐこのためのえほん」と思って読むのが間違い。
2003/11/13 14:43
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SHIN - この投稿者のレビュー一覧を見る
確かに、自分は悪者になってでも友のために何かしたい、そんな青おにの優しい気持ちや赤おにへの友情はあまりにも美談に過ぎる、これは「よゐこ製造絵本」と思っていた時期もあったが、私にとっては、初めて読んだ小さな頃からおおむねいつでもこのお話は輝きを失わなかった。大人になった今、それはますます増えている、そう思う。と言っても、小さい頃はなぜ青おにが姿を消さなければならなかったのかがまったく理解出来ず、この本を読むといつも彼のために憤っていたものだが…
心優しい青年が一人まじめに暮らしていた。周りの人たちと心から仲良くなりたいのだが、村人たちは彼を恐れて近寄らない。なんと言っても青年は「人間に悪さをするおに」なのだから。さまざまな心配りも善意もことごとく無駄になる悲しさや悔しさに肩をおとす赤おにを、ある日ひょっこり親友の青おにが訪ねてきた。彼の悩みに青おには「村の人たちの前で暴れているぼくを君がやっつければ、きっとみんなの考えも変わるよ」と、赤おにを‘悪者から人間を守ってくれる正義の味方’にする芝居を打つことを申し出る。果たしてそれは大成功を収め、赤おにはめでたく村人からの信頼と友愛を勝ち得ることが出来た。ようやく幸せな日々が訪れた赤おにだが、心に引っかかっていることがある。自分にこんなにまでしてくれた青おにくんはどうしているだろう…逃げる時に怪我してたなぁ、大丈夫かなぁ…青おにの消息が気になって彼を訪ねて行くのだが、青おにの家は固く扉を閉ざし、彼の姿はどこにも見えない。ふと見ると扉にはこんな手紙が貼り付けてあった。「ぼくが君と仲良くする姿をもし人間が見たら、君を疑う人が無いとも限りません。せっかく人間と仲良くなれたのに、それではまったくつまらない。だからぼくはしばらく遠い旅に出ることにするのです。でも君のことは決して忘れません」赤おには何度も何度も読んで、それからしくしくと涙を流して泣いた…
ぬくぬくとした優しい友情物語かと思えば、非常に厳しい結末である。この本は必ずしも美談ではない思う所以である。赤おにの平安を守ろうと思ったら、確かに青おには姿を消すしかない。それは真から相手を思うやさしさと、自分への厳しさがなければ出来ない決断だった。これはむしろ青おにの物語とも言えよう。
友情についてのちょっと出来過ぎた「良い」お話、よくある児童教化のための台本、こんな美しいことあるわけないだろ?そう思ってこの本を捉えるのじゃなく、これがもし自分にとって大切な人だったら—それは家族でも友達でも恋人でも—その人のためになら自分も青おにのようになれる、いや、そうせずにはいられないのではないか…? それがどんな代償を伴うとしても—そんな風に置き換えて読めば、この本はただのおとぎばなしではなくなるだろう。私は基本的には、児童書は「児童」書というだけではないと思う立場だ。自分の年齢、人生経験、ものの考え方…その時その時の自分に合った読み方をすればよいし、また、そうするべきだとも思う。アンデルセン童話にしても、あれは決して「童話」ではない。「童話」という衣を纏った人間の物語なのだ。もちろん、全ての児童書がそうだとは言わない。そういう風に児童書を読めと言うつもりも全く無い。しかし、大人にも通じる、いや、大人になったからこそ解る「なにか」が秘められている—そんな「児童書」があることもまた確かなのだ。
紙の本
あたたかい
2016/05/03 08:51
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yu_kotikita - この投稿者のレビュー一覧を見る
小学校の国語の教科書に載っていました。
もともと本は大好きで、この作品も一心に読んだことを覚えています。
そして、何度も涙しました。
切なさが心に沁みました。
小さい頃にこのような話を読んで、優しい子になってほしいと思います。
紙の本
日本語のリズムが心地よい
2016/02/18 14:37
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:crest - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作品をついつい手にとって読みたくなるのは日本語のリズムが完璧で計算されつくされており読んでいて実に心地よいからなのです。ストーリーもあかおにとあおおにの鬼ながら実に人間的な葛藤と互いを思いやる心境が見事に表現されておりぐっとくる作品です。
紙の本
二人の鬼と村人たち
2002/05/31 20:12
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
赤鬼と青鬼がうった芝居は人間の心理をよく描いていると思った。
村で暴れる青鬼を退治したという格好で赤鬼はようやく村の人たちから受け入れられる。しかし、その芝居がなかったら村の人たちは赤鬼を拒絶したままだったろう。
彼等は外見の怖さに気を取られて、心の優しい赤鬼の本質をみていなかったのだ。
そして赤鬼は受け入れられることになったが、今度は赤鬼と同じように心の優しい青鬼がその存在を否定されることになった。
いったん悪い印象をもたれるとそれはなかなか消えない。
だから青鬼は去っていったのだが、彼からの残された手紙を読んだ赤鬼はどうして泣いたのだろう。
自分の幸福の犠牲にさせてしまったこと、村人には分かってもらえない自分たち本当の心、そして何より大切な親友がいなくなってしまったことを嘆き涙したのだろう。
保育園のころ、この本を題材に劇をした覚えがある。
私は町の子供役で赤鬼と楽しそうに遊ぶ演技をした。
そのときは見えなかったこの本の真意が今現在の私に重くのしかかってくる。
紙の本
人間となかよくしたいという赤おにのため、やらせ芝居を打って犠牲になってくれた青おに。美談の少ない世の中なら、お話に走るしきゃない。
2001/06/22 12:35
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本の児童文学の歴史のなかで、坪田譲治、小川未明とともに幼年文学の祖として大いなる存在の浜田廣介。
悪者が出てこない。魔がさすことはあってもみんな基本的にはいい人なんだという考えにのっとったお話づくりに特徴がある。
私が小学生として過ごした昭和40年代には、きれいなパステルカラーの函に入った全集などもあり、すごくよく読まれていたと記憶するが、今はほとんど読まれなくなった。
ひとつには、今ではマスメディアで流してはいけないと言われているご法度の差別用語がびしばし使われているせいかと思う。
付け加えるならば、あまりの美談がちょっと現実から浮いたような感じがあって、いかにも古き善き童話というイメージが時代にそぐわなくなってきたためだと思う。
廣介の童話は、お話として完成されてしまっている感じがして、正直、絵本という形をとるのはきついという気がする。
完成されてしまっているから、本来の絵本があるべき姿、つまり文章と絵がお互いに支え合い、新しい世界を切り拓いていくという相互作用が働きにくいという気がするのだ。
絵がお話を追う、お話を単に絵で説明する、さし絵というところに留まるというイメージ。
亡くなった作家に対して画家は「ここんところ、絵で描くから言葉はけずってよ」ともちかけることができない。そこがつらいところ。だから、絵本としての完成度ということになると、どうしても評価が低くなってしまう。
童話のスタイルでさし絵を入れるのがいいように思う。鬼たちや山里、小動物を親しみやすく悠々と描く梶山画伯のひょうひょうとした独特のタッチが、楽しい絵を見ることの喜びとして生きているのがせめてもの救いである。
さて、お話。
心やさしい赤おにが、人間となかよくなりたいと思って家の前に看板を立てる。お茶やお菓子をふるまうので、どなたでも寄ってくださいという内容である。
でも、人間たちは警戒して訪ねてこようとはしない。それどころか、とって食われるのではないかと声をかけられると逃げていく。がっかりした赤おには、看板をこわしてしまう。
それを見ていた親切な青おにが一計を案じる。自分が山里を荒らすから止めに来いというのである。ふたりの芝居は成功して、赤おには人間たちと親しくなり楽しい思いをする。
しかし、訪ねてこなくなった青おにのことが心配になる。どうしたのだろうと思って青おにの家を訪ねていってみると張り紙がしてあって…。
今にしてみれば「作りごと」の童話という感じがしないでもない。しかし、幼い私はこのお話を読んでぼろぼろ泣き、芝居を見てぼろぼろ泣いたものだ。
美談がなくなったのは、私のなかでのことなのだろうか。
紙の本
いじめの構造、傲慢な人間
2002/10/31 00:50
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あばたえくぼ - この投稿者のレビュー一覧を見る
酷い話である、見た目で判断する人間になぜ赤鬼はへこへこしなければいけないのか?
彼には素晴らしい青オニと言う親友が居る、なのに傲慢な人間のために青オニを失わなければならなかった。青オニは逃げなければならなかったなぜなら人間が次に言うことは「あいつじゃまだからさ、やっちゃてよ」。赤鬼はこれを断れない、なぜなら断ればまた迫害されるからだ、結局赤鬼は人間の仲間で居るためには人間の頼みを聞き続けなければならないのだ。これは現代の虐めの構図の一つに見事に当てはまる。
私の経験則がある。ある時私は虐められていたらしい、気付いてなかったがクラスでまともに話すのはある一人の奴だけだった。仮にKと呼ぶ。私と其奴は親友でもなく、そいつは虐められていることに気付いていたので同じ立場の私にすり寄ってきたって感じだった。あるとき私にクラスの奴が「Kむかつくよな〜」と言ってきた、どうでも良かった私は「別に」と答えた。彼は去っていた。次の日Kが私に嫌みを言って軽く殴ってきた、特に興味もなかったので適当に殴った手を掴んで(私は体格が大きかったのだ)そのまま別れた。それ以後彼はクラスメイトとよく話し私の事を無視するようになった。その後クラス替えの後、前同じクラスだった奴が「Kの奴、お前のことむかつくって言ったんぜ」と言ってきた。つまりKは私を売ったらしい、でも別にどうでもよかったので「そ」とだけ答えた、彼等は私を虐めるのに飽き、今度はKを目標としたらしい。これは赤鬼の話とそっくり当てはまる、というより赤鬼の今後の運命である。多人数だからって傲慢な人間に頭を下げ無ければならないなんておかしい。赤鬼に人間は必要ないはずだ。彼は鬼なのだし、むしろ人間の方から来るべきなのだ。この本は虐めの縮図を描いている。