紙の本
地球が罰せられる
2022/08/15 12:16
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
複眼人というタイトルと、台湾の作家というワードにひかれ、読み始めた。近未来の台湾と、架空の神話的な島を舞台に、複数の主人公の眼で、現実世界を描いている物語だ。環境破壊、海洋ごみと地球温暖化による海面上昇、それらが地球を覆うというのに、社会は大きくは変わらず、暮らす人々は危機を危機と捉えないかのようだ。神は、ただ傍でたたずむだけで、救いの手は差し伸べない。それが、複眼人という地球の神であろう。人類はどうなるんだ?と、つぶやく。
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この小説をどのように評すればよいのだろう。
どこまでかは小説内の現実で、どこかは小説内の神話や童話で、どこかはたぶん小説内の登場人物の空想であったりする。
海や森、環境問題に台湾の先住民、息子を亡くした1人の母だったり、そしてワヨワヨ人に複眼人。
それぞれの領域に属する事柄が、押し寄せるゴミの渦のごとく、境界を越え出会い、時に混ざり合う。
そうやって混ざり合ったものの深みから、浮かび上がることで救われる何かがきっとある。
個人個人の苦難を克服するために、少しずつ記憶は形を変えていく。物語られていく。
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ゴミでできた島が存在することを知らなかった。日々生み出す廃棄物に少しでも目を向けてみれば、それらの行き着くひとつの帰結が「海に浮かぶゴミの島」だと判るのは簡単だろうに、想像したことがなかった。怠慢だと思う。きっとこうした怠慢が無数にあり、その危うい土台の上に自分の生活が乗っかっている。小説は娯楽だが、読者の知らない世界を教えてくれるという素晴らしい効用がある。本作は私の想像力の欠如を教えてくれた。台湾という美しい島のことも教えてくれる。抹香鯨が死んでゆく場面が、複眼人の流す涙が、とても悲しかった。
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幻想小説という説明だったのでそのつもりで読み始めたのだが、読み進めるうちに事実に基づいた部分も多いことが分かってきた。
いちばん幻想っぽい要素である「ゴミの島」は実在しており、過去には国連認定を受けるためのキャンペーンなども行われていたようだ。
地図でその位置を見てみると(作中では台湾だったが)位置関係からして日本の海岸に激突する日も近いのではないか、と感じた。
雨で海岸線が削られる描写なども、ここ数年の猛烈な雨に悩まされている沿岸に住む日本人なら想像しやすいと思う。どういう結末になるのか気になって時間を忘れて読んでしまった。
また、あとがきでも触れられているが、先住民族の文化について丁寧にリサーチ・翻訳されているように感じられた点もよかった。台湾の国内でどのような反響があったのか調べてみたくなる作品です。
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『歩道橋の魔術師』『自転車泥棒』がとてもよかった呉明益。でもこちらはノスタルジー風味は薄く、伝説やファンタジーという感じが強い。
悲しい人ばかりだなあ。愛と喪失、生と死。つらいなあ。
「激しい雨」がでてきたか。
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太平洋の渦で集まってきたゴミが島となり、台湾の海岸に激突するところが怖かった。でもそこから、海沿いでで生きる人々の魂の救済が始まるのがとても良い!
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海の上をぷかぷか浮きながら漂う島といえば、我々の世代は『ひょっこりひょうたん島』を思い出すが、時代が変われば、物事は変わるものだ。近頃では廃プラスチックが寄り集まってできたゴミが島となって漂う。「二〇〇六年ごろネットで、太平洋にゆっくりと漂流する巨大なゴミの渦が現れ、科学者にも解決の手立てがないという英文記事を読」んだのが、作家にこの小説を構想させたようだ。
複数の人物が登場し、それぞれの人生の物語を紡いでいるが、一人選ぶとするなら、台湾生まれの作家志望の女性アリスになるだろう。文学博士号を取得し、ひとり出かけたヨーロッパ旅行で、デンマーク人の探検家トムと出会い、トムはアリスを追って台湾にやってくる。二人は結婚し、ストックホルム市立図書館を建てた建築家アスプルンドの「夏の家」に想を得た「海辺の家」を海岸沿いに建てて暮らし始めたころ、思いがけずトトを授かる。
問題は、探検家というものはひとつところにじっとしてはいられないということだ。台湾のめぼしい山を登り終えると、トムはさらなる冒険を目指し、家に居つかなくなる。二人の間に距離が生まれ始める。そんなある日、山に出かけたまま、父と息子は二度と戻らなかった。トムの遺体は捜索隊のダフに発見されるが、トトは今に至るも見つかっていない。愛する者の喪失から立ち直れないアリスはすべてを放り出し、自殺を考えている。それが物語の発端である。
もう一人の主人公ともいえるアトレは、ワヨワヨ島という、南太平洋の小島に生まれた若者。水や土地、樹々といった資源に乏しい島では、島に残れるのは長男だけで、二番目に生まれた子は、時が来ると自作の船に乗り、食料と水が尽きればそこで終わり、という死出の旅に出る。ところが、気力、体力に恵まれたアトレは死を免れ、大海に漂うゴミの島に漂着してしまう。溜まり水を飲み、廃棄物から銛や釣り針を作り、生き物を捕えて生き続けた。
そんなとき、台湾を地震が襲う。「海辺の家」にいたアリスは、波間に浮かぶ板切れに乗った仔猫を助け上げる。皮肉なことに、自殺を考えていたアリスは、仔猫の命を助けたことがきっかけとなり、絡めとられていた死の罠から逃れることになる。近くでバーを営むハファイは、そうしたアリスの変貌に気づく。自ら好んで周囲から孤立した暮らしを続けるアリスだったが、その周りには、ハファイやダフといった、アリスを気遣う仲間がいた。
台湾に限らず、気候変動は世界的な問題になってきている。物語のヤマ場で、地震が台湾を襲う。その力がゴミの島を台湾に衝突させる。科学的に見れば、地震ということになるが、無文字文化の中で育ち、大古から伝わる神話と昔話の中で育ってきた若者にとっては、何か大きな力によって、知らない世界に放り出されたようなものだ。その中でアリスとアトレが運命的に出会う。言葉の通じない二人だったが、通じるものはあり、アリスは傷ついたアトレを看取る。
何か大きなものから死を拒まれた二人の新しい生が始まる。作家を目指すアリスは、世界を言葉や文字で理解しようとして生きてきた。アトレはちがう。彼にとっては目で見て、手で触れるものが世界であり、それは今、ここだけでなく大古から続く神が創り出した世界である。彼の知る唯一の世界であるワヨワヨ島は、他を顧みない人間の営為が神の怒りを呼び、罰として、限られた資源の中で限られた者しか生きられない世界であった。
生まれた世界が異なる二人が共に生きることで、少しずつ互いの世界を理解し合い、言葉を共有しあうようになる。アリスは、喪失の痛みに絡み取られていたそれまでの自分の生を見直すことができるようになる。そして、アトレを道案内にして、トトが遭難した登山ルートを自分の足で確かめるため、あれほど嫌いだった山に登ろうとする。物語とは言わば、何かをきっかけにした主人公の変容を語るものである。
これは煎じ詰めれば、最愛の者を失い、自らを失いかけていた主人公が、「まれびと」によって新しい生を得る物語だ。そして、再び動き始めたアリスを通して、読者はトムとトトの死の真相を知る。それは、小さな人間の生死を越えた、もっと大きく根源的な世界との出会いを教えてくれる。語られることは多く、その世界の射程は地球規模に大きい。捕鯨やアザラシ猟の持つ問題、地球環境の保全、といった数多の問題が複数の登場人物によって背負われて、物語の中で犇めき合う。
比較的、親日的な台湾だが、日本人にとって台湾の問題は他人事として眺めていられるものではない。本作の中で、重要な脇役を務めるハファイは阿美(アミ)族、トムの捜索活動を担うダフは布農(ブヌン)族という先住民。日本や漢人の支配によって苦杯を嘗めさせられてきた人々である。ハファイは人を癒し、ダフは山を知る。彼らには民族に伝わる、生きる力や知恵が備わっており、島を傷つける力に抗し、傷をいやすものとなっているようだ。
『歩道橋の魔術師』、『自転車泥棒』の作者、呉明益による、近未来を描くSF、ファンタジーとも読める、ストーリー・テラーの才を遺憾なく発揮した長篇小説である。多くを詰め込み過ぎているような気もするが、連続短篇小説のつもりで読めば、複数の人物が織りなす多彩な物語の饗宴を愉しむこともできる。日本語の朝の挨拶である「オハヨ」と名づけられた仔猫が、大きな美しい雌猫に育ったところで、物語は幕を閉じる。「激しい雨が今にもやって来る」とハファイの歌う、ディランの『Hard Rain』が時代を越えて、胸に迫る。
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台湾の歴史とか知っていると尚更興味深い一冊。
村上春樹が好きな人なら、ちょっといい感じの印象を持つかも。
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#英語 The Man with the Compound Eyes by Wu Ming-Yi
実在する太平洋に浮かぶゴミの島から生まれた物語
ですが、読後に思い浮かぶ景色は、灰色の空と海が広がる妙に湿度の高い世界
翻訳も読みやすかった
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これをSFのジャンルの作品とするなら、昨今、大陸側で話題の『三体』が思い浮かぶ。
一方、こちら台湾の作家呉明益によるお話。同じ漢字を使う文化圏 ― 実に雑な括りだけど ― の作品として較べるなら、明らかに本作のほうが好みだ。
冒頭、“日本の読者へ”というサービス的なパートが追加されている。その中で、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースの言葉と、「物哀しい」という日本独特の言い回しを引き合いに、日本語の美学的な表現と、音や情景の描写の豊かさを讃えている。そして自身について、
「私は情景や五感で感じた気持ちの描写に時間をかける物書きだ」
と語る。言葉の意味の区別に音の高低を用いる声調言語を操る中国語圏(これも雑に広い意味で)の作家が、声調言語でないが「声調文明である日本語」(byクロード・レヴィ=ストロース)に翻訳され謝意を表してくれているだけでも親近感が湧くというもの。
お話は、神話の島から追放された少年アトレにまつわるプリミティブな寓話的なストーリーと、海洋に浮かぶ巨大なゴミの島という現代の環境問題に否応なしに思い至る仕掛けに、海と山、地震と津波といった自然現象に翻弄される大学教授の女性や台湾先住民の姿を、個々に丁寧に紡ぎ、大きなスケールで人間の運命が描かれている。
きっちり分かりやすく起承転結があったり、原因と結果、伏線とその回収といった展開は見られないが、多くの登場人物が、同じ時間帯をそれぞれの場所で過ごす人生が、それぞれが背負った過去と共に綴られる筆致が、実に多元的なのであった。
神話、ファンタジー、自然科学と、いくつかの要素が盛り込まれた欲張りな背景からは、ジブリ作品や、映画、幻想的な設えが村上春樹をも彷彿させる。映画は、特に、エイリアンと意思疎通を図ろうとする言語学者の奮闘を描いた『メッセージ』(ドゥニ・ビルヌーブ監督 2017US)を思い出させるのは、神話の島のからやってきたアトレと大学教授アリスが交流を図ろうとする話が、ひとつの軸として語られるからだろうか。
最後に、Bob Dylanの”A Hard Rain’s A-Gonna Fall”が引用される。
先日読んだ、オードリー・タンの自伝エッセイでも、最後にカナダのシンガーソングライター レナード・コーエンの「すべのてものにはヒビがある。そして、そこから光が差し込む」と言う詩の一部を引用し、ヒビ=不備、歪みの中から見出せる希望に言及していた。
台湾では、こうした歌詞の引用で、話の印象を深める手法が一般的なのか、あるいは流行りなのか。
“激しい雨が今にもやってくる”と、半世紀以上も前のクラシカルな曲の歌詞に、近未来の予言が含まれていたかのような思わせぶりも悪くはなかった。
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複眼人、読了。近未来SFでもありながら、古代詩のようでもあり、少数民族の生活の描写に引き込まれる。不条理な悲しみと死に満ちた物語でありながら
奇妙な希望を覗かせる。
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海と、山と、時々ネコチャンと。遠くない未来の台湾を舞台とした喪失の物語。大学教授で物書き志望のアリスを主人公に、アトレやトム、ダフやハファイ、さらにデトレフとサラなど、たくさんの人々が渦を巻き、現実と空想との境界を越えて物語がパッチワークの様に紡がれる。海と共に生きるワヨワヨのアトレ、山に魅せられ山消えたトム。アリスはそれぞれと繋がりを持ち、そしてまた失っていく。トトも果たして…。俯瞰的な場所から複眼人の見るこの世界はどう映っているのだろうか。静かな雨の日に読みたい一冊。
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2021/6/4 読み終わった
地元の本屋さんで一目惚れして購入。一昨年から自分の中で続いている中華SFの延長として(これはSFではないと思うけど)。台湾の作品を初めて読んだ。
台湾には一度だけ旅行で台北市に行ったことあるけど、本作の舞台は台北ではなく台湾東部の田舎で、日本で言ったら和歌山とか四国の太平洋側ってところだろうか?読んだイメージだけど。
複眼人っていうタイトルだったから、複眼の宇宙人か何かが地球に現れて、人間と交流か何かをする話だと思っていた。全然違った。中華SF読みすぎかしら。
元大学教員の文学者兼作家の女性と、南の島から漂着した男の子が中心ではあるんだけど、それ以外にも何人かの登場人物がいて、それぞれに過去を抱えている。地域の都市化とともに生活スタイルを変えて生きてきた台湾の先住民族の男。同じく先住民族で、食事処を営んでいる女性。デンマークから台湾に移り住んだ冒険家気質の男。かつてインフラ整備のために当地を訪れたことのあるトンネル掘削の専門家。海洋環境活動家のノルウェー人女性。
物語全体に漂う無常観とか、生まれた土地や自然が移り変わっていく悲しさに乗せて、ちょっとおとぎ話みたいな、どこに向かうのかわからない文章に浸かることができる作品だと思う。
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10年前に書かれた世界がだんだん近づいてくるような、そんな近未来。にぷっかり浮かぶ小さな島ワヨワヨ島。島の神話の掟、次男は旅に出るに従ってアトレは海へ。台湾では夫と息子を探すアリスがゴミの島、渦の到来と破壊の中で、二人の世界が交差する。
環境破壊、アザラシや鯨の乱獲などの問題の他先住民の魂の拠り所、言い換えれば神の存在に触れ、そして衝撃的に感じたのは、神などいないということ。複眼人として現れる存在のあるがままの姿に、そういうものかとふに落ちた。
物語として面白く、またいろいろ考えさせられた。また表紙の絵が素晴らしい。
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『人生というものは、自分の考えを挟むことは許されず、ほとんどは否応なしに受け入れるしかない。オーナーの独断で料理が決まるレストランで食事をするようなものなのだ』
「歩道橋の魔術師」や「自転車泥棒」の郷愁漂う趣とはかなり異なる味わいの物語に少し驚く。現実に仮想を投映した文明批評という印象に先ず染まる。少し警戒しながら読み進めると、じわじわと印象は変化する。もちろん、読み手によってはこの本を環境問題に意識の高い著者の人類に対する警句と捉えてしまうことも出来るのかも知れない。だが、架空の島に暮らすワヨワヨの人々の自然と対話するように生きる暮らしと都市化による数多の歪を抱えて台湾に生きる人々の暮らしぶりの対比に、正反対の生き方をしているようでいて本質的には命が命を生贄にしてしか永らえることができないという点において変わりはない、という託(ことづ)けを読み取る。その生き永らえる術に対する単純な正誤の判定を呉明益は下している訳ではないように思う。
例えば最近流行の持続可能な開発目標というやんわりとした標語の究極的に意味するものと、月齢百八十か月を越えた次男は島を離れなければならないとする具体的な孤島の定めは、思想としては同根のものである。一つずつの決まりごとに対して様々な視点があること、そのことを何よりも呉明益は丁寧に描いているように思う。例えば、先住民族の習慣に対する距離感。捕鯨やアザラシ漁に対する考え方。多くの登場人物が語る幾つもの話はどれも慣習のもたらす功利とその弊害という究極の選択の狭間で揺れる価値観を示すもの。決してそれは単純に土木工事がもたらす自然破壊を凶弾するような物語でもなく、自然回帰奨励の話でもない。
複眼人もまた架空の存在ではあるが、そのような多義的な意味を見つめる神の視点を持つ存在として描かれるのは象徴的だ。『傍観するだけで介入できない、それが私が存在する唯一の理由である』と死にゆく登場人物の一人に告げる複眼人は、必然的に一神教の神の存在を思わせる。自然の中に数多の超越的な力の存在を認める架空の島の信仰や台湾の伝統的なアニミズム的民族神話も描きながら、この架空の存在を作家が登場させる必要があったのは、自らの生に執着せざるを得ない人間に他者の存在を認めさせることが出来るのは、ひょっとすると自然信仰に根差した多神教の神々のような存在ではなく、一神教の神だけなのかも知れないと作家が捉えているからなのかと、ぼんやり考えたりもする。アルファであり同時にオメガである存在とは、全ての集合を含む集合のように矛盾した存在ではあるけれど、その不合理性を受け入れることこそ他者を認めるということの端緒なのかも知れない。
一方、多くの主人公たちのエピソードが輻輳的に語られながら物語が進行する本書には、幾つもの謎解き的な要素が含まれてもいる。その謎の一つが解ける時、読者は存在するということの意味を自身に引き寄せて今一度深く考え直すに違いない。ある意味、この一つの謎解きは(決して完全に解き明かされたとは言えないけれど)本書の後に執筆された「歩道橋の魔術師」や「自転車泥棒」に続くやや幻想的な郷愁の色濃く漂う物語と同じ趣向のエピソー��だ。その根底にあるのは喪失ということへの強い抵抗であるようにも思う。思わず、「歩道橋の魔術師」の中の中華商場をジオラマで再現し続ける男のエピソードを思い出した。