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必ず訪れる死を受け入れる準備
2015/09/30 13:32
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投稿者:自分の屍骸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
死とは何か、自分はなぜ生まれてきて、そしてなぜ死ななければいけないのか、あるいは身近な人の死をどう受け止めるのか、死はありふれていて誰にでも訪れるのに、なぜ自分の死は特別に感じるのか、そんなことで思い悩む心を少しだけ解きほぐしてくれる一冊だと思います。
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<私はおそらく、「死ぬのが怖」かった、のではなく、「存在するということが怖」かったのだ(そしてまた、自分はこの本の想定読者からは著しく外れていた)>
失敗読書である。
何に失敗したか、といえば、この本を選んだということに失敗したのであろう、おそらく。
基本、自分の感じたことの覚え書きに書いている面があるので、以下、あまりこの本に興味がある方の参考にはならないような気がする。その点、お断りしておく。
鮮烈な、しかしどこかで真剣に向き合わないようにしている思い出がある。非常に怖かったのである。今でも本当に思い出すと、おそらく怖さで身がすくむはずである。だから強いて客観的に書く。
多分、小学校高学年の頃だ。法事だったのか旅行だったのか、親戚の家で、どうしてか一人でいるときに、ふと、思い至ってしまったのだ。
自分がここにいる。そして自分の意識はいつか間違いなく消える。
そう思ったら、世界がぎゅんぎゅんと周りに凝集してくるような、「ああ、これは本当のことだ。恐ろしいけれどその通りなのだ」と絶望にも近い思いを抱いた。そして鏡を見に行ったことを覚えている。その中にも強ばった顔をした子供がいた。いたたまれないほど怖かった。
新聞広告でこの本を見かけて、「もしかしてあのときの恐怖が和らぐのか・・・?」と思ったのだ。
本書は「死」についての恐怖を和らげることを目的に書かれている。
合う人には合うタイプの本なのだと思う。
少々自己啓発的な匂いがする、全般として前向きな本である。ところどころに興味深い事実はあるし、クオリア云々みたいな話が好きな人には楽しく読める本なのだろう。
若い人にはあるいは救いの1冊になることもあるのかもしれない。
しかし、個人的に言わせてもらえば、この本のとっている手法は、全体としてそのことに正面から向き合っていくよりは「目を背けている」ように見える。がっぷり四つに組むよりは別の考え方をしようぜ、と言っているように感じられる。恐怖に身をすくませているよりは、何らかのよりどころを持って進んでいく方がよいだろうし、自分だって怖いものに蓋をして日々歩いているわけだ。そのこと自体に文句があるわけではないが、「あ、これはあの問題の解決ではなかったか」と思ったのは事実である。
多分、自分は「死」が怖いというよりも「存在」が怖かったのだと思う。
「虚無」から「存在」し、そしてまた「虚無」に戻る、ということが。
さて、その恐怖にこの先本当に取り組むことがあるのかどうかはよくわからないのだが。
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題名の軽さに比して、重たい一冊。
「お前はすでに死んでいる」「生きることは死刑と同じだ」「過去は記憶に過ぎず、未来は予測にすぎない」等をあらゆる分野の学問から論証していく、幸福学の書でもあった。
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死ぬのは怖くない。生は幻想。あなたのいないところに、あなたのための時空の概念はない。
あなたには今しかないのだ。
スティーブジョブズは「今日が人生最後の日だと仮定したときに、やるべきだと思うことを実行せよ」
瀬戸内寂聴「情熱を燃やして激しく生きなさい」
ただただ今日を生きるしかないのだ。
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一番印象に残ったのは、進化生物学から見た死の定義「死ぬことは進化のための必然である」、つまり、進化は「子孫を残すとともに自分は死ぬ」という基本原則があって可能となる。
人類もその原則に従って進化して、今があるわけである。しかし人類は進化のおまけとして、過去と未来について考える力を持ったために死ぬことを恐れるようになってしまった。
死というのはしごく「あたりまえ」のことであり、自然なこと。
そう分かっていても、死を三人称で捉えるのと、自分のこと=一人称で捉えるのには大きな違いがある。一人称で捉えた場合の「死ぬのが怖い」という恐怖を乗り越えるためにはどうしたらよいかということで、様々な分野(認知科学から哲学、幸福学、宗教学まで)からアプローチしていくのだが、最後は「やっぱりここ(東洋思想)に落ち着くのかな」という印象。
ヨガ(インド哲学や仏教哲学などの東洋思想)を多少は勉強してきたので、「“今”しかない」という思想の方向性はよく理解できる。が、まだまだ「死ぬのが怖い」は乗り越えられそうにない…。
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学術的に屁理屈を述べている感じ。
それがたまらなく面白い。
「俺太ってるけど小錦よりはましだから大丈夫」
的な。
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「死ぬことは怖くない」ということを様々な視点から説く論評。
読者として共感できる説明が続くのであるが、さて、日常生活に戻っての感情となると、永年染みついた考え方は簡単に変わるものではなく、この本を持ち歩いて、考えを巡らせる際に読み返さないと、死ぬことは怖いままなのではないかと思う。
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自分と同じようなことを考えている人は大勢いるんだなと思い、非常に興味深く読み出したが、いかんせん、内容がつまらない。表面的で、深く考えていない。
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要は気の持ち様ってこと?
過去も未来も無い(考えるな)。今を生きろ(考えろ)。
「脳はすすんでだまされたがる」「超常現象の科学」「人はなぜだまされるのか」参照
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読み初めは理屈っぽくて面倒な著者だと思った。
でも途中から宗教には否定的だと言いながら、述べられてる内容が初期仏教の釈尊の教えや禅宗の教えのように感じられてきた。
釈尊や禅宗の教えで現代の感覚からブッ飛んでいてしっくりこなかった所をこの本で埋められたような気がする。禅宗のお坊さんで量子力学と絡めて説明する人はいたけど、僕にはこの本の説明の方が理解し易かった。
最終章ではちゃんと初期仏教、禅宗にも言及されて、自分の感じていたことが著者が述べている内容と大きくは解離してなかったようでホッとした。
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なぜ人間は死を恐れるのか?恐れる理由は何なのか?恐れないためにはどうすればいいのか?それらの問いに、学術的に、個人的体験をもとに迫っている本。
なかなか納得する内容でした。昔から思っていたこと、最近になって感じたこと、それらを後押しされたというか、あぁ同じ考えの人がいたんだな、という肯定感です。
こころは脳の産物であり、我々の行動はDNAに刻まれた行動原理から導かれるもの。死んだら何も残らない。それでいい。何だか気が楽になりました。
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死ぬのが怖いというのは、自分にとっても人生の中での一大テーマなので、本書はとても期待をもって読み進めた。しかし、読み終わって、「これじゃない」感がすごかった。
本書の大きな主張は、脳科学的にクオリア(心)は幻想であり、「お前はすでに死んでいる」のと同じだから、死ぬのは怖くないというものだが、たとえクオリアが脳の無意識の計算の結果の幻想だとしても、現にクオリアを実感している以上、それを失いたくない気持ちに変わりはないのだ。なぜ、幻想だったら死が怖くなくなるのか理解に苦しむ。生きているのも、死んでいるのも同じようなものだと言われても、納得できるわけがない。
他にも、死が怖くなくなるルートがいろいろ提案されているが、どれもピンとくるものはなかった。やっぱり死ぬのは怖いのだ。理屈で納得できるものではないのだ。
そもそも、著者の論法は、死後の世界がないことの理由として、死後の世界についての学会がないから、とか統計学的、あるいは進化論的に説明できない(死後の世界があっても生存上有利にならない)から、など乱暴な説明が多く、全体的に納得感が少なかった。
ただ、死ぬのが怖いという本来のテーマの解決にはつながらなかったが、クオリアが幻想であるといった脳科学的なトピックなどいろいろ新たな知見を得ることができたことは有意義だったと思う。
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主に科学的な立場で死を捉えて説明し、なぜ怖くないかを7つの方法で示している。
著者の幅広い知識には感服するが、幅広すぎてついていけない部分も多々あった。
しかし、何となく感じていたことが言葉で説明されていたので、大部分はスッと納得できた。が、生理的に受け付けない方も多いと思う。それくらい人生そのものを変えてしまう可能性があるのだろう。
最後の方に述べられている仏陀についての考察は慧眼だと思う。仏教は宗教ではなく哲学だったという説。
巻末に述べられているが、主観と客観が意図して織り交ぜられている。そこがとても読みにくく、利点もあると思うけど難点だと感じた。
全ての方にオススメです。
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「脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? 」で受動意識仮説を主張する前野先生の本。前野先生の本は平易な語り口ながらも切れ味鋭くおもしろいです。
本書では「脳の中の「私」はなぜ見つからないのか? 」といった本と同じく、自分や心などもともとないのだから死は怖くない、といったことが主張されています。「本当は、心などないのだ。あるように感じているだけなのだ。だから、これが失われたって、何も減らない。もともと何もないのだから。」といった主張は本当に禅のお坊さんのようですね。一休さんの道歌を思い出しました。
我ありと思う心を捨てよただ身の浮き雲の風にまかせて(一休骸骨より)
はじめなく終わりもなきにわが心生まれ死すると思うべからず(一休骸骨より)
最近の流行のアドヴァイタのグルたちがいっていることとも似ています。これが真実なのでしょう。
また、同じ論調で、自由意志も幻想だ、と主張します。我々は結果を見ているだけで、意思決定は既に意識下で行われているのだと。
これ、よくいろんなところで聞く主張であり、恐らく真実なのだと思いますが、どうも日常の感覚からすると違和感があります。意思決定において意識は大して役割を果たしていないとすると、我々が普段意思決定に悪戦苦闘している感覚は何なのだろう?会社に行くと朝から晩まで意思決定に終われ、pros/consなどを整理して汗かいて意思決定する。どうもこうした作業は意識して行っているとしか思えない。もっと単純な、何を食べよう、とか、寝よう、といった意思決定は確かに無意識のうちに決定されているような木はするが、こうしたもっと高度な意思決定は意思決定に至るプロセスが明瞭に意識されて、しかも人に説明できるほど(というか、説明できなければいけない)決定に至るまでのロジックが明確にされていないといけない。これが無意識なのだろうか?であれば、なんとなくボーっとしていても仕事が進むような気がしてしまうのだが...。このあたりがどうも腑に落ちないのです。
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教団Xを読んで以降、ずっとついて回っているどうして自分は死ぬのに今だけ生きているのか、意識があるのか、死んだらどうなるのか。その不安と恐怖と心細さに、思わず図書館で手にとった本。死ぬのが怖くてたまらなかった著者がどのようにそれを「いやだけど仕方ないこと」と受容できるようになったのか、相当期待して読んでみた。
結果、これじゃない感がハンパない。
死んだら自分じゃ分からないから死ぬのはこわくない。宇宙に比べれば人間の大きさなんか、宇宙が誕生してからの時間に比べれば人生なんか無視できるくらいにちっぽけだからなくなっても平気。人が意識を持って生き生きとした感情を持っているのは幻想に過ぎない、砂漠の逃げ水と同じで本当は存在しないものなんだからなくなっても平気って・・・。
そんな話が聞きたかったわけじゃないとひどく落胆して怒りを覚えるほどだった。
ホラー映画を見た子供が大人にこわいと訴えて「これは作り話だから」といなされたような、いやもっとピントのずれた話を聞かされたようで最後の方は斜め読みで済ませてしまった。
著者がなんと言おうと、こわいものはこわい。
やはり、簡単には乗り越えられない問題なのだなと痛感した。
古来から哲学者を含む多くの人々が同じように恐れ、悩み、考えに考えを重ねて来たのだなぁと慰められたことは収穫だった。