紙の本
知能と美貌に恵まれながら精神的ジレンマを抱えるフラニーと、そこから解放してやろうと試みるズーイ
2016/08/11 03:04
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投稿者:ピザとビール - この投稿者のレビュー一覧を見る
知的水準が高くかつ精神的に早熟であるがゆえに、世間が間違っているんだと叫びながら、人とうまくコミュニケーションが取れなくなっているフラニーと、彼女を、その精神態度の危険性から(母から言われてしぶしぶながらも)解放しようと試みる兄ズーイ。母、兄、妹の三者の会話を軸に、七人兄弟の上の兄たちによって知らず知らずのうちに埋め込まれた精神態度の特異性とそこに至った経緯を、飛び石のように断片として提示してゆき、読者を物語に引き込んでいく。
頭脳明晰で美貌に恵まれたフラニーがかかえる大きなジレンマと、その解決策として「世間の人びとに正しさを求める」のではなく、「豊かな現実」をありのままに受け止めてその中でいかに生くべきかを追求すべきなのだ、という宗教的なテーマを、サリンジャーは兄ズーイのセリフを通して読者に投げかける。
読んでいて、ヒンドゥー教の寺院に掲げられている「栄光の顔」の話を思い出した。世界をなぎ倒して来た悪魔が最高神シヴァに無理難題を押し付けてきたときに、シヴァ神は第三の目を光らせて新たな悪魔を呼び出した。その新たな悪魔に食い殺されそうになった最初の悪魔は、シヴァ神に「慈悲」を乞い、守ってもらった。呼び出された新たな悪魔が、「では私はどうしたらよいのだ」と訊ねると、シヴァは「おまえ自身を食えばいい」と答え、第二の悪魔は自分の足、手、胴体を食って顔だけになった、という話である。これが示唆することは、すべての社会は矛盾に満ち、不平等であり、また悪意や悲しみに満ちているということ。学ぶべきは、そうしたありのままの現実の中でいかに生くべきかということであり、社会を直そうとしたり、苦しみも悲しみもない世界を創り出したりことではない、と神話学者ジョーゼフ・キャンベルはいう。
なお、新潮社が開設した「フラニーとズーイ、特設コーナー」で訳者の村上春樹は、この物語はサリンジャーが宗教に傾倒していたときに書いたもの、と解説している。
紙の本
サリンジャーと村上春樹
2015/09/05 07:32
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投稿者:湯川 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この二人は本当に合う!
私はアメリカに住んでいたので、この本も原文で読んだのですが、サリンジャーの巧みな言葉遣いを日本語でこんなにうまく翻訳できるなんて…
話自体も、暗喩に富んでいてとても奥深い。
特にズーイの話す言葉は、その言葉以上の意味が含まれていて、それを読みとくのはとても面白いです。
文章がしき詰められているので、読むのは大変かもしれませんが、一度ざっと(多少の根性をもって)読了して、二周目で細かく吟味するという読み方をオススメします。
読むたびに新たな発見があって、読みごたえがありますよ!
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投稿者:デンパチ - この投稿者のレビュー一覧を見る
海外の小説はあまり読まないのですが、読んでみました。面白かったです。
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ほとんどが会話だけでできている小説
2022/03/27 16:38
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
全く面白くなかった。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」はとても良かったのだが。ほとんどが会話だけでできている小説だ。宗教臭いしだらだらと長い。訳者のエッセイが別冊で付いていたが、文体に結構工夫があるみたいだ。でも、日本語訳ではそれが伝わっていないのかもしれない。
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自分の価値に疑いをもたないレーンと、自分自身すら疑わしいフラニー。外の世界だけでなく、自分の気持ちや感じ方、全てが疑わしく不確か。欺瞞だらけの世界から抜け出したい自分もまた同じように欺瞞だらけ。フラニーの不安が凄く伝わってくる。
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議論が多くて内容がわからなかった印象。最初のフラニーの回は奢ってしまうことへの自戒が感じられた点で良かった。
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驚くほど、ほんとうに驚くほど、野崎訳を読んだときに感じたものと変わらなくて、とても衝撃をうけた。キャッチャー・イン・ザ・ライの時なんかは、まったく全然違ったものに思えたのに。『フラニー』の冒頭のシーン。駅でライリーがフラニーを見つける。混雑した駅のホームには大学生が沢山いて、その中でライリーとフラニーは再会を喜びあって、っていうまさにそのシーンを読んで、ああこれはまさしく私の愛するフラニーとゾーイーだと実感して、涙が零れました。村上春樹の新訳で私の大大大好きな物語が蘇るあまりの嬉しさに。多分ずっと読んでいくでしょう。ありがたい、本当に。
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ずっと前に読んだけど、村上春樹が新訳を出したからまた読み直した。
自分のことをどうしようもない人間だと思ったり、言葉が過ぎて自己嫌悪になったり、ぐちゃぐちゃになるところが人間らしい。
フラニーがレーンとデート中に何回か席を立って本を開いているところ印象に残っている。レーンが何回も「何を読んでるの」って聞いてるのになかなか答えないのもなんかわくわくした。
サリンジャーは解説とか書いたらだめな人らしくて、冊子でエッセイが入ってる。
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蛹の家には、インターホンなどという気の利いたものはない。鍵もかかっていない。葉月はいつも、彼の家の玄関のドアを三回ノックし、返事を待たずに勝手に入る。
「おはようございますー。……起きてます?」
蛹は、居間にもキッチンにもいなかった。ベッドルームにもいない。ただ、ベッドの上に村上春樹訳の「フラニーとズーイ」が投げ出してあったので、それを手に取り、浴室に足を向けた。
「……影響されやすいんですから」
蛹は、湯船に浸かったまま煙草を吸っていた。
湯気には、彼が吸っている細いメンソール煙草の匂いが混じっていた。灰皿の代わりに缶ビールの空き缶が置かれていたが、その周りに灰が散らばっていて、灰皿としての役割を正しく果たしているようには見えなかった。
蛹は何か考えごとをしているようだったが、葉月が戸口に立っていることに気づいて視線を向けた。
「いいアイディアだと思ったんだ。換気扇が回っているから煙は籠らないし、うっかり考え事に没頭しても、ここなら火事にはならないだろ」
それを聞きながら、葉月は靴下を脱ぎ、ユニクロのジーンズを膝下までたくしあげると、浴室に足を踏み入れた。
「どうして、急にサリンジャーなんて読んでたんですか?」
葉月は、寝室で見つけた本を掲げてみせた。
「本屋で見かけたから」
「はあ、そうですか……」
葉月はしゃがみこみ、値踏みするようにぱらぱらとページを捲った。
「こういうのって、蛹さんも考えたりしました?」
葉月は、本に目を落としたまま、問う。蛹は、質問の意図がわからなかったというように、わざとらしく首を傾げてみせた。
「ええと、それは、どういう意味で? ちなみに、風呂で煙草を吸うのは今やっているけど」
「ああ、まあ、楽しそうで何よりです……じゃなくて」
蛹は冗談だと言うように、わずかに笑った。
「周りがみんなバカに見えた時期があったかってこと?」
「そうそう。からかわないでくださいよ……」
「ありそうに見える?」
「うーん、なんていうか、あなたは色々なものに失望しているように見えるから」
蛹は、今度は声を出して笑った。そして、違う、というように、煙草を持った手を振ってみせた。
「フラニーも、ズーイも、腹を立てている。世の中の色々なものに。バカで愚かでみっともない、色々なものにね。期待しているんだよ、期待していなければ腹が立つこともない。もっと知的で、美しくて、よいものであるべきだってね。それが世界の正しいあり方で、現状が間違っていると感じる。フラニーやズーイが感じているのは、そういうことじゃないのかな」
葉月はしゃがみこみ、膝に両肘を置いて、頬杖をついた。
そして、よく分からないというように、わずかに首を傾げた。
「どうしようもなく凡庸で、醜くて、下らないとしても、結局はそれが、今ある姿だろ。それが理想と違っていても、理想に近づこうとした結果であることは間違いない。だからまあ、……諦めるしかないんじゃないのかな」
「あ、そういう風に着地するんですね」
「うん」
それから、蛹は、これが最後と���って、新しい煙草に火を点けた。
「……ところで、そろそろ逆上せてしまいそうだから、これが吸い終わる前に、少し外してくれないかな」
「え? 上がればいいんじゃないですか?」
「あ、うん、君がいいなら、そうさせてもらうけど……」
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フラニーの頑なな心が氷解していく過程は感動的だったが、そこに至るまでの前振りがちょっと長かった。兄妹の会話劇という点ではライ麦のコールフィールド兄妹に軍配が上がった。
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勢いがある。
自分にはできなかったけれど、ひと息に読むのがいちばんだと思う。
映画みたいに。
場面が頭の中に強烈な映像として残っている。
襟に残る色あせた口紅。
フラニーのスーツケース。
レストランのお手洗い。
バスルームの棚。
リビングから眺めたガラス越しの景色。
果たして以前読んだときにこんなにあざやかに残ったであろうか?
それとも以前読んだときの印象も昔観た映画のワンシーンと同じように忘れてしまったのであろうか?
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辛口評価ごめんあそべ。
うーん、新訳になじめない。
”ズーイ”もいやだ。
確かに音的にはズーイだけれども。
お母さんとの会話もいやだ。
お母さんの格好良さが生きてない。
ただ前の訳にとらわれているだけなのかもしれないけど、
もう私の血となり肉となった言葉を改変されるのは無理。
それと村上さん。
変な本読んでしまったせいで(『村上春樹いじり』)
村上さんに対するアレルギーをさらにこじらせてしまい、
彼がこの本を訳すこと自体がちょっと堪え難い。
ハルキストたちがこの本を読むと考えるのも辛い。
聖地に観光客がドカドカと踏み込んでくるような苛立ちを感じる。
どうして新訳なんかしたのかな。
活字と装丁変えるだけでよかったのに。
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中盤まではくど過ぎてイライラしたが、後半にはサリンジャーならではの優しさに満ちた展開になり、包み込まれるようにラストを迎えた。
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この小説の刊行は1961年。アメリカで大きな価値の転換が起り、政治的にも、文化的にもカウンターカルチャーが続出していた頃だ。本書の前半には特にこうしたことの反映が顕著である。大統領選挙、ライフ誌、その他諸々の「ノーマルなもの」(それを代表して体現するのがレーンだ)への反抗が語られる。物語の後半は、もっぱらズーイの議論が展開されるのだが、その到達点が精神的な達観にあるとすれば、ズーイの執拗さと我意の強さは、いささか辟易するところ。思想的には臨済禅の公案を思わせるが、行動からは、むしろチベット仏教に近そうだ。
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序編・フラニー、後編(本編?)・ズーイ。二本立て。
野崎訳は読んだことないが、周囲の評判ではどちらかというと野崎訳が優勢。
この作品は、人間に神様がいることで何が変わるか? を説いている。作品はある女の子が神への純粋な巡礼を目指すことから始まる。女の子の意識は頑なで、生ぐさを拒否し、まるで仏陀の出家に近い。当然、周囲は驚いて現世に呼び戻そうとする。
結末としては、女の子のお兄さんが彼女に”神”を見せる。そして、神の存在の作用を説く。私は無神論者だけど、彼女の兄は私の目にも”神”の存在をまざまざと視覚化した。この作品を「バイブル」と呼び習わすファンが多いことにも納得させられる。