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投稿者:井端隕石 - この投稿者のレビュー一覧を見る
内容は文句なく面白濃い内容の一冊でしたが、カバーの題字が本を読んでいるうちに変色(脱色?)してしまうのは、いただけなかったです。
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「細野晴臣」という人物になったかのように読み進めることもできれば、それを俯瞰的に観察できる本でもあった。
はっぴいえんど〜YMO期の読み応えがすごい。教授やユキヒロが当時のことを振り返って語る新事実もあって、こんなことを思っていたのか・・・とワクワクした。
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「細野晴臣と彼らの時代」、この本の主人公はもちろん「細野晴臣」であり、今も新しい世代のリスペクトを集め続ける彼の物語(プロローグの星野源のエピソードも細野が過去の人ではないことを明示しています…)なのですが、題名にあるとおり「彼ら」も主役なのだと思いました。「彼ら」とは、大瀧詠一であり、千葉信行であり、布谷文夫であり、中田佳彦であり、松本隆であり、柳田優であり、小山高志であり、杉山喜一であり、伊藤剛光であり、高橋幸宏であり、鈴木茂であり、林立夫であり、小原礼であり、遠藤賢司であり、野上眞宏であり、小坂忠であり、柳田ヒロであり、菊池英二であり、竹田和夫であり、高久光雄であり、小倉栄司であり、吉野金次であり、三浦光紀であり、石浦信三であり、松任谷正隆、駒沢祐城であり、後藤次利であり、久保田麻琴であり、田中唯士であり、佐藤博であり、矢野顕子であり、坂本龍一であり、横尾忠則であり、松武秀樹であり、渡辺香津美であり、大村憲司であり、奥村靫正であり、コシミハルであり、福澤もろであり、権藤知彦であり、黒川良一であり、小山田圭吾であり、高野寛であり、高田漣であり、であり、であり、であり。登場する順に、なんとなくメモってみましたが、なんという「彼らの時代」。日本の音楽の伏流水人脈が、細野晴臣の「サムシングエルス」に反応しながら、「はっぴーえんど」とか「デインパンアレー」とか「トロピカル三部作」とか「YMO」とか「アンビエント」とかで地表に噴出していく、「音楽の時代」の群像劇。その中で牧村憲一「ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989」で細野晴臣にならぶ日本のポップスのキーマンとして指摘している加藤和彦の存在感が薄いのが気になりました。でも加藤和彦と違い、細野晴臣は無垢をもって生き続けて欲しい、音楽というフォースにおけるヨーダみたいになって欲しいです。っていうかもう十分、ヨーダか…
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G 2021.4.30-2021.5.10
細野さんだけでなく、むしろ「彼ら」のいろいろを知るのが楽しかった。
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実に面白いエピソード満載の本。
細野さんが1968年に大瀧詠一と初めて会った時、7人の侍の剣豪オーディションみたいな感じになった話。松本隆はそれまでストラヴィンスキーやマーラーとかしか聞いていなかったのに、中二で英語教師がビートルズの抱きしめたいを聞かされ、世界がひっくり返った話。
1950年代細野がクリスマスに知り合いの米兵の家庭に招かれ、見たこともないおもちゃで溢れるなか、ミニチュアクレーンで夢中に遊んでいた。帰りにクリスマスプレゼントだとそのクレーンをもらった。嫌がって泣きじゃくる子供に、米兵は日本人は貧しいのだからときつく子供に諭していた姿が細野の頭に焼き付いているという。小さい頃うちの近所にも米軍住宅があり、青々とした広大な芝生に真っ白な広い家とピカピカのアメ車があった。そういう時代を知っている世代のアメリカに対する思いは、現代の若い世代には全く理解できないだろう。
西表島のバスでかかっていた「ハイサイおじさん」を久保田麻琴がすごい音楽を聴いたと那覇のレコード店でレコードを買い占め土産として細野らに配った。
坂本龍一との出会い。坂本は小学生の時ビートルズのアルバムを全て買い、ドビュッシーと同じ響きをビートルズに見いだし興奮したという。さすが教授は特別な人だ。しかし高橋幸宏にファッションコーディネートをしてもらう。1976年横浜同發新館での中華街ライブではトロピカル細野で坂本も出演。
デビュー時から好きだった越美晴、戸川純の他、シーナ、サンディ、小川美潮らLPを聞きまくっていた人達も次々と出てくる。忌野清志郎との活動、細野さんは声が渋いのでちゃんとした大人かと思っていたが、あの人は全くの子供。
矢野顕子。細野さんの曲はデビュー前から歌っているが、全く飽きない。私は世界で一番細野さんの歌を歌っている歌手だ。
高橋幸宏。16歳で知り合ってから、細野さん以上の日本の音楽家はいないと当時からずっと思ってます。
ジャパニーズロックは細野さんがいなかったら寒々しいものになっていただろうなぁ。
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8年の取材・インタビューなどの歳月を経て綴られた日本の誇る偉大な音楽家、細野晴臣の決定版とも言える評伝。東京港区、まだ当時は下町の色濃い白金台での出生から、若く優秀なミュージシャンをバックにつけてアメリカンポップスの再解釈に挑む近年のソロ作品・ツアーまで。もちろんこの過程には、はっぴいえんど、YMO、ティン・パン・アレーなどの名グループでの活動も含まれるわけであり、それは日本のロック〜ポップスの音楽史を辿るにも等しい。
こうして評伝を読むと、知っているようで知らなかったはっぴいえんど末期のバンドの空気感や、大瀧詠一と細野晴臣の生涯のライバルとも言える好関係(その極点はYMOでの大ブレイクと『LONG VACATION』の大ヒットであろう)などを詳しく知れる点が面白い。そして細野晴臣という人間の歴史を辿るということは、大瀧詠一、松任谷正隆・荒井由美、矢野顕子、小坂忠、坂本龍一、高橋幸宏など、彼を巡る偉大な音楽家についても相当のページ数が割かれるわけで、彼らとの関係性をたどれるのも面白さの一つである。
個人的に非常に感銘を受けたのは細野晴臣が、自作曲について、自身の心情をそのまま歌うのが自身の作品観ではないということを名言する以下の発言であった。
「そのまま歌うのは日記や私小説であって、作品ではないと思うんです。自分の思いをいかにして作品にするか。それが曲作りですね。それが昔からポップスの伝統だったんですよ。だからそこには生々しさとか、そういったものは必要ないなと。(中略)パーソナルな曲は作ったその人でないと歌えない。自分の曲はほかの誰かでも歌うことのできる作品であってほしい。いまだに同じ思いですね」(本書p182より)
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これはとても面白い!「近田春夫」自伝と一緒に読みました。同時代(近田さんが5さい下)の音楽史がよくわかりました。この本読みながら、出てくる曲をYouTubeで調べながら読みました。ので、より楽しめた。久しぶりに音楽を聞きました。そして、それはとてもいい経験でした。作者にホントに感謝したい。改めてYMOの新しさ、すごさを感じたし、それ以外の楽曲の多さとクオリティに細野晴臣の偉大さを感じられた。すっかりファンになってしまいました。
このインタビューも合わせて見ると面白いです。Red Bull Music Academy
https://youtu.be/O9KasFWBKGg
これも。Van Dyke Parksのスタジオに行った時のことが書かれてます
http://blues.gr/profiles/blogs/interview-with-versalite-artist-van-dyke-parks
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つねにサムシング・エルスを求め、興味から次の興味へと音楽を追い続けた細野晴臣の冒険の書は、70年から現在に至るまでの日本のロック・ポップス史の年表であり、彼がその道中出会う様々な旅の仲間との小説のようだった。小説のように感じたのは、日本のロック・ポップスを作り上げてきた歴史上の人物たちの誰と誰が、いつ出会ってどういう音楽をやってという、ただそれだけでなく、簡潔な文章の中ながらその時の彼らの心情にまで踏み込んだ描写と、彼らが過ごした街の風景の描写があるからだろう。それを拾い上げて文にした著者の仕事もすごいが、細野晴臣という人が、常に不安と葛藤を抱えがちの人でありながら、同時にユーモアのある人であって、従って音楽や周囲の物事を批評的・分析的によく見ている人だったことが何より大きかったし、図録や写真がないことがむしろ小説のように想像力を喚起させてくれる。文中に出てくる楽曲はネットですぐ確認できるという体験もとても楽しかった。
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「風街ろまん」は擦り切れてしまうほど、
「HOSONO HOUSE」もかなり、
「HORO」もまぁまぁ、
「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」はぼちぼち、
「ロング・バケイション」はそれなりに、
聴きこんでいました
それから数十年経って
映画「万引き家族」のエンドロールに
音楽:細野晴臣
を見た時に
「おっ!」と声を挙げてしまいました。
その数十年の間の
あれやこれやが これでもか と
日本を代表する音楽家たちへの
証言と聞き取りを八年の月日を費やして
編まれた本書が
面白くないわけがない
巻末の
「主要参考文献」と「細野晴臣年表」が
如実に語ってくれています
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正しく「彼らの時代」。その部分が、この本の大きな魅力。
日本の軽音楽史である。
「風をあつめて」が、ワールドミュージックになっている時代なんて、80年代には思うべくもなかったな。
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細野氏がお元気なうちに出版して下さって良かったです。色々な作品の裏側が垣間見れてワクワクしました。まだまだ拝聴していない作品が沢山あるので楽しみです、もちろん新作も。
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あとがきでも書かれている通り、細野を題材にした本はすでにいくつかあるが、生涯を通した活動歴をまとめたものとしては渾身の内容。特に、各バンドの結成に至るまでの経緯を興味深く読んだ。それだけに、大滝への取材ができなかったことを残念に思う。
細野晴臣は1947年に東京白金台で生まれた。中学2年の時に始めてバンドを組み、高校時代には複数のバンドを結成した。立教大学では、ドクターズに誘われてベーシストとして加わった。1968年には大滝、松本、高橋と立て続けに出会うことになる。
大滝詠一は1948年に岩手県江差郡で生まれた。ビートルズの影響を受けて高校2年でバンドを組み、ドラムを担当した。大学受験に失敗して上京し、友人の先輩に紹介された中田佳彦から細野を紹介され、毎週日曜日に3人でお茶飲み会を称してレコードを聴いて曲を分析したり、自作の曲を発表したりするようになった。
松本隆は1949年に生まれ、南青山で育った。高校時代にバーンズを組み、ドラムを叩いていた。大学に進学する頃にベースが抜けたため、新しいベーシストとして細野を引き入れた。
鈴木茂は1951年に生まれ、世田谷区で育った。中学2年の時に兄が買ってきたエレキギターを弾き始め、近所の友人たちとバンドを組んだ。林立夫は1951年に生まれ、港区で育った。兄の影響を受けて12歳でドラムを叩き始めた。2人は高校生の時に、別々のバンドのメンバーとして、ドクターズが主催したイベントPEEPに参加し、その審査員だった細野に見出された。1968年夏からは、鈴木、林と3人でグループを組み、様々なボーカリストを迎えてダンスパーティに出演するようになった。
細野は、1968年の大晦日に開催されたセッション・パーティに参加した時、小坂のバンドに勧誘された。小坂忠は1948年に生まれ、高校時代に組んだバンドではボーカルとギターを担当した。大学1年の時に、ミュージカラー・レコードが開催したオーディションに参加して合格し、ザ・フローラルとしてレコードデビューした。しかし、バンドの方向性をめぐってベースとドラムが抜けたため、新しいメンバーを探すためにセッション・パーティにやってきた。細野はアルバムのレコーディングができることに魅力を感じて誘いに応じ、松本を誘った。バンド名はエイプリル・フールとして、大部分をオリジナルの英語詞の曲でレコーディングした。その後はディスコを中心に活動したが、八丈島入浴事件が決定打となって、1969年10月に解散した。
細野と松本がバッファロー・スプリング・フィールドを理想としたバンドを構想していた時に、大滝から「バッファローがわかった」と電話があった。10月に3人で行った福島への旅行で、日本語の詞でオリジナル曲を作るという方向性を共有した。この旅を題材にして、後に「抱きしめたい」や「1969年のドラッグレース」を書いている。その後、演奏力をカバーするために鈴木を招いてヴァレンタイン・ブルーが結成され、1970年のレコーディング直前に「はっぴいえんど」に改名された。
松任谷正隆は1951年に杉並区で生まれた。大学生だった1971年にコンテストに出場したところ、審査員だった加藤和彦にレコーディングに呼ばれた。その時に出会った林に誘われて小坂のバックバンド「フォージョーハーフ」に参加したが、小坂が目指す音楽とは隔たりを感じていた。「はっぴいえんど」の解散を無念に感じていた鈴木は、林と新しいバンドの構想を話し合い、細野と松任谷を招いて、1973年にキャラメル・ママを結成した。キャラメル・ママは、細野の「Hosono House」、吉田美奈子「扉の冬」、荒井由実「ひこうき雲」(細野は「OLIVE」まで、鈴木と林は1980年代半ばまで)、雪村いずみ「Super Generation」、小坂の「HORO」などで演奏や編曲を担った。後の1998年「ノイエ・ムジーク」の新曲2曲では4人が顔を合わせている。
鈴木顕子は1955年に青森県で生まれた。青山学院高等部の頃からジャズ喫茶などで演奏した。1974年のザリバのレコーディングにキャラメル・ママが参加し、さらにキャラメル・ママと行ったセルフレコーディング曲は、後の「Japanese Girl」「いろはにこんぺいとう」などに収録された。顕子は「泰安洋行」の演奏にも参加した。
坂本龍一は1952年に中野区で生まれた。高校時代にジョン・ケージなどのミニマル・ミュージックを聴くようになり、東京芸大では民族音楽を学んだり、電子音楽の作曲法を分析した。新宿のバーでたまたま出会った友部正人のツアーに同行するようになり、そのステージを見たティン・パン・アレーのマネージャーに福生に連れていかれて、「ナイアガラ・トライアングルVol.1」や大貫妙子「Grey Skies」などのレコーディングに参加したり、ティン・パン・アレーと共演したりするようになった。
高橋幸宏は1952年に生まれ、目黒区で育った。小学5年生の時にプレゼントされたドラムを熱心に練習し、高校生の時に同級生たちとブッダズ・ナルシーシーを組んだ。慶応大学に通う兄が主催するイベントに誘われて参加した時に、バーンズとして参加していた細野に声をかけられている。1972年に加藤和彦に誘われてサディスティック・ミカ・バンドに加入したが、その解散後に高中正義や後藤次利と結成したサディスティックスは、フュージョンの色味を増していったため、気が向かなくなっていた。
細野は「イエロー・マジック・カーニバル」を新たなアレンジでレコーディングする構想を持ち、林と新しいバンド方向性を探ったが、最終的に林からは断られた。1977年、アルファ・ミュージックの発足を記念するレセプションで、細野はエキゾチック・サウンドとディスコ・ミュージックを掛け合わせて「イエロー・マジック・オーケストラ」をやると宣言した。細野は「はらいそ」のレコーディングに高橋と坂本を呼び、2人をバンドに勧誘した。
1996年、松任谷由実が荒井由実時代の楽曲だけを演奏するライブを当時のメンバーと開催したのを機に、林が音楽活動を再開し、2000年には細野と鈴木とティン・パンを結成して、アルバム「ティン・パン」をリリースした。
2001年には、細野が高橋のアルバムをプロデュースする提案から2人の作品に発展し、スケッチ・ショウとして「オーディオ・スポンジ」を発表した。このアルバムには、坂本も2曲を提供した。セカンドアルバム「ループホール」では、2曲で坂本と共作し、このレコーディングの後、YMOを再結成した。
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細野さんの歴史、労作。YMOの二人が先に亡くなったのは、言葉にできない悲しみ、なんだろうな。
はっぴいえんど→ティンパンアレイ→トロピカル3部作→YMO、ここからずっと好き。これからも。長生きしてほしい。
坂本龍一との、ラブアンドヘイト、最後は理解して、幸せ。
ギャグ好き。忘れる強み。次に行く人。
似てる、と勝手に親近感。
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名前良く存じ上げていたが、この本でこの方についての全貌がわかった。才能の人物であり、その才能更に他の才能とのシナジーを生む。決して現状に満足する事なく常に新境地を切り開く。「風を集めて」は私も大好きな曲。真摯なる本物の音楽には国境などない。まさにそれがグローバル。