紙の本
どこか違うところへばっくれる
2020/12/17 07:39
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:dsukesan - この投稿者のレビュー一覧を見る
半農半Xを地で生きている著者が、自身の狩猟や米づくりの経験をもとに、生きること、経済、戦争・平和などについて思索をしたものをまとめたエッセイ。実際の狩猟や精肉の描写やコメ作りの実際の体験談から、半農半X(ライター)、自然資源を活用した生き方、贈与経済による人間関係の形成、物質文明へのアンチテーゼの提示・人間の能力の維持、資本主義から半歩ズレた生活、オルタナティブな生計手段を複数持った生活の提示などなど、内容は多岐に渡る。著者は、正に私が実現したい生き方を実践している人だ。
他方で、この生活のアプローチだけでは、開発途上国の環境問題や社会問題、地球規模でのエネルギー問題、国家間の戦争・安全保障の課題を解決することはできないということもよくわかる。例えば、アフリカのマラウイでは、エネルギー革命が起きていないための薪炭利用による森林破壊や、生産性の低い農業や産業がないことによる労働人口の農業への集中による土地の乱開発、産業がないことによる高等教育人材の受け皿がない問題とそれによる教育の不振などなどの課題がある。これらには、やはり産業の育成、生産性の向上、ガスや電力といった代替エネルギーのインフラ整備など、経済発展による課題の解決が必要だ。また、地球規模の環境問題の解決のためにも、イノベーションによる再生可能エネルギーの開発・普及なども必要だと思う。また、戦争抑止力の観点からは、経済成長による武力の維持なども必要だろう。こうした課題に対応するには、資本主義経済による経済発展を持続可能な開発に変えていくことが必要であり、その手段が、SDGsやESG投資、持続可能な調達なのだと思う。
著者のような、半農半Xの生き方を是として憧れているし、自分も実践したいと考えているにも関わらず、持続可能な開発による資本主義経済の発展に相当拘っている自分がいることに気が付かされた。
だがしかし、本当にSDGsやESGなどの仕事に、自身はこれ以上関わりたいのだろうか。なんだか胡散臭いし、やりがいを感じられなくなっているのが本音なのではないのか。そうした資本主義・成長モデルに自分がこだわっている一方、その中で生きることに、違和感を感じてそりが合わなくなり、いい加減、辟易してやる気をなくしているのが自分の本音ではないのかとも思う。
正直、悩む。二つの価値観の中で、身が割かれる。まだ自分の生き方を決めきれない。このままでは、動けない。どうすればよいのか。
そんな中、著者の提示してくれた「ばっくれる」という姿勢が、自分の道を示してくれるような予感がする。そりが合わなくなったその場から、逃げる(180度違う方向に進む)のではなく、真面目さや真剣さを放りだして、明後日の方向へ鼻歌を歌いながら、ふらふらと進む「ばっくれる」という姿勢。「ばっくれる」ということは、目的地への地図など持たず、自分でもわからぬままどこかへ向かうという姿勢だと著者は説く。そんな姿勢で、自分も次の生き方を探ってみたいと思う。
半農半Xの、Xを何にするか。願わくば、何等か持続可能な開発に少しでも貢献できるXを見つけて、今の仕事と東京から「ばっくれたい」と思う。
それにしても、こうした半農半X・田舎での定常経済での暮らしの本には、文化人類学が出てきて、贈与論が語られるのが興味深い。資本主義の貨幣経済へのアンチテーゼとしての贈与経済が、周縁の田舎ではまだ生きているということなのだろう。
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猟師にまつわる本は、近年多い。『ぼくは猟師になった』(千松信也)のシリーズや、冒険家の服部文祥も何冊かサバイバルものを書いている(『息子と狩猟に』あたり、読んだっけ)。
かつて獣肉喰いは ― 昔はジビエなんて言い方しなかったなあ ― それこそ冒険家の植村直己や、アラスカで暮らした星野道夫の本で見聞きしていたけど、ちょっと当時とはアプローチが異なるというか、現代社会へのアンチテーゼというか、何かを見直す、何かの再発見という趣きがある。
本書もその類ではあるが、導入がアロハだし、最初は農作だし、新聞記者を続けながらという低い敷居のところから入っていって、鴨撃ちから、罠猟、精肉にまで至り、生命のやりとりとは何ぞや、我とは何かと思考を巡らせ、資本主義の安楽死をも構想し、明るい(?)未来へ思いを馳せる体験記になっていて面白い。
他者(鴨や鹿)の命を頂戴するからこそ、その尊厳に気づく。「死」が見えなくなっている今の社会に警鐘を鳴らす一方で、
「他の生命に加える暴力の結果、人間はようやく生きている。しかし、その暴力を、あからさまには見せつけない。露悪趣味とは、低劣な自己顕示欲の謂いである。」
と猟師としての礼節を記す。
獣肉や米作を通じ「なにが自分であるのか」を考えると、
「決まっている。他者の命だ。他の生命の殺戮によって成り立つ、たたいっときの<現象>が、わたしなのだ。」
という考え方に自然と至る。
そして、いっときの現象である、わたしや、今の人間社会がなりなっているのは、さまざまなものを交換し合って成り立っていることに気づく(福岡伸一教授の“動的均衡”にも相通じる?)。
その交換社会は、今、“カネ”の仲介によって成り立っているが、資本主義がもはや限界に近付いているのは、あらゆる方向から警鐘が聞こえてきている。その解決のひとつの解として、資本主義の共通幻想である貨幣を媒体としない経済活動が、ほんの少しでも生活に入ってくれば・・・。
著者のトライアル&エラーの、体当たり実験生活は続く。なかなか興味深かった。
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猟銃免許をとって、鴨撃ちになり、耕作放棄地を田んぼにし、罠師にもなり、肉の解体、精肉を行う。スキルアップする過程には師匠がおり、車などのメンテナンスを支援する個人商店があり、噂を聞きつけた同業者他者の若手が集まってきたり、どんどん登場人物が増え、個の物語ではなく、鴨や鹿や猪も含めた共生の物語でした。特に人は口も出す、手も貸す、けれど、見返りを求めない。地域の一員としての田や猟場での振る舞い方を求めるだけ。プライスレスな日常生活を垣間見ることになりました。
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半農半Xを地で生きている著者が、自身の狩猟や米づくりの経験をもとに、生きること、経済、戦争・平和などについて思索をしたものをまとめたエッセイ。実際の狩猟や精肉の描写やコメ作りの実際の体験談から、半農半X(ライター)、自然資源を活用した生き方、贈与経済による人間関係の形成、物質文明へのアンチテーゼの提示・人間の能力の維持、資本主義から半歩ズレた生活、オルタナティブな生計手段を複数持った生活の提示などなど、内容は多岐に渡る。著者は、正に私が実現したい生き方を実践している人だ。
他方で、この生活のアプローチだけでは、開発途上国の環境問題や社会問題、地球規模でのエネルギー問題、国家間の戦争・安全保障の課題を解決することはできないということもよくわかる。例えば、アフリカのマラウイでは、エネルギー革命が起きていないための薪炭利用による森林破壊や、生産性の低い農業や産業がないことによる労働人口の農業への集中による土地の乱開発、産業がないことによる高等教育人材の受け皿がない問題とそれによる教育の不振などなどの課題がある。これらには、やはり産業の育成、生産性の向上、ガスや電力といった代替エネルギーのインフラ整備など、経済発展による課題の解決が必要だ。また、地球規模の環境問題の解決のためにも、イノベーションによる再生可能エネルギーの開発・普及なども必要だと思う。また、戦争抑止力の観点からは、経済成長による武力の維持なども必要だろう。こうした課題に対応するには、資本主義経済による経済発展を持続可能な開発に変えていくことが必要であり、その手段が、SDGsやESG投資、持続可能な調達なのだと思う。
著者のような、半農半Xの生き方を是として憧れているし、自分も実践したいと考えているにも関わらず、持続可能な開発による資本主義経済の発展に相当拘っている自分がいることに気が付かされた。
だがしかし、本当にSDGsやESGなどの仕事に、自身はこれ以上関わりたいのだろうか。なんだか胡散臭いし、やりがいを感じられなくなっているのが本音なのではないのか。そうした資本主義・成長モデルに自分がこだわっている一方、その中で生きることに、違和感を感じてそりが合わなくなり、いい加減、辟易してやる気をなくしているのが自分の本音ではないのかとも思う。
正直、悩む。二つの価値観の中で、身が割かれる。まだ自分の生き方を決めきれない。このままでは、動けない。どうすればよいのか。
そんな中、著者の提示してくれた「ばっくれる」という姿勢が、自分の道を示してくれるような予感がする。そりが合わなくなったその場から、逃げる(180度違う方向に進む)のではなく、真面目さや真剣さを放りだして、明後日の方向へ鼻歌を歌いながら、ふらふらと進む「ばっくれる」という姿勢。「ばっくれる」ということは、目的地への地図など持たず、自分でもわからぬままどこかへ向かうという姿勢だと著者は説く。そんな姿勢で、自分も次の生き方を探ってみたいと思う。
半農半Xの、Xを何にするか。願わくば、何等か持続可能な開発に少しでも貢献できるXを見つけて、今の仕事と東京から「ばっくれたい」と思う。
それにしても、こうした半農半X・田舎での定常経済での暮らしの本には、文化人類学が出てきて、贈与論が語られるのが興味深い。資本主義の貨幣経済へのアンチテーゼとしての贈与経済が、周縁の田舎ではまだ生きているということなのだろう。
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なんかとても朝日新聞ぽい。ご家族いるのかな。どうしてるのかな。子育て時期以外だったらこれでいいんだよね。
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朝日新聞の記者の近藤さんの本。文字通り猟師になった経験談。農業革命前まで人類は皆猟師だった。猟師に、なって初めて見えてくる世界がある。しぜんを感じ、獲物気持ちになって行動しないと獲物に出会う事さえままならない。そうして学ぶ猟師の世界。猟師に、なって見えてきた今の社会の矛盾、問題。体験して初めて分かる命の尊さ。ちなみにアロハシャツ着ているものの本の内容を示すならアロハはいらなかったかも!嗚呼、野生の鴨食べて見たいね。先日エゾジカは食べました。
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タイトルから想像できないくらい硬派だった。
狩猟により命を頂いて生きるということについて、考えさせられる。
そして、信頼は金で買えないよなぁ……と。
アロハ要素は薄かった。
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タイトルや装丁のライトさと内容の重さにはギャップがあった。一章読み終えたところで、著者の紹介文を読んだら、某新聞社のご出身だそう。中道であるむねが、ところどころで述べられているが、本当に中道であれば中道であることすら示す必要がないのではないかと思う。お立場上ご苦労されたのではないかと思った。猟や農業ついてとそこから派生する信条の両面が語られているが、どちらも薄まってしまっているように感じた。もっと振り切っていいのではないだろか?
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朝日新聞記者。猟師の体験より思想の書。
初めて獲物を獲ることに成功する場面のほか、暴力装置、ネトウヨ、農耕と人類など思想の内容が多い。題名からもう少し軽い猟師の体験談を期待して読んだので、ちちょっと期待外れ。
資本主義の悪にそまらず、少しは原始に戻った体験を上から目線で語る内容。
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窮屈な今の社会からこんな「ばっくれ」方があるのかと感動。
終章の「ボスト資本主義」に関する論考も大変興味深い。元気が出た。朝日新聞で柄谷行人が書評を書いたわけもわかった。
鴨を食べた「芥川賞受賞作家」ってだれたろう?
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タイトルからして、おふざけ系の内容かと思ったら、さにあらず生命とは、人生とは何かを考えさせられる本でした。
野生動物を仕留める瞬間の生々しさや解体するときの血肉溢れる感は、人によっては苦手かもしれません。仕事から、動物実験に立ち会うことがありますが、食用のブタを電気メスで切開するときの焦げ臭さ等、家族にイキイキして話すとドン引きされます。本書は新聞に連載されていたようですが、屠殺シーンに対して、予想通りのクレームが来たそうです。
誤読する権利は読者にはあるとしながらも、命を弄ぶようなことは決してないと主張しており、全編を通じて、生きることは、すなわち他を殺して食べること、ということに改めて気づかされます。
日本人のあいさつ「いただきます」は素晴らしいなと思いました。
気になった点
・鴨の羽毛は天然の迷彩服。獲物を探すときには、カモをみるのではなく、わずかな「波紋」をみること
・農業生産が安定して食い扶持に困らないということは、支配される側=民衆にとっても好都合ではある。(中略)被支配階級自身が、自ら支配されること、抑圧されることを、欲望する。(中略)だから、農業さえやっていれば万事うまくいく、自然のと人間の本来の関係性を取り戻せるというような、お気楽な「農本主義」は、自分にとってはお笑い草なのだ。頭ではない。肉体でわかるのだ。
・(ドフトエフスキー『死の家の記録』からの引用)人間はどんなことにでも慣れるられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う。
・初心者には、まさかと思うようなことばかりなのだが、けもの目線になれる猟師にしか見えない世界は、ある。(中略)ライターと全く同じなのだ。世界の見方の様々なバリエーションを持つ、ライターにしか見えない、リアルはある。
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タイトルがカジュアルで、挿絵もある(しかも伊藤ハムスター)ので、新聞の不定期連載をまとめた軽いエッセイかと思ったが、そうではなく、狩猟から日本文化や歴史から経済システム、贈与・交換といった文化人類学的な話まで発展する読み応えのある本だった。
人の懐に入って話を聞き出す記者の特性が、農業や狩猟にも生きているように感じた。思想信条で切り捨てず、どんな人ともとことん話をして(というよりはとことん話を聞いて)人間性を見出していくことが好きだから、田舎の絡み合った人間関係にあとから入った余所者なのにやっていけるのだと思う。田舎で育ってもそれが苦手で都会に出ていく人はいっぱいいるが、こういう人はどこに行ってもやっていける。そのたくましさはすごいと思った。
農業と狩猟によって貨幣経済から半分降りるというところは魅力的だが、それに伴う苦労に大抵の人は躊躇するだろう。なかなか面白がれるものではない。しかし、ライターであれば、それもまたネタになる。
また、自然とガチでつきあうことで感受性を磨くこともできる。「世界は、見ようとする者にしか、見えない。」(P53)
P58あたりに書いてある農業が格差や差別を生み出したというはなしは、稲垣栄洋の本にも書いてあったし他の人も書いているに違いないが、やったからこその実感なのだろう。
狩猟は殺戮に快楽があるのではなく、その後の共同作業、共食、仲間との語らいなどによる精神的満足に快楽があるというところも説得力があった。
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自分の資本主義についての認識が、ホロホロと、でも確実に壊されていく。
極端な右や左の思考、スピリチュアルや自然主義には心動かされないけど、近藤さんの言うことには現実の重みがあって心にのしかかってくる。
命を感じて生きる猟師であり百姓であるから。そして、人との信頼関係を一歩ずつ築きながら貨幣制度を超えた人付き合いをしてきているから。
その説得力たるや!
良い本だった。
「おいしい資本主義」も読んでみたい。
----印象に残ったところ---
カネを払って教えてくれるものは、しょせん、それ(価格)だけのものだ。カネを受け取ったのだから価格に応分のものを教えると、教える側は思うし、カネを支払ったのだから分からせてくれと、教わる側も契約関係にあぐらをかいている。それは、「学び」ではない。学校で済ませておくたぐいの「習いごと」だ。(p153)
政治的立場は違うが、人間そのものは信じられる。
そういう関係は、今は結べなくなった。(p170)
(猟での信頼のおけるブラ師だが、筆者と政治的見解はずいぶん違うということを述べたあとで)
共猟は、チームワークがすべてである。自らが信をおかない人間と、腹の底が割れていない相方と、ましてや馬鹿とは、山に入れない。銃を持って同じ場所にいられない。命に関わる。直接的に危険だからだ。(p172)
自分と政治的見解の違う他者も、属性はひとつでないはずなのだ。(中略)どこかで、私とつながれる。人間対人間として、対峙できる。それは、属性がひとつではないからだ。つながれる回路は、どこかに、ある。(p173)
人間は、言葉を、貨幣を、承認関係を、愛情を、無償の贈与、交換し合う生物だ。
そしてその交換も、金と違い、贈与の連鎖であれば途切れない。顔が見える。言葉が聞こえる。だから心が通うし、上も映る。貨幣を解さない直接的な贈与。交換によって交換する生物が人間なのだ。(p230)
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まず、秘伝的な猟の方法について書かれており大変興味深かった。食べる事は命と向き合う事と時々思い出したい。そして、作者の様にどこででも逞しく生きられる人でいたい。
人生論的なものを展開するのだが、冗長で理屈っぽく、字数稼ぎ感があるので減点1。
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手間がかかる事ほど、充実感を得られる。こうして言葉にすると、魅力的だ。
言うがやすし、行うが難しとは、正にこういう事だろう。生きる素晴らしさ(憧れ)と、その本質を実感する難しさ(現実)の狭間で揺れる感情に自分を重ねる。著者の実行力が凄い。登場するキャラも濃い。これがまた良いのだ。