紙の本
東西対決
2019/11/24 18:38
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:キック - この投稿者のレビュー一覧を見る
関ヶ原の地で行われた3つの戦(壬申の乱・青野ヶ原の戦い・関ヶ原の戦い)を概観。京の都の東の境界にあたる関ヶ原は、東からの敵襲の重要な防衛線に当たり、この地を突破されることが、時の政権の致命傷になりかねない場所であり、日本史上3つの重要な戦が同地で行われたことは、決して偶然ではないということが分かりました。一方、家康が都を江戸に移したことで、同地の重要性が喪失。以後大きな合戦が同地で行われることはなく、東西対決の構図も終焉しました。関ヶ原という土地を考察することで、日本史の流れを捉え直す面白い本でした。
紙の本
東と西の境
2019/03/24 15:33
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:しゅん - この投稿者のレビュー一覧を見る
関ケ原の地で行われた歴史上の三つの戦いを、東の鄙と西の都の争いとして纏めた本です。
それぞれの戦いの史実解説は、丁寧で分かりやすい。
ただ、歴史的な評価が共通するとは、言えないのでは?
疑念が残る。
紙の本
歴史の偶然
2023/01/26 00:11
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:toshi1127 - この投稿者のレビュー一覧を見る
壬申の乱と関ヶ原の戦いが同じ場所で起きたのかという疑問を本郷先生が詳細に解説していて非常に納得した。
紙の本
8世紀から16世紀までの日本史の基本トレンド
2022/03/11 17:29
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:FA - この投稿者のレビュー一覧を見る
『蔑まれていた東国の人たちが西国の豊かさを奪い取ろうと都を目指す、つまり東の人たちが富の再分配を求めて西に勝負を挑むという構図が8世紀から16世紀までの日本史の基本トレンド』
徳川幕府が開かれたのは、鎌倉幕府以来の野望の達成ということになる。そして、江戸城を皇居として、明治天皇に下向させたことで完成したということですね。
不破という地名は今は、不破郡として残っている。そこは西国の富を奪おうとする東国から来る野蛮な軍隊が西国に侵入する入口だという。だから、世の中を変える決戦の地なんだという。たまたま2つの大事件が、重なっただけと思うけど、そこに因縁を感じるという心情も理解できる。
私は、大阪生まれなので、不思議に思っていたことがある。大学進学時の偏差値ランキングで東京の大学が上位で、関西の大学が下位っていうのがおかしいなあって思ったものです。これは、この本の理論の裏付けともとれる。西国を下位にすることを徹底しないといけない。徹底しないと東国の地位が危ういとか。考えすぎか。
投稿元:
レビューを見る
著者の近作(日本史のツボ)とややダブりますが、日本の歴代政権の地域感を学ぶためには良い本。勉強になります。
投稿元:
レビューを見る
メモ 流れで一貫して大局で歴史を見る目が大切。前著と同じような結論に見受けられたが、三つの戦いから先について考察。
壬申の乱、青野ヶ原、関ヶ原はほぼ同じ場所。不破の関等三関以東(関東)は別の国で、国境は東に移るも防衛線の想定は幕末までほぼ一緒だった。
投稿元:
レビューを見る
関ヶ原、不破の関が要衝だなんて当たり前だと思った。著者によるとそれを主張したのは自身が初めてだという。
投稿元:
レビューを見る
歴史を時系列の流れのみならず「意味」で捉える面白さを実感した。地政学的な重要性は多少時代が移ったとてなかなか大きくは変わらないわけで考えてみれば当然なんだろうけど、非常に面白かった。古代〜中世は好きなんだけどそれ以降、室町〜戦国時代のように多くの武将が錯綜する頃の歴史に明るくないので本書を読んでもっと丁寧に歴史の流れをタテヨコで眺めてみたいなと思わされた。
読み進めてワクワクする歴史の本に出会えるのは嬉しい。
学生の頃あんなに日本史が嫌いだったのに、実はこんなに面白かったのかと気づかされる度にどうも損してきた気がしている。でも高校の日本史教科書とか、ほんとにつまらなかったのを覚えてる。あれはわざと面白くないとこばかりピックアップして編集してたんではないだろうか。
個人的には「大黒屋光太夫に謝れ」(p.174)にツボったw
投稿元:
レビューを見る
▶︎-2018/06/04▶︎関ケ原町住民として大変嬉しい本です。ただ地元住民としては、大海人皇子の行宮がどこにあったのかを明確にしていただきたかったし、地形図や写真などがあるとより興味深くなったと思う。▶︎著者は5回関ケ原にきたとあるが、残念ながらその成果が具体的に現れていないと思う。
投稿元:
レビューを見る
壬申の乱(大友皇子VS大海人皇子)、青野ケ原の戦い(高師冬など北朝武士団VS北畠顕家など南朝の奥州武士団)、そして関ヶ原の戦い(略)が、ほぼ同じような場所(不破=青野ケ原=関ヶ原)で行われたことをテーマに、日本の西国と東国の地域差、そしてこれら3つの戦いの後、歴史が大きく変わったのはなぜなのかを、俯瞰的に解き明かしたもの。歴史の読み方の入門書としても、良作だと言えるだろう。
惜しむらくは、入門書的な位置づけをしているせいか、関ヶ原の戦いに関して最近よく見かける「小山評定の有無」「メッケルの『西軍勝利』発言の有無」はこれまでの通説を踏襲し、「関ヶ原の戦い本戦の戦闘時間」についてはスルーしている点。まあ、本書の視点には直接関係ないからいいけど、上記説についての本郷氏の見解を聞いてみたいなあ。
投稿元:
レビューを見る
古代から近世の時間軸と、日本列島の東西の振幅という大きな視座を使って、日本史全体を俯瞰する。そのキーに、「関」:関ヶ原に光を当てるという、スケールの大きな解説。
投稿元:
レビューを見る
関ヶ原の戦いにおいて、家康が本陣を置いた桃配山の由来が壬申の乱にまつわるという話から、このエリアの重要性を日本史における外圧と大きな転換点を考察する興味深い一冊。
長い歴史を踏まえ、著者ならでは鋭い考察に注目です。
▼律令時代の朝廷の儀式「固関(こげん)」(大事が起きたとき、関所の防衛をすること)
・三関
①越前・愛発関(あらちのせき、敦賀市)
②伊勢・鈴鹿関(亀山市)
③美濃・不破関(関ケ原町)
・朝廷にとって仮想敵は東。この3つの関の東側が「関東」
▼東の勢力が西に攻め上がろうとする時に、両者がぶつかり合う場所こそが不破、つまり関ケ原
地名(不破=やぶれざる)も何やら因縁めいている
・西国・西軍=官軍、天皇を担いでいたり、天下人が率いていたりする軍勢という形が多い
・東軍=中央政府の利益を再分配させることを狙った反乱軍であることが多い。西国の豊かさを奪い取るために中央政府に挑む
▼中世、山間部にエリート武士団が本拠を持っていた。農作物が水による被害を受けにくい、敵から攻められた時に守りやすいという地政学的条件が考慮された
▼将軍権力の二元論
将軍権力はふたつの権力-主従制的支配権と統治権的支配権-から成り立ち、ふたつが車の両論のように機能して、権力を形成しているということ
▼3つの戦いから見えてくること
①壬申の乱
・「天皇」の誕生
・国外重視から国内重視の政策に大きく転換、唐に対する外交のなかで、はじめて国号「日本」が使われる
・不破、鈴鹿、愛発に関所が置かれ、それまで曖昧だった日本の東の国境が画定
②青野ヶ原の戦い
・武士の世の誕生
・鎌倉幕府は天皇から政治権力を奪ったものの、経済力は強くなかったが、この戦いで室町幕府軍が勝ったことにより、将軍権力が確立。将軍が任命した守護大名の強大な力に、貴族は及ばなくなる
③関ヶ原の戦い
・日本は統一国家となる
・外交重視・重商主義から内需拡大へと転換
・鎖国へ突き進むと同時に、関東や東北が開発
・都が京都・大阪から江戸へ、日本列島の中心が西から東へと移り、日本という国家の領土は倍になった
▼江戸幕府は関ヶ原の戦いの後、関ヶ原ではなく、伊勢と彦根に防衛ラインを引き、東国・西国の新しい区分けをした。
家康は、どのような勢力か分からないが、敵は西からやってくるという想定で防衛ラインを固める
・まずは伊勢(藤堂家の津藩)と彦根(井伊家の彦根藩)で迎え撃つ
・突破されたら拠点として尾張に名古屋城(御三家筆頭・徳川家の尾張藩)を築く
・北陸から大回りして東に攻めてくることも想定して、福井城に親藩(松平家の福井藩)を入れて防備を固める
・日本地図で見ると、福井と名古屋を結ぶラインは「日本列島のくびれ」ともよぶべき本州のウエストラインであり、越前・美濃・尾張をしっかり守れば、西からの侵略を防ぐことができる
・尾張を突破された場合、江戸を守る絶対防御ラインは箱根(小田原藩)。小田原藩主は歴代譜代大名(���久保家→阿部家→稲葉家→大久保家)
▼日本史は日本だけでなく、東アジアの中での日本という視点で見なければならない。
日本の歴史が大きく動くのは東アジアとの関係が激変し、危機感が強まった時。
・日本に残されている史料は世界一豊富→ヨーロッパのような激しい殺戮や破壊がなかった
・比較的穏やかな国情から生じた慣行が世襲。
▼日本の歴史に大きな変化がない理由
・1つは多神教の国だから→宗教戦争がほとんど起きなかった
・一神教は伝播力が強く、意見の違う陣営間で言い争いが起きる歴史、一方で科学が発達、産業革命が起きる
▼外圧が危機意識を高め、歴史を動かす
・黒船来航→明治維新
・白村江の戦い+壬申の乱→天智・天武天皇による天皇を中心とした国づくり(「天皇」の誕生、律令制)
・元寇→鎌倉幕府の滅亡→青野ヶ原の戦い
・豊臣秀吉による朝鮮出兵の失敗→豊臣政権の崩壊→関ヶ原の戦い
▼天皇の存在の必要性
・天皇が荘園制という土地制度の頂点に立っていたから。将軍は朝廷が生んだ荘園制を超える制度と体制を持てなかった
・天皇が仏教や神道の頂点に立っていたから。将軍は仏教や神道に代わる宗教的権威を持つことができなかった
<目次>
序 章 なぜ関ヶ原(不破)だったのか
第一章 壬申の乱
第二章 青野ヶ原の戦い
第三章 関ヶ原の戦い (1)その構造
第四章 関ヶ原の戦い (2)歴史的意義
終 章 歴史が転換する時
投稿元:
レビューを見る
同じ場所で行われた、「壬申の乱」、「青野ヶ原の戦い」、「関ヶ原の戦い」の3つの合戦を説明し、その場所のもつ意味を分析した本。将軍とは何かについて「将軍権力の二元論」の考え方が参考になった。
「三種の神器は、少なくとも3セットある(後醍醐天皇が恒良親王に持たせたもの、後醍醐天皇が光明天皇に渡したもの、後醍醐天皇が吉野に逃げたときに示したもの)」p102
「将軍権力の二元論。主従制的支配権(将軍が武士に対し方向を求めること)と統治権的支配権(政治権力、国を民を含めて支配すること)。頼朝は、主従制的支配権のみ。足利氏から統治権的支配権が芽生え、徳川では統治権的支配権に移行している」p106
「言いがかりをつけて潰すのは、徳川のお家芸」p123
投稿元:
レビューを見る
古代から近世において、岐阜県の関ヶ原付近(不破の関)が地政学的な観点においていかに重要な地域だったかを、具体的な事例(壬申の乱、青野ヶ原の戦い、関ヶ原の戦い)を通して示している本。さらに、関ヶ原は日本の東西を分ける分岐点であり、政治的にも文化的にも大きな境界点になっていたことを論じている。「日本とは何なのか」という問いに迫る日本論としても興味深い。
投稿元:
レビューを見る
古代最大の戦いと言われる「壬申の乱」と、日本史上で最も有名と言っても良いと思います「関ヶ原の戦い」が同じ場所で行われたと記憶していましたが、この本を読んで、更に室町幕府を確立させた「青野ヶ原の戦い」も同じエリアで行われていることを知りました。
関ヶ原と言えば、新幹線が冬の季節に雪のための徐行するエリアというイメージしかありませんが、あの場所は、日本の東と西の境目なのでしょうかね。久しぶりに面白い歴史解説本に出合いました。時間を見つけて、関ヶ原の地を歩いてみたいと思いました、この40年間、通過ばかりしていましたので。
以下は気になったポイントです。
・関所は3か所あった、越前国・愛発関(福井県敦賀市付近)、伊勢国・鈴鹿関(三重県亀山市付近)、美濃国・不破関(岐阜県関ケ原町)、それぞれ、北陸道・東海道・中山道を通ってくる敵を食い止める防衛拠点であり、東から反乱分子がやってくると想定していた(p18)
・神武天皇が紀元前660年に即位したことにするために、日本書紀では神武天皇の崩御が127歳等、初期の天皇の寿命を科学的とは言えない長寿にせざるを得なくなった(p21)
・現在では、東京と大阪を結ぶラインが大動脈であるが、古代の日本列島は、博多と都(京都)を結ぶライン。交易が盛ん以外に、農業生産力が豊かであった(p25)
・蔑まされていた東の勢力が富の再分配を求めて西の勝負を挑むという構図が、8世紀から16世紀までの日本史の基本的なトレンドである(p28)
・戦いには、戦争に勝つための「戦略」と、戦闘に勝つための「戦術」がある。前者を総合的・長期的な計画・手段とすれば、後者は、限定された戦場において勝利するための具体的・実験的手段である(p34)
・応仁の乱によって将軍家の無力さが暴露されたので、代わって実権をにぎったのが細川氏(東軍)、それまでは、斯波氏・畠山氏・細川氏の三家が持ち回りで、管領に着くことになっていたが、これを機に独占した、山名宗全らの西軍は室町幕府の実権を奪取できなかった(p37)
・壬申の乱(672年)において、大海人皇子(後の天武天皇)が本営を置いた和ざみ(わざみケ原)こそ、のちに関ヶ原と呼ばれる原野である(p57)
・天武天皇は、即位した翌年、不破・鈴鹿・愛発の三か所に関所を置いた(p63)
・壬申の乱は、天皇の長子と弟が国を二分して争った戦いであり、この後、日本という国の姿は大きく変わった、大王(おおきみ)から天皇(すめらみこと)となり、天皇を讃える神話(日本書紀、古事記)が作られた、日本国という国号もこのころに作られた(p65、66)
・平清盛は、武家で初めて太政大臣になったが、内大臣から直接なっている。鎌倉幕府三代将軍は、内大臣から右大臣に昇進している、暗殺されなければ本筋の出世コースを辿って太政大臣となり、格式では超えていただろう。武家で最初に本筋コースで太政大臣になったのは、室町第三将軍、足利義満である(p72)
・後鳥羽天皇は、比叡山に逃げて尊氏に降伏し、三種の神器を尊氏に引き渡す。足利尊氏は、持明院統(北朝)の天皇を担いで室町幕府を開く(p80)
・武蔵国の国衙は現在の23区内ではなく、府中市にある、聖武天皇の命による国分寺も、現在の国分寺市に造られた。武蔵国で随一の武士団は、、平氏一門である、秩父党である。(p91)
・1338年の正月に行われた、青野ヶ原の戦いの歴史的意義は、南朝の軍勢が壊滅し、南北朝の戦いにけりがついたこと。つまり北朝が勝利して武士の世が到来した(p97)
・北畠親房が「神皇正統記」を書いたので、明治政府は南朝の正統性を主張しなければならなくなった。明治の元勲が尊皇攘夷を掲げて、江戸幕府を倒したから。尊皇攘夷のルーツは水戸学、それによれば南朝が正統である(p101)
・三種の神器は少なくとも三セットある、1)後醍醐天皇が常良親王に持たせたもの、2)後醍醐天皇が足利尊氏に降伏して自分が持っていたものを、北朝の光明天皇にわたしたもの、3)後醍醐天皇が隠し持っていたもの(p103)
・日本列島は、都と鄙(ひな)に分かれていた、都とは、基本的に京都を指すが、現在の中部・近畿・中国・四国地方が含まれる、鄙(ひな)は都から離れた田舎のこと、東北地方・関東・九州地方を指す、都は将軍が支配、鄙のうち関東地方(10か国)は、将軍から諸権限を移管された「鎌倉公方」が行っていた、東北地方は直轄地であったが、1392年からは鎌倉公方所管となった、鄙では、地域の有力武士が守護に任命された(p111)
・都にも守護が配置されたが、足利将軍家の一族(細川、斯波、畠山)であった。例外は、土岐や赤松氏、彼らは幕府の政治に参加していた。こうした都の守護大名が戦ったのが、応仁の乱であり、鄙の守護たちには関係がなかった(p112)
・立花宗茂と小早川秀包らの一万あまりの虎の子軍勢を、突然反旗を翻した大津城の京極高次に向けてしまった。このエース二人が加わっていたら、島津・小早川秀秋も西軍について、西軍が勝っていた可能性もある(p130)
・全国に守護を配置、荘園に地頭を置く権利を朝廷から認められた、1185年を鎌倉幕府の開府と考える(p150)
・江戸幕府は、関ケ原の戦いの後、関ヶ原ではなく、伊勢と彦根に防衛ラインを引き直して、東国と西国の新しい区分けをした。伊勢(津藩)には藤堂高虎、彦根には井伊家を置いた、これは敵は西からやってくるという想定で防衛ラインを固めた(p160、180)
・日本で起きた宗教戦争で何万という犠牲者が出たのは、キリスト教が伝来してきたときのみ、多神教の日本では、神様と仏様は仲良し(p185)
・白村江の戦いの敗戦が壬申の乱につながり、元寇がきっかけとなって鎌倉幕府崩壊に至る過程で吉野が原の戦いが起き、朝鮮出兵の大失敗により関ヶ原の戦いが起きた(p188)
・日本のポツダム宣言受諾が遅れていたら、アメリカ軍の九州上陸、ソ連軍の北からの上陸により、京都を中心とする象徴天皇制の日本国と、東京を首都とする大統領制の東日本社会資本主義国に分かれた可能性もある(p192)
2019年4月7日作成