紙の本
修復的司法を知る
2022/06/11 06:56
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投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
性犯罪被害者である認識する女性哲学者の人生を告白するエッセイ。修復的司法という犯罪に向き合う手法を模索する研究者である著者の言葉は、心を揺さぶる。修復的司法とは、犯罪を地域社会に起きた害悪ととらえ、被害者、加害者などが直接的に関与し、その害悪を修復しようとするもの。被害者と加害者が対話することが中心となる。性犯罪を当事者がカミングアウトする際、記憶を上書きし、誤った記憶を提示するのではないかと不安になったという。犯罪に向き合い、それを乗り越えて生きていくために、記憶は物語として紡いでいけばいい。
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生き延びるためのジタバタ
2023/02/28 17:35
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投稿者:***** - この投稿者のレビュー一覧を見る
そう。仲間は生き延びるために必要なんだ。対面でも、読むことでも、「分かって」胸が熱くなったり涙が流れたり、苦しくなったり痛かったりする。私は意識を失ったことはないけれど。
ヒトが生きる中で行き会ってしまう様々な出来事と、一人ひとりが抱えるそれぞれの秘密。人らしく生きるためには繊細かつ大胆に自分の人生にぶつかっていくしかない。
田中三津さんの「いのちの女たちへ」は20才だった私を衝撃的に目覚めさせてくれた一冊だった。
水俣で長子を産んだ頃、何度かお会いした緒方正人さんとは会話もなかったけれど、会えるととてもうれしい方だった。
私の「今年の一冊」候補です。
う~ん。「トラウマと回復」は大好きな中井久夫さんの訳だし読まなくちゃかなあ。いいお値段だけど。デリダも大好きな笙野頼子さんの作にトゥールーズと並んで見かける名前だし読まなくちゃかなあ。小難しそうだけど。
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当事者の「語り」と支援や研究とあいだ
2023/08/03 17:12
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
「修復的司法」について研究してきた哲学者が、自身が性暴力被害の当事者であることをカミングアウトした上で、自身がもがきながらたどり着いた研究者としての歩みを述べながら、当事者の「語り」について説いた研究史的なエッセイ。著者本人は「自分語り」と述べている。
「当事者は嘘をつく」という刺激的なタイトルは、性暴力被害者に対してそれを認めない側の人々が言う「嘘をつく」ではなく、当事者にとっては「語り得ない過去」=「空洞」があったり、「自分に起きていることを説明するための言葉」が見つからなかったり、人に話すときには誰もが自分に都合よく「編集」していたりする、といった事実に基づく。
「研究者」であり「当事者」であることの、アンビバレントな感情や、逆に自身が「当事者」ではない問題に向き合うときに(本書では水俣)、これまで「当事者」として「支援者」や「研究者」へ向けていた呪詛が自分自身に突きつけられた時の心情などが、つづられていて興味深い。
「哲学」の域で、少々理解が難しいところもあったが、読みやすく、性暴力に限らず、あらゆる事件や事故、災害、戦争の加害と被害など、「当事者」と「そうでない者」の関係性や「語り」についても言えることが多々あるのでは―と思った。
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性被害者を名乗りでること、こうした被害者を支援する人たちとの関係性、被害者同士の支援などなど、普段考えもしないようなことを考えさせられる本であった。著者の研究者としての視点と被害者としての当事者性のバランスが見事に取れている。読んでいて、著者の当事者としての苦悩がダイレクトに伝わってくる。ある意味固唾を飲んで読み進めた。当事者ならではの視点、感覚について、考えさせられることが多かった。単なる被害者の記録ではなく、第三者的な視点がうまく組み合わせられている稀有な本だと思う。
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響きすぎて、読み終えてからしばらくの間、言葉が出てこなくなりました。
「共振」が起きていたのだろう、と思います。
「人間の記憶は、秩序と混沌の両方があることで完全になる」という言葉に深く納得しました。
言葉にできることと、言葉にならないもの。どちらもあっていいし、どちらもあるのが人間なのだ、と受け取りました。
「弱さの源泉はどこにあるのか」を探っていく、という問いに、「その観点はなかった!」と新鮮な気持ちになりました。安心安全が確保された場でないと探りにくいものですが、それを知ることができれば、自分の身を守りやすくなるだろうと感じました。
先輩や同僚のお話を聴いているような親しみや、読者への思いやりを感じる一冊でした。
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はじめに。からすごい本読んでるかもと震える。
わたしの中で、ずっとずっと持て余している感情があって、その感情は悪い方向に進んでるなって思ってるんだけど、それを堰き止めてくれた感じの本。
上間先生もそうだけど、自分のライフストーリーかけるのすごいなぁ…、どれくらい時間をかけたらこうなれるのかなぁとひとり泣く。
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当事者性ってなんだろうと、非当事者だったらどこまで行っても理解することなんか無理だと思っていたけど、
それが著者の言葉でちゃんと書かれている。
私はなんの当事者でもないけど、この本を読んで良かったと、単純に思った。
著者は強い人である。
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「私の話を信じてほしい」自分の記憶が正しいのか、もう自分でもわからなくなった筆者は精神的に不安定になり、自暴自棄にもなる。助けてほしい、最後まで話を聞いてほしい、そう思う気持ちに触れると、読んでいるこちらも心が震えてくる。
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すごい。ぐいぐい読ませる文章に圧倒され一気読み。当事者、支援者、研究者、サバイバーなどクルクル立ち位置が変わっている。言語化するのに大変だったのだろうとしか言えない。私から言える事は最後まで読んだという事だ。大前提として、小松原さんという人に感謝したい。
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「当事者は嘘をつく」という題で書かれた本だが、こんなに嘘のない本はない。
当事者が語る言葉だろうがなんであろうが、事実の再現は不可能だという大きな壁に著者が一人で責任を負い、その葛藤をそのまま、いかに嘘をつかずに書くか、七転八倒しながら自分に誠実であろうとしている。
読みやすい文体だが、著者がそうやって全身全霊でぶつかってくるので、読むのは苦しく重く、ぐったりする。
読み終わった後、これを書くメリットも大きいだろうが、デメリットもまた少なからずあるだろうと思った。もしできるなら、それらから、この著者を守りたいような気になった。そんな必要は無いのは承知の上で。
ノルウェーでの、支援者が「わかっている」という経験をした著者がこう思うくだり。
「私がこの国に生まれていたら。オスロのメディエーションセンターに駆け込んでいたら。かれらは私の加害者と話したいという気持ちを理解し、どうすれば対話が可能であるか一緒に考えてくれただろう。もし対話が不可能だったとしても、その悔しさをわかちあってくれただろう。彼を赦しても、赦さなくても、その話を聞いてくれただろう。そうしてくれる人がいるだけで、十分だったのに。」
「単純な話だった。私が日本で痛切に支援者に『わかってほしい』と思ってしまうのは、かれらが「わかってない」からである。支援者が『わかっている』のであれば、そもそも私の『わかってほしい』という葛藤も生まれない」
彼女の苦しみの何割かは、この日本に生まれたことにある。日本に生まれた女性としてここは著者に共振した。
そして、水俣に研究を移した著者は、初めて当事者であることから離れる。
そこで、当事者以外が全部のことを知るのは無理だ、という当たり前のことに気づく。
「『あなたはわからない』もまた、『わかってほしい』の裏返しで、相手に対する期待である。『当事者』は『当事者でない人』に対する、その期待を捨てていくことで、生き延びていくのかもしれない。」
水俣は奥深い。水俣だからこそ、著者に教えることができたのではないか。他の研究では、こうはいかなかったと思う。
ところで、読書をする中で、こうやって水俣が浮上することがある。こういう形で。その度、石牟礼道子の存在が浮かび上がる。
水俣は何なんだ?
水俣で何があったのか、どういう支援と研究がそこにあったのか。
もしかして最もあるべき理想の人間の在り方が存在したところなのかもしれない。「赦し」が果たしてそこにはあったのか。
「魂込め」(まぶいごめ)の風習は沖縄だけでなく、水俣にもあるということを初めて知った。これもまた、「赦し」に限りなく近いところにある心性なのかもしれない。
今回もまた、著者の軌跡から、水俣に近づいたように思う。
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ショッキングなタイトルだ。性暴力被害をうったえる者は、必ずと言っていいほど「嘘を言っているのではないか」という疑いにさらされる。だからこそフェミニズムの運動は、まず被害者の言葉をそのまま受け止めることを何より重視してきた。だのに当事者が、自らの語りを疑っているというのだから。
著者にとって性暴力被害とは、「わたしは真実を述べる者である」と言いうるような語る主体の枠組みを崩壊させるような経験としてあった。それを著者は「思考の海で溺れていた」とも表現している。言葉をまとめあげて自らの語りにするような枠組みが崩壊してしまった状態、といえるのだろうか。そして、そのような激しい苦痛のただ中においてのみ可能なものが「赦し」なのだと。
あまりにも直観に反する議論にも聞こえる。正直、デリダの議論も、著者の主著もまだちゃんと読めていないわたしには判断が難しいのだが。それでも著者にとってデリダが提示した「赦し」の可能性は、たとえ実際の加害者にはまったく届かないものであったとしても、むしろだからこそ、その後の研究の原動力になっていったという。
だがその道はストレートではない。むしろ難解な「赦し」論以上に、本書でとても興味を惹かれたのは、いったんばらばらになってしまった「わたし」が語るための枠組みを取り戻す助けとなったのが、自助グループにおける「わたしたち」のための「回復の物語」だったということだ。「わたし」の固有の経験を語ろうとすることを放棄し、「わたしたち」のための、ある意味では型にはまったストーリーをともに作りだすことが、自分自身が生き延びるために必要な物語を作る方法であったのだというのである。人が生きるためには、「わたしの物語」といえるようなものが必要なのだ。それが「真実」であろうとなかろうと。本書を読んで、もっとも深く心に残ったのは、このことだった。
そしてもうひとつの重要な点が、支援者や研究者に対する著者の怒りである。引用されているマツウラマムコの論文が指摘するように、被害者を無力化する支援者の傲慢は、わたし自身、性暴力被害者支援の末端に少しだけ関わっていたこともあるから、そういう面があることを知ってはいた。しかし、その暴力性の本質について、自らを開示することなく、当事者にかわって性暴力や被害者について「真実を語る」ことができる自分たちの特権性を疑わない、その主体性の位置にあるということを、あらためて考えさせられる。
被害者が共同作業を通して創り出す「回復の物語」に対して、著者は、支援者たちが支配する語りを「回復の言説」と呼んで区別している。首尾一貫した後者の言説は、「取り乱し」混乱する当事者が語ろうとする力をふたたび奪いとってしまうからこそ、拒否されねばならないのだ。
そのように考える著者もまた、自らが研究者となり、また当事者とはいえない水俣病の問題に関わっていくなかで、自分が「わからない」非当事者でもあるということとの折り合いをつけていくことになる。
他者の語りを奪い取ってしまいかねない支援者や研究者の特権は、たぶん究極的には、研究者だけの問題ではないとも思う。取り乱して首尾一貫した語りのできない位置からの「あなたにはわからない」という絶望/切望を「わたし」は聞けているのか、自分の取り乱しを受け入れられるのか。著者の勇敢な自己開示に問いかけられる。
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加害者との闘い、支援者との闘い、当事者との連帯してそれぞれへの赦しと距離を検討して何も手に入らなかった著者が、自分と闘う現在進行形の物語(ナラティブ)と捉えた。その勇気に心を打たれた。
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少し間をあけてだが、一気に読んだ。
薄々感じている私たち支援者としての欺瞞を、まざまざと突きつけられた。痛みを感じながら、むしろしっかり突きつけられたかったのだと読後に気がつく。
私の想像を越える痛みを抱えながら、著者は自身の被害体験と研究者としての揺らぎの体験を世に出してくれた。果たして支援者である私(たち)はそれにどう応えられるのか、宿題をもらった気がする。
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性暴力の被害当事者である筆者が、加害者との対話によって「赦し」について考え、また、絶対に分かることのできない「支援者」「研究者」とのかかわりの中で苦しみながら、かれらとどう関わり、当事者としてどのように生きていくのかを考える。
当事者としての立場を明らかにして研究を行うのか、立場を隠しながら研究を続けるのかについての葛藤も興味深い。
また、水俣病との出会いの中で自らの非当事者性、他者性に気付き、それが翻って自らの研究態度に影響を与えていく。
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