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- カテゴリ:一般
- 発売日:2014/02/19
- 出版社: 以文社
- サイズ:20cm/272,26p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-7531-0319-5
- 国内送料無料
紙の本
日本を再発明する 時間、空間、ネーション
文化や人種、エスニシティ、文明、日本そのものの背後にあるカテゴリーを掘り下げ、自明視された均質な日本像を覆し、複数の伝統が時間と空間のなかで織り直され境界線を越えていく姿...
日本を再発明する 時間、空間、ネーション
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商品説明
文化や人種、エスニシティ、文明、日本そのものの背後にあるカテゴリーを掘り下げ、自明視された均質な日本像を覆し、複数の伝統が時間と空間のなかで織り直され境界線を越えていく姿を展望する。【「TRC MARC」の商品解説】
〈グローバル時代の日本研究の基本図書〉
文化、民族、人種など社会研究の基本概念を近現代日本に適用しながら批判的に再検討。自明視された均質な日本像を覆し、複数の伝統が時間と空間の中で織り直され境界線を越えていく姿を展望する。日本研究の基本書ついに邦訳!【商品解説】
目次
- 日本語版への序文
- ■第1章 はじめに
- ■第2章 日本
- 三つの視点 華夷秩序と差異の論理 国民国家と同化の論理
- モダニティ、文明、同化 時間、空間、差異
- ■第3章 自然
- 徳川時代の日本の自然観 平賀源内と自然の開発
- 自然と国学:本居宣長の「自然神道」 佐藤信淵の著作における〈開物〉
- 明治日本における自然と工業化 自然と工業化への批判
- ナショナル・アイデンティティと環境:〈風土〉の概念
著者紹介
テッサ・モーリス=スズキ
- 略歴
- 〈テッサ・モーリス=スズキ〉1951年イギリス生まれ。バース大学大学院博士号取得。オーストラリア国立大学教授。専攻は日本経済史、日本思想史。著書に「批判的想像力のために」「北朝鮮で考えたこと」など。
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書店員レビュー
外からしか見えない全体像
ジュンク堂書店難波店さん
外から見ることによって発見できるものがある。外からしか見えないものもある。日本の中にいては、日本の全体像は見えない。離れすぎてもその像は霞んでしまう。イギリスに生まれ、オーストラリアで暮らし、日本人男性と結婚し、日本の近現代史及び東アジアを研究する女性である著者は、絶好の立ち位置にあるといっていいかもしれない。
日本列島という自然がその範囲を固定的なものにしているように見えながら、近代におけるヨーロッパ文明の脅威と流入、国力の増強と軍部の台頭、領土拡大、敗戦、戦後の奇跡的な復興、世界における存在感の増大…、めくるめく状況の変化の中で、内外の〈日本〉像も大きく変遷してきた。
近代的なネーションとしての〈日本〉の形成段階(明治維新期?)で、世界はすでに帝国主義=植民地獲得競争としてのグローバリゼーションの時代に入っていたから、内外の〈日本〉像は相互に干渉しないではいなかったし、日本人による〈日本人〉の自己像もまた、それ以前から「単一民族」と「雑種文化」の両極に大きく振れ続けていた。そして、どちらの極においても、それは〈日本民族〉の優秀性の根拠となってきたのだった(戦後は「単一民族」の極に寄り続け、「マイノリティ」を消し去る傾向が強い)。
もちろん、これらのことは〈日本〉〈日本人〉〈日本文化〉に限った傾向ではない。世界のどの国家、民族、文化、文明においても、同質性と異質性、相対主義とリニアな進歩史観がせめぎ合い、混交してきた。そうした流れの中で、特定の文明を他の文明より「進歩的」と規定する傾向は常に免れがたく、数々の悲劇の原因となった。
「単一民族」も神話だが、「雑種」を規定してもきりがない。〈東北系日本人〉〈九州系日本人〉〈沖縄系日本人〉〈韓国系日本人〉…がいるのではなく、一人一人が「多くの知識の流れや覆うのアイデンティティの側面が交差する点」なのである。そのことを理解することこそ、グローバリゼーションの時代に共生を求めて「日本を再発明する」道なのだ。
「マジョリティ」による「マイノリティ」の寛容によってではなく、誰もが「マジョリティ」や「マイノリティ」という傲慢なイメージを生み出すカテゴリー化に異議申し立てを行う“ことがデモクラシーの肝要と説く、著者の総括に共感・同意する。
外からしか見えない全体像
ジュンク堂書店新潟店さん
外から見ることによって発見できるものがある。外からしか見えないものもある。日本の中にいては、日本の全体像は見えない。離れすぎてもその像は霞んでしまう。イギリスに生まれ、オーストラリアで暮らし、日本人男性と結婚し、日本の近現代史及び東アジアを研究する女性である著者は、絶好の立ち位置にあるといっていいかもしれない。
日本列島という自然がその範囲を固定的なものにしているように見えながら、近代におけるヨーロッパ文明の脅威と流入、国力の増強と軍部の台頭、領土拡大、敗戦、戦後の奇跡的な復興、世界における存在感の増大…、めくるめく状況の変化の中で、内外の〈日本〉像も大きく変遷してきた。
近代的なネーションとしての〈日本〉の形成段階(明治維新期?)で、世界はすでに帝国主義=植民地獲得競争としてのグローバリゼーションの時代に入っていたから、内外の〈日本〉像は相互に干渉しないではいなかったし、日本人による〈日本人〉の自己像もまた、それ以前から「単一民族」と「雑種文化」の両極に大きく振れ続けていた。そして、どちらの極においても、それは〈日本民族〉の優秀性の根拠となってきたのだった(戦後は「単一民族」の極に寄り続け、「マイノリティ」を消し去る傾向が強い)。
もちろん、これらのことは〈日本〉〈日本人〉〈日本文化〉に限った傾向ではない。世界のどの国家、民族、文化、文明においても、同質性と異質性、相対主義とリニアな進歩史観がせめぎ合い、混交してきた。そうした流れの中で、特定の文明を他の文明より「進歩的」と規定する傾向は常に免れがたく、数々の悲劇の原因となった。
「単一民族」も神話だが、「雑種」を規定してもきりがない。〈東北系日本人〉〈九州系日本人〉〈沖縄系日本人〉〈韓国系日本人〉…がいるのではなく、一人一人が「多くの知識の流れや覆うのアイデンティティの側面が交差する点」なのである。そのことを理解することこそ、グローバリゼーションの時代に共生を求めて「日本を再発明する」道なのだ。
「マジョリティ」による「マイノリティ」の寛容によってではなく、誰もが「マジョリティ」や「マイノリティ」という傲慢なイメージを生み出すカテゴリー化に異議申し立てを行う“ことがデモクラシーの肝要と説く、著者の総括に共感・同意する。