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紙の本
博物館の政治学 (青弓社ライブラリー)
著者 金子 淳 (著)
1940年代の日本。「皇国民の錬成」を目標とする2つの博物館構想があった。天皇即位などの皇室儀礼なども視野に入れながら、植民地主義とナショナリズムとを展示する権力のモニュ...
博物館の政治学 (青弓社ライブラリー)
博物館の政治学
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商品説明
1940年代の日本。「皇国民の錬成」を目標とする2つの博物館構想があった。天皇即位などの皇室儀礼なども視野に入れながら、植民地主義とナショナリズムとを展示する権力のモニュメントとしての博物館を丹念に検証する。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
金子 淳
- 略歴
- 〈金子淳〉1970年東京都生まれ。東京学芸大学大学院教育学研究科修了。多摩市文化振興財団(パルテノン多摩)学芸員。博物館史研究会会員。
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幻と消えた戦時下の博物館計画に映し出される国家の意思と行政の思惑。
2001/11/05 22:16
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投稿者:上野昂志 - この投稿者のレビュー一覧を見る
博物館は、決してニュートラルな文化的・教育的施設ではない。それは著者がいうように、「大英博物館の例を持ち出すまでもなく、近代博物館はいわば権力の象徴であった。収集から展示という一連のプロセスそのものが権力を体現するものとなり、植民地主義的な支配/被支配の関係のなかで、博物館は支配者側の格好の道具となり得た」のである。ここに、「博物館の政治学」という言葉に込められた本書の基本的な視座がはっきりと示されている。
そこから、1940年代の日本で計画され、敗戦によって立ち消えになった「国史館」と「大東亜博物館」という二つの博物館計画が俎上に載せられる。これら幻の博物館については、いままでもいくつかの本で触れられたことはあるが、その計画の発端から結末に至る過程を綿密に追ったのは、本書がはじめてではないか。いずれにせよ、そこからは、あの時代の空気が濃厚に漂ってくる。
たとえば国史館。これは、紀元2600年祝典とからんで大きく膨らんでくる。もっとも、紀元2600年などといっても、戦後生まれの人にとっては、何のこっちゃ? であろうが、これは、神武天皇紀元で数えて1940(昭和15)年が2600年に当たるということで、国を挙げて大々的な祝賀式典が行われたのである。いや、たんにお祝い騒ぎがあっただけではない。このときを期して、すでに泥沼状態だった日中戦争の前線で無謀な攻撃が行われ、その犠牲者が、紀元2600年を誇る日本の鏡であるかのように賞賛されたりもしたのだ。ちなみに、この年生まれの人に「紀」の字のつく名前が多いのは、そのためだ。記紀神話に全面的に依拠した「国体史観」にもとづいて、建国以来の天皇制の歴史を博物館というかたちで展示しようとした「国史館」計画も、そういう風潮のなかで膨らんだのである。
大東亜博物館も同様である。これは、1941年の真珠湾攻撃に始まる「大東亜戦争」が、緒戦で勝利したことから「南方科学ブーム」が起こり、そこから大東亜博物館建設という計画が生まれてくるのである。これは、東京に博物館を建てるだけでなく、シンガポールやジャカルタにもその分館を作るという壮大な計画にまで発展するが、結局は、戦局の悪化によって幻と消えてしまう。
これらを見ると、博物館という存在が、いかにそのときどきの国家のイデオロギーに染められているかということがよくわかるが、本書を読んでいて興味深いのは、これらの計画が、それに携わる行政機関や人のさまざまな思惑によって引きずられ、変形していく様子がわかることである。この二つの計画が幻に終わったのも、戦時下の経済事情の悪化というだけでなく、省庁間それぞれの思惑や利害をかけた綱引きの結果という面も少なくない。そして、それは現在においても少しも変わってない。 (bk1ブックナビゲーター:上野昂志/評論家 2001.11.06)