「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
商品説明
理想の書評とは何かを語りつくすロングインタヴュー。ホメロスからジョイス、藤原定家、谷川俊太郎、村上春樹、山田詠美まで74冊の本の魅力を論じる書評傑作選。また、近代日本の100冊と千年紀のベスト100作品を選ぶ。【「TRC MARC」の商品解説】
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
書評集というのは時にはゴミの山に見えたり、宝の山に見えたりします。
2005/10/28 02:38
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:和田浦海岸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本とのつきあい方には、まだまだ未開発の発想がありますね。
たとえば、珍しい新刊の余白ページをちぎって、隣りの人の質問に答えるメモがわりにしたりする。そんな本とのつきあい方もあるわけです。丸谷さんはどうか?
部厚い本のハードカバーがはずされ、五冊分ぐらいにバラバラに破いて置いてある。
「ーーなんでこんなに破いたんですか」という質問に
丸谷才一さんは答えております。
「これは寝ころんで読むために。・・ベッドで寝ころんで読むときも、机に向かうときでも、破いてやると、とても楽なんですよ、特にA5判の本は。僕は破いて読むし、色鉛筆その他で書きこむし、・・・本はみな、実用品なんです。」
こうして
破り読みから、エキスを抽出したような書評本が、今回紹介する本です。
魅力ある書評がつまっているのです。ですが、いけません。
普通の読者が見ると、本の残骸の山に見える時がある。
さまざまに破り落書きされた紙の束にしか見えない時がある。
読者は残酷ですから、そうなったら宝の山も、ゴミの山に見えてる。
だいたい書評の山をまとめて一冊にしてあるわけです。
見る人によっては、ゴミの山にしか見えないわけです。
たとえばです。新明解国語辞典で「読書」の項目を引くと、
「・・寝ころがって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、勝義の読書には含まれない」とあります。
寝ころんで、しかも本を破いて読む人の書評なんか読めますか?
それにです。丸谷才一なんて名は、小学校・中学校・高校の国語教科書のどこを探してもその人の文章など載っていないじゃありませんか。そんな人の書評を読んでもしかたないじゃないか。
つまりですね。国語教科書でしか本に接しない若い人にとっては丸谷才一なんて存在しないのです。その存在しない人が書いた書評の山なんで、ちり紙交換にだしてもいいようなゴミの山にしか見られない。この本のお終いの方にある五人で選んだという近代日本の百冊リスト。これなんて教科書に載っている近代日本文学史のリストにないものばかりで、おまけに現在入手困難な本を並べている。こんなのは大学の試験にも出てこない本ばかり並べて悦にいっているだけじゃないか。とまあこんな風に見ることも可能なのであります。
コツコツと書きためた書評が、新聞紙の回収に並べられる時というのは、まあ、こんな感じでしょうか。
その回収にまわされる前に、
ちょいとこれだけでも聞いてください。
というように本の最初に談話が載せてあります。
一箇所だけ引用しましょう。
「書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです。・・友だちなんだから手紙以前に友好関係が確立しているわけです。好みもわかるし、気質もわかる。何よりも、相手を信用している。ところが書評というものはたんに文章だけで友好関係、つまり信頼感を確立しなきゃならない。それは大変なことなんですよ。その親しくて信頼できる関係、それをただ文章だけでつくる能力があるのが書評の専門家です。その書評家の文章を初めて読むのであっても、おや、この人はいい文章を書く、考え方がしっかりしている、しゃれたことをいう、こういう人のすすめる本なら一つ読んでみようか、という気にさせる、それがほんものの書評家なんですね。・・・」
ところで、
ほんものの書評家といえば、
2005年10月23日毎日新聞に鹿島茂の書評が載りました。
それが書評のお手本のような文なのでした。読み逃したのですか。
残念だなあ、これが単行本になるには、すくなくとも半年は待たなけりゃならないだろうなあ。ひょっとして本にはならないかもしれない。その書評の題は「至芸の語り口、全読書人に贈る書評集」とありました。
紙の本
セピア色の書評たち
2006/03/25 21:42
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
「書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです。」(p.28)その通りだと思う。「1 書評のレッスン」には、書評を書くさいの役立つヒントがいっぱい述べられている。参考にして、心掛けたい。
旧仮名遣いに執着する気持ちは分かるが、すでに旧仮名遣いでものを書ける人口はほとんどなく、読める者さえ半数を切ったのではないかと思われる。もう新仮名遣いを認めるしかないのではないか。いかに優れた読み物も読まれなければ意味がないし、非常に優れた書物であっても、専門家以外には、いずれ現代語訳でしか読まれなくなるのだから、現時点で分かりやすい新仮名遣いで問題ないと思う。
著者は、「これは詰まらないから読むのはよせ、とお書きになっているのはない」とのことで、「よほど世間で大評判になっていて、これを許しておいてはならないというような場合」(p.37)しか書かないそうだが、作家とは違い、普通は少ない予算の中でやり繰りして本を買っている。そのことを思うと、[この本は買わないほうがいいよ。]という書評も必要なのではないかと考える。
「2 74の書評」は、筒井康隆や立花隆の書評本と同様、どうしてプロの作家はこうマニアックなのかと思った。私が思うに過半は一般の読者には無縁のものだ。だから私のような素人書評家の存在が許されるのかもしれない。
「4 名作を選ぼう」の「近代日本の百冊を選ぶ」(p.358)や「千年紀のベスト100作品を選ぶ」(p.378)はけっこう参考になる。千年紀のほうには少し日本の作品が多すぎるきらいはあるが、日本人向けにはこれでもいいだろう。それぞれの著者の代表作というか好きな作品には少し違いはあるが、私もよく似た嗜好である。近代日本の101冊目に、あと著者の『裏声で歌へ君が代』を入れて上げたいと思う。
ともあれ、書評をしている人には、必読の書である。
紙の本
やっぱり丸谷さんの書評は素晴らしい!
2005/11/19 11:51
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ブルース - この投稿者のレビュー一覧を見る
丸谷さんの書評を読むことは、本好きな者にとって至福の一時である。何しろ、驚くほどの博識をバックにした独特なユーモアと語り口には、えも言われぬ魅力があり、芳醇なウイスキーを味わうような愉悦感があるのだから。今まで、著者の本でどれだけ多くのことを教えられ、素晴らしい本との出合いを提供してもらったか計り知れない。
本書は、丸谷さんがこの数年間に書いた長短様々な書評を中心に編まれている。刊行と同時に書店で買い求め早速読んでみたが、
相変わらず素晴らしい書評ばかりで、所謂丸谷節をたっぷりと堪能した。
本書を読んで改めて思ったことは、丸谷さん特有の書評スタイルの見事さである。これには、先に挙げた独特な語り口なども含まれるが、それ以外にも幾つかのことを挙げることができる。
その一つに、書き出しの巧さがある。例えば、イギリスの女性作家、バイアットの小説を論じた書評では、『女の書く小説の魅力は何と言ってもディテイルである』、またオブライエンの小説の書評では、『実りの多い年といふのはあるものだ。1939年の英語小説は、まるで両次大戦間の終わりを記念するように花やかだった』というように始まっている。こんな風な魅力的な書き出しから始まっていると、どうしても後を読まずにはいられない。
また、書き出しと同じくらい丸谷さんの書評で惹きつけられるのは、書評のタイトルである。この書評集の目次を見ていると、機知とユーモアに富んだタイトルが目白押しに並んでいる。『馬賊とブラジャー』という短評があるが、これなぞ全く結びつきそうもないもの同士を一つにした名タイトルであろう。本書のタイトル自体もかなり秀逸である。これは、丸谷さんが、様々な色のインクを使い分け書評を書くことから付けられているようだが、人目を惹く洒脱なタイトルと言えよう。
丸谷さんの書評スタイルと並んで、この書評集が魅力的なものとなっているのは、何と言っても書物の選び方にある。
作家らしく文学関係の書物が多いが、そのような中に混じって、一般的ではない書物まで丁寧に書評に取り上げられているところに著者の真骨頂がある。例えば、旧約聖書と新約聖書の新しい翻訳本を称揚しているところなどその好例であろう。聖書の翻訳は、戦後になって何回か出されていて、明治期に刊行された文語体のものを超えるものは無いと言われていたが、先頃岩波書店から刊行された翻訳本はそれを凌駕しているという。このような文化的に大きな意味を持つものの、一般にはあまり注目されない書物をいち早く目配りし、的確に文章を引用しながら正当に評価しているのは、丸谷さんならではと思う。
このような硬派な書物に交じって、所謂ベストセラーとなった本を書評の対象としているのが興味を惹く。筒井康隆『私のグランパ』、渡辺淳一の『失楽園』などが本書に取り上げられている。一見すると丸谷さんの好みではないように思われるが、このような本も書評の対象として丁寧に評価している。
世に書評家と呼ばれる人たちは多いが、丸谷さんのように懐の深く、読後豊かな印象を齎してくれる書評家は他にはいないであろう。この先も、尽きることなく丸谷さんの書評を読み続けたいと思わずにはいられない。