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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2001.6
- 出版社: 松籟社
- サイズ:20cm/356p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-87984-216-8
紙の本
文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校
著者 高田 里惠子 (著)
あなたは、ヘッセ「車輪の下」の最初の翻訳者がどういう人物だったか、知っていますか? 「二流」の男たちの悔しさ、怨念、悲哀、出世欲、自覚なき体制順応から見た、「文学部」の構...
文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校
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商品説明
あなたは、ヘッセ「車輪の下」の最初の翻訳者がどういう人物だったか、知っていますか? 「二流」の男たちの悔しさ、怨念、悲哀、出世欲、自覚なき体制順応から見た、「文学部」の構造とそのメンタリティ。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
外国文学者の二流性を心優しく描き出した好著
2007/04/27 22:11
9人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
三島由紀夫(本名・平岡公威)はもともとは官僚だった。東大法学部から大蔵省に入ったのだからエリート中のエリートである。父・平岡梓は農林省の官僚であったが、他省庁の高官が大蔵省の平役人に頭が上がらないのが悔しくて、息子は絶対大蔵省に入れようと思ったと『倅・三島由紀夫』で述懐している。しかし残念ながら息子はせっかく入った大蔵省をすぐに辞めて作家になってしまった。
その三島は自己批評の達人であった。自分を客観的に捉えるのみならず、しばしばユーモラスに戯画化した。東大法学部や大蔵省を最高の価値と信じ切っている人間にはそうした真似はできない。真のエリートとは、距離を置いて自分の姿を見る能力を備えた人のことである。学歴自慢なんてのはエリートの持つ静かな自信とは対極の行為でしかない。
漱石もその点では変わらない。明治期に数少ない国費留学生として英国に渡ったのだから超エリートである。しかしその彼は『吾輩は猫である』で自分に類した学歴エリートや文化人を戯画化して見せた。
高田里恵子さんの『文学部をめぐる病い』は6年前に出て、マイナーな出版社の本であるにもかかわらず大変な評判を呼んだ。最近文庫化もされたから、評価が定着したものと見て良い。内容を一口で言うと、外国文学者というものの二流性に焦点を当てている。
一高・東大を出ながらなぜ二流なのかというと、法学部出のように直接権力に関わる仕事をするわけではなく、作家のように直接自分の産物で勝負するわけでもなく(外国文学者は翻訳を出すが、所詮は他人の作品ある)、なおかつ哲学者のように食えない覚悟でやるのとは違い、語学教師の職が昔は比較的多かったので食っていけてしまうからである。
二流であるということはしばしば滑稽さを伴う。本人が生真面目であればあるほどそうなのである。本書は決して意図して滑稽さを出そうとしたものではないが、読み終えてみるとどこか三島の自己批評や漱石の文化人戯画化に通じるような印象がある。けれどもそれは一方的に対象を揶揄するものではない。自分もドイツ文学者である著者は、1〜3世代前の同業者を描きつつ自分自身の自画像を描き出したのである。そこに、「おもしろうてやがて悲しき」と言いたくなる本書の深い味わいがある。
高田さんの文章は実に平明で、物事の判断も公平であり、間然するところがない。にもかかわらず本書は出た当時から奇妙な誤読につきまとわれており、出版直後のA新聞の書評では、某女性文筆家に権威主義的男性学者批判の書だと賞賛されてしまった(ちなみに同一人物が本書文庫版の解説を書いているが、再読してやっと誤読に気づいたらしい)。
BK1にも複数の書評が寄せられているけれど、やはり若干問題があるように見受けられる。今は故人となった編集者が東大閥批判の書と思いこんでいるのも困りものだが、大学教師になった途端ドイツ文学の衰退に気づいたから書いたなんて書評も噴飯物である。著者は1958年の生まれだから、大学教師になったのは80年代半ばになってからだろう。ドイツ文学が多少なりとも世間で注目されたのは、古井由吉がムージルに似せた作風の小説で芥川賞をとった1970年頃が最後である。著者はそれ以降に大学で学んでいるのだから、ドイツ文学など流行らないことは重々承知の上で専攻を選んだはず(そういう選択もあるということが理解できないのでは、やはり人間を知らないと言うしかない)。それは著者の肩の力の抜けた文章を読んでも自然に感得されるはずだが、そして「二流の人間」の上記の定義も読めば分かるはずだが、にもかかわらず誤読してしまうのだとすれば、世の中には本を読むのに根本的に向いていない人も存在するということの証左なのかも知れない。
紙の本
「文学部」という病
2007/04/26 18:29
15人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私は「文学者」を父に持ち、芸術家(書道家、彫刻家、大学教授、画家など)に囲まれて育った。いずれも世間に名の通った名士であり、彼らが国立にある私の自宅によく参集してくれたお陰で、私は「芸術家」「文学者」の人と成りを身近で観察する機会に恵まれた。著者は一高・東大は日本社会の特権的なエリートコースながら、その中で、敢えて文学部を選択するということは「官僚や高級サラリーマンとしての出世をあきらめる」ことを意味するが、それを「文学部志望者」はちっとも後悔していない(なぜなら文学という、俗世間一般より高い世界へ近づくほうが、より高等であり、俗世間での肩書き・金銭など人生において大した意味は無い=武士は食わねど高楊枝)などというが、これはウソである。芸術家も金銭を欲する。死ぬほど欲する。だから日動画廊が儲かるわけである。三越の展覧会が繁盛するわけである。ところが作品を作る才能と、それを売り込む才能は別物で、私が最初に発見したのは、成功した芸術家の平均像は一流の芸術家である以上に一流の営業マンであるという事実だ。私は文学部出身者を軽蔑している、蔑んでみている。私は超一流大学の法学部を卒業したが、高校時代から、受験勉強に興味の無いような振りをして、誰も読まないような文学作品の知識をひけらかしては議論を吹っかけてくる変な野郎(同級生)の進学先が、揃いも揃って「文学部」だったこと、そしてその文学部の偏差値が法学部や経済学部に比べはるかに低かったことも、私が文学部を低く見るようになった大きな原因ではある。しかし、何より大きかったのは父の周りに集う「本物の文学者たち」の行状である。口では経済人や政治家を軽蔑し低く見るような口吻を弄しながら、実際には金に汚く、金銭の多寡で人を品定めするような輩。あるいは偽善に満ちた生活態度を可能しているのが親から受けついだ莫大な財産によるものだったりする輩。誠実で真摯に文学を追求している人に限って生活力が無いという現実。こういうのを目の当たりにしてしまったので、どうしても文学関係者を好きにはなれないのである。彼らの言うことを信用できないのである。著者はドイツ文学好きが高じてドイツ文学を教える大学教授になってしまった女性である。なってみた途端、日本では文学は崩壊しており、中でもドイツ文学人気は地に落ちており、それが残念でならず、かつて日本にあった「ドイツ文学黄金時代=旧制高校時代」を振り返ったものである。本書の主題は「二流ということ」だそうだが、その定義を読むとたまげる。「名も無き大衆ではなく、さりとて超有名人でもないこと」というのだから。つまり東大から財務省のキャリア官僚になっても、東大から日本銀行に勤務しても、一橋大から三菱商事に勤務しても、社長にならなければ皆さん二流というわけだ。相変わらずの高橋節である。有名進学校から有名大学を経て一流官庁一流企業に勤務していない限り、高橋の本は読むなと私が思う所以である。ついでながら、人間を理解する道は文学だけでない。商売も政治も人間を理解できなければ行うことは出来ない。従って政治家の伝記や政治評論を読んでいるだけでも人間を理解することは出来るし、経済や商売の本を読んでいるだけでも人間は理解できるのである。「文学や文化を理解できない奴は、人間を出来ない奴」などというのは、いかにも世間知らずの文学好きが言いそうな事であるが、思い上がるのもたいがいにしろと言いたい。
紙の本
著者の判断基準の凡庸さ
2002/09/06 00:05
8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:小谷野敦 - この投稿者のレビュー一覧を見る
あちこちで評判のいい本である。確かに、前半部は、実証的な研究としても面白いし、ドイツ文学だけでなく他の分野でこういうことをやったら面白かろうと思う。が、著者が随所で見せる厭味に、ある偏向がある。たとえば蓮実重彦や柄谷行人の言うことなら無邪気に肯定してしまい、保田與重郎の「ウェルテルは何故死んだか」を「分かりきったことを書いた」と評しているが、ちゃんと読んだとは思えない。こいつはバカにしていい、という判断が通俗的で、それが中野孝次の扱いに如実に現れている。著者は蓮実の、凡庸の反対は愚鈍だという規定を受け入れているが、中野は十分愚鈍ではないのか? さらに中野の世代を扱うなら、なぜ東大教授でもあり作家でもあった柴田翔は出てこないのか。直接の師匠だからか? 歯に衣着せぬようでいてちゃんと着せている。それが嫌らしい。なお安原氏の書評は、なぜ芳賀徹が出てくるのか理解できない。書評はその本に出て来もしない人物を個人攻撃する場ではあるまい。
紙の本
諸悪の根源「東大解体」を主張する人間ゆえ、本書を読みながら、何度も快哉を叫んだ
2001/12/08 03:15
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:安原顕 - この投稿者のレビュー一覧を見る
先日、PCM放送のぼくのジャズ番組「ギンギン・ニューディスク」のゲスト村井康司が、スタジオに奇妙な本を持ち込んだ。「何?」と訊くと、「まだ半分だけど、すこぶる面白い本」と言う。早速、放送で主たる内容を語ってもらい、なるほど面白そうなので、買おうと思うが、薄利多売原稿に追われ、大型書店に行っている暇がない。そこで例によって図々しく、版元に電話をし、「書評用」にと送ってもらった。村井康司の持っていた本は2刷、ぼくが贈られたのは3刷だった。6月に出て、9月に3刷など、昨今の出版界では滅多にあり得ぬ数字である。版元の松籟社についても書いておくと、主にドイツ文学の翻訳に意欲的な出版社で、『ムジール著作集』(全9巻)、トーマス・マンの兄『ハンリヒ・マン短篇集』(全3巻)、19世紀スイス最大の作家と言われる『ケラー作品集』(全5巻)、『ハイネ散文作品集』(全5巻)、『シユティフター作品集』(全4巻)、その他、イタリアの現代作家イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』『砂のコレクション』『パロマー』などを出している。全国の図書館の皆さん! もし買っていなければ、『ムジール著作集』(全9巻)だけでも購入して下さい! それはさておき、『文学部をめぐる病い』の話。なるほどこれは奇書だ。口汚い表現で簡言すれば、昔の東京帝国大学ドイツ文学部、及びそこを出て旧制高校(現在の東大駒場など)の教師になった連中、いかにクソかを精緻に論証した労作なのだ。中でも槍玉に上がっているのは高橋健二である。彼はヘッセやケストナーの翻訳者として著名、晩年はペンクラブ会長もした。ぼく自身も、究極の無脳男祖父が旧制一高から東京帝大出身者、倒産した中央公論社でも「東大出のみ」が生涯の勲章、気位いのみ高い人間のクズが多く、筆者の中にも、文学とは無縁、単なる翻訳屋を多数見てきたので、筆者の分析、実感としてよく分かる。また近年のタカリ官僚=東大法学部出身者を見るまでもなく、大昔から諸悪の根源「東大解体」を主張する人間ゆえ、本書を読みながら、何度も快哉を叫んだ。最後の章に出てくる中野孝次は(彼の最初の仕事、全体的にひどい翻訳の新潮社版『カフカ全集』全五巻、高橋義孝の口ききで出たことも教えられた)、1968年だったか、ヴァーゲンバッハ『若き日のカフカ』を翻訳してもらった仲でもある。しかし、彼の小説、陳腐低俗で驚くが、そのことを柄谷行人が徹底的に批判した文を読み、溜飲を下げもした。芳賀徹も、編集者にとっては実にイヤな奴だった。120ページに出てくる高橋健二と同列の存在、井上司朗の「中島健藏叩き」の中に、「東大とは富国強兵を目的とする明治政府により明治22年に造られ、体制維持のためのイデオローグとテクノクラート達の養成機関」とあるが、東大のこの体質、近年ますます激化している。著者は「あとがき」で、日本におけるドイツ文学研究は「二流」の人間で成立していたこと。通常はエリート文化と呼ばれる教養主義もまた、この「二流」の人々の文化現象だったと指摘している。そのことは十分に分かるにしても、その検証のためにここまでのエネルギーを傾注した著者のモチーフがどこにあるのか、最後まで見えなかった。