紙の本
犠牲者の人生を考える。
2019/05/19 04:04
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:hiromi - この投稿者のレビュー一覧を見る
光州事件の4ヶ月前に、父親の仕事の都合で北京を離れた著者。それと事件との因果関係はもちろんないけれど、拭いきれない罪悪感のようなものに苛まれてきた月日に向き合うように、事件の生存者に取材を重ねた。ノンフィクションではなく、あくまでフィクションとして世に出す意味を考えさせられる。
この本を読むまえに、断片的でもいいので光州事件について調べてから読むことをおすすめします。
紙の本
もう一度、光州事件を考えてみる
2022/04/04 12:30
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この小説は光州事件という1980年に起こった民衆蜂起を題材にしている。私は、この小説を読みながら、その事件をもう一度前胸した。1980年5月、全羅南道の道都であった光州市で大規模な反政府蜂起が起こり、軍隊の武力鎮圧によって多数の死傷者を出した事件。事件の発端は、同年5月17日、韓国軍の全斗煥将軍が全土に非常戒厳令を布告して政府の実権を掌握したこと。それに反対する学生を中心とした市民が蜂起して、5月21日には20万人の群衆が市内の各公共機関を占拠、無政府状態となった。これに対して、戒厳司令部は実戦部隊を突入させて市内を制圧した。事件の犠牲者は公式発表では官民あわせて者191人とされているが、死者は2000人を超えたとの説もある。あれから40年、この小説のとおり、遺族の気持ちはもちろんいつまでたっても癒されない
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光州事件とはこんなのだったのかという凄まじい衝激でした。隣の国でそんなに昔でない時期にこんなことが起こっていたとは本当に言葉になりません。
韓国の小説によくある語り手がコロコロ変わるタイプなので、この人は誰?みたいな感じになることが多く少しわかりづらかったですが、オススメです。
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アジアの中では民主的な国の筆頭と思っていた国。最近の情勢や我が国との関係を見ると、どこかダークな部分があるのかと思わざるを得ない。隣国の歴史を少し知り、隣国への印象を構築する手助けとなった。
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簡単には感想なんて書けない本だ。
時間を置いて、複数回再読すると、気付くこと、感じることももっと見つかりそう。
光州事件という事実すらよく知らない状態で読むことに少しためらいはあったものの、この作品はあの事件の背景とか詳細を伝えるもの、というよりむしろ、あの時に、あの街に生きた人、あの時に、あの街にいることができなかった人たちの事件発生直後から30年後までの葛藤が描かれた作品なのではないかと思っているところ。
実は、こんな風に文章に出来るようになるまでに、3日ほどかかっている。言葉にするのは、今はこれが精いっぱい。
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光州事件というと、圧政に対して徹底的に抗戦した市民たちの勇敢さや、後年の民主化運動に及ぼした影響など、プラスの側面ばかり見てしまいがちだったけれど、何よりまず、多くの無辜の人々を死なせ傷つけた悲惨な戦い、負け戦だったのだ、ということを強烈に思い知らされた。その悲惨さを直視してこそ、これは二度と起こってはならない、忘れてはならない出来事なのだ、と理解することができるのだと思う。
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光州事件で失われた人々の鎮魂のために書かれた作品。語り手が次々と変わり、またその語り手が誰なのかしばらくわからないこともしばしばだが、それらは意図的に、ぼやけていたピントが少しずつくっきりとした像を結んでいくような効果を狙ってのことである。残酷な状況を淡々と描くとともに、その中で倒れていった人々の思いが、魂が、美しく描かれている。
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広州事件を題材にしているが、
事件についての前知識は必須ではないです。ここには万国共通の感情がこめられていると思うので。
ただただ、著者の筆力に感動した。
「語り過ぎない」ことのパワーを感じさせてくれる作品にまたひとつ出会えた。
こんな風に書ける人になりたい。
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韓国最大の悲劇と言われる光州事件を、1人の少年を中心に描いた作品。これが人間にできる業なのか、と感じさせる描写が続く。
この作者の小説を読むのが初めてなのでこういう文体なのかそれともこの作品だけなのかわからないが、非常に抑制された印象を受けた。登場人物はそれぞれ抱えきれないほどの痛みや傷を受けているが、それを表立って主張しない。淡々と独白し、淡々と日常生活を送っているように見える。少年の母だけは唯一悲しみが文章の端々に感じられたものの、それでも彼女は「愛する息子を失ってなお生きるための食事ができる自分」を客観的に見ている。
解説でも触れられていたように、これは告発のためではなく鎮魂のための物語だ。「あなたが死んでも葬式はしない/私の人生が葬式になる」といった台詞は、まさにこの作品の登場人物のための台詞であったと思う。最後のページは自分でもよく理由のわからない涙が出てきた。
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ある書によれば、「光州事件」を扱った日本で翻訳出版されている長編文学は、この本とあと一冊しかないらしい。ルポや資料集は幾つもあるのであるが、隣国の、しかもたった38年前のあれほどの出来事を描いた「文学」がほとんど出版されていない。これは日本の文学にとっても不幸だろう。なぜならば、これを読んでみたらある程度は納得するはずだ。人民戦線の体験が、ヨーロッパの文学を鍛えたように、この未曾有の人類史的な悲劇の内面を体験する機会を、隣国の日本人は持つことが出来ないからだ。
わたしは日本に入ってきた映画は全て観ている(「ペパーミントキャンデー」「光州5.18」「タクシー運転手」それでもたった3つ)。ところが、それだけではこの出来事の「ホントの姿」は見えていなかったのだと知った。
ありきたりのボールペンでした。モナミの黒のボールペン。それで指の間を縫うように挟み込みました。
そりゃあ左手ですよ。右手では調書を書かなくてはいけないから。
ええ、そんなふうにひねりました。こっち側もこんなふうに。
最初は何とか我慢できました。でも、取り調べのたびに指の同じ部分をそうするものだから、傷が深くなりました。血と粘液が混じって流れました。後になると、この部分に白い骨がのぞき見えました。骨が見えるようになると、アルコールに浸した脱脂綿をそこに挟むんですよ。(略)私もそう思いました。骨が見えるくらいになったのだから、そこはもうやめるだろうと。ところが、そうじゃありませんでした。さらに苦痛を与えると分かっていながら、脱脂綿を外してからもっと深くボールペンを挟んでひねったんです。(129p)
思い出してほしいとユンは言った。記憶と真っ直ぐに向き合って証言してほしいと言った。だけど、そんなことが果たして可能だろうか。
三十センチの木の物差しで、子宮の奥まで数十回もほじくられたと証言することができるだろうか?小銃の台尻で子宮の入口を破られ、こねくり回されたと証言することができるだろうか?出血が止まらずショック状態になったあなたを彼らが総合病院に連れていき、輸血を受けさせたと証言することができるだろうか?二年もの間その出血が続いたと、血栓が卵管をふさいで永久に子どもを持つことができなくなったと証言することができるだろうか?(204p)
15歳の同級生を探して、トンホは危ないと分かっていながら夜の尚武館に入る。その彼の視点。遺体さえ見つからない同級生チョンデの死んだ魂からの視点。冒頭の2人の視点からの描写は、全斗煥の軍隊が無辜の市民を虐殺し通した事を私たちに教える。舞台は県庁前広場や大通りだけではなかったのだ。やがて尚武館に居た3人の若者のその後の人生を見せる後半。光州民主化抗争の当時だけでなく、その後の何十年間も、彼らを苦しめるその内実を、しかし私は想像さえしていなかった。
わたしたちは知る必要がある。隣国のこの人類史的な悲劇を。
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1980年5月の光州事件を扱った小説。あの事件で亡くなった者はどうしたか、生き残った者はどうしたか、残された家族はどうしたか。その時、少年は尚武館にいた。銃撃されて亡くなった人たちの遺体がそこに収容されていたのだ。戒厳軍がやってきたときに、友達のチョンデとはぐれてしまった少年は、彼がどこかに怪我をして収容されていないかと、道庁舎や全大病院などを探していてこの尚武館にやってきた。そしてそこで遺体の整理などの作業をしていた兄さんや姉さんたちから頼まれて手伝いをしていた。そんななか、時は一刻一刻と戒厳軍が再攻撃する時に向かっていく…。エピローグで、この少年は作者の父親が教えたこともある中学生だったということが分かる。韓国現代史での悲劇。5.18事件を取り上げた作品は胸をうつ。「タクシー運転手」の映像が浮かんできた。
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韓国の光州事件のことを小説で描いたものである。読むまではすっかり忘れていた。30年ぐらい前のことであるが、あまり当時を非難する声は日本には届かない。
こうした暗い歴史があることも考えをめぐらす必要があろう。
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これはまたすごい物を読んでしまったのかもしれないなあ。つらくてしんどい、重量級の読書だった。
しかし、彼女が書いたことで、彼らは生き直せたのではないだろうか?
彼らを生き直させることが出来たのではないだろうか。
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幼い鳥
黒い吐息
七つのビンタ
鉄と血
夜の瞳
花が咲いている方に
雪に覆われたランプ
十文字に積み重ねられた体の塔
モナミのボールペンと指の間の脱脂綿
せっかく命があった人もどうしてこんな生き残ったことに罪悪感や苦しみを感じて生きていかなければいけないんだろう・・・と悔しくてつらくなる
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1980年光州事件、ひとりの少年が生きた様子を、彼と関わった人を、地獄を経て生き延びてしまった感覚を、今も体を汚染しつづける記憶を、悪夢の方がましだとすら思える現在を、その現在を生きている実感を、複雑な文体を駆使してハンはどこまでも進んでいく。読み終えてしばらく泣いた。
光州事件、その後の人々を描いた小説であるものの、死生観や身体感覚、観念と身体のバランス、むせるほどの生の匂いは『菜食主義者』『ギリシャ語の時間』とも繋がる気がした。
この本の輪郭は名前を奪われた群衆からハンが引き上げた少年の存在感。君が生きていたこと、もう誰にも冒涜されないように。
人々が語る凄絶な経験に体は震えて動けなくなり、傷は一生もので、誰にも、何をもってしても回復せしめることはできない、それでも生きていくしかない絶望が混じった諦めに、けれど少年のことを思い出すときの、どこか煌めいた切なさに、涙でしか私には答えられなかった。答えられるものでもないのに。