紙の本
下巻から入るのも手
2024/02/24 22:32
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書に対する批判に応じたサイード自身による「オリエンタルズム再興」に加え杉田英明による「『オリエンタリズム』と私たち」、と「平凡社ライブラリー版補論『オリエンタリズム』の余波」が収録されている。『オリエンタリズム』は人文学的素養がないととっつきにくのは確かであり、まずは下巻のこれらから目を通したほうが入りやすいだろう。
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上巻は最後まで読破したものの、多忙で読む時間が十分に取れなくなったため、
下巻は半分まで読んで挫折しました(泣) 近いうちに再度挑戦して、今度こそ読破してやるー!!
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オリエンタリズムとは、思考や知識の一形態であり、学問の一部門をなしているものです。西洋が東洋、特にアラブを他者化し、オリエンタル(東洋人)でないゆえに、オリエントを最も知りえるという文法を用いて「オリエント」という地域はヨーロッパの人々に解説されてきた。しかし、その解説は古くはルネッサンス期に始まり、西洋の文献学や分類学といった影響を受け、人種差別主義的でさえあります。それにもかかわらず、その解説は権威を得、現に今日の繁栄を誇っていることにサイードは危機感を覚えています。
こうした差別主義的なオリエンタリズムが勝利を得ている要因に、近東における現代文化の潮流がヨーロッパおよびアメリカをモデルに動いており、経済的、政治的、社会的なこうした流れを強化する力が近東の内外に存在することを挙げ、問題が構造化されていることも指摘しています。
読むのに非常に時間がかかると思いますが、読んだあとの読了感はたまりません。
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かなり難しかったので正しいかわかりませんが、私が理解したことを簡単にまとめます。
「オリエンタリズム」とは要するに西洋側の視点で見た東洋の姿であり、それは多くの場合実際の東洋の姿とは異なるものである。
こうしたオリエント像は歴史的にみても西洋=強者、東洋=弱者という主従関係によって政治的・学問的に作り上げられていった。
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『だまされない議論力』吉岡友治 の巻末の読書案内に出ていたもの。そのうち読む予定。-「文化的偏見の構造を分析した現代の古典。ただし後半は繰り返しが多いので前半を読むだけでよい」
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上巻で体系的解説を済ませたので、下巻では違う観点から。
オリエンタリズムとは何か。これを身近なもので例えるのなら、オリエンタリズムとは「他者」なんだろうと思う。
僕らは常識として、世間体として「他人の気持ちを考えよう」という言葉をよく目にする。でも、僕らは本当に他人の立場に立って相手の事を考えようとしているだろうか。自分にとって他人とは結局自分というフィルターを通した他人でしかないのであり、時としてそれは「相手から見た自分」というのを一切考慮せず、自分のプライドが許す範囲でしか他人を見ようとしない穿ったものであるかもしれない。
これもまた、サイードの言うオリエンタリズムの一つの形だ。
それは、文化という枠組みだけでなく、社会という共同体の中でも、君と僕という狭い関係性の中にも、現れる。オリエンタリズムとはつまり、僕が君の事を「僕にとって都合のいい君」としてしか理解しようとしないくせに「僕は君の事を理解している」なんていってしまう事への欺瞞に対する批判なんだ。もちろん、どれだけ努力したって本当に君を理解することなんて出来やしない。でも100%理解できないからって、理解しようとするのをあきらめるのは違う。そしてそれはもちろん、僕と君の場合だけの話じゃない。
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アラブ人の筆者
西洋人は東洋人を差別
知らず知らずに描いていた偏見が解けた瞬間
皆が偏見を抱いていてそれが解けた瞬間は?
韓国人が兵役いや
女は仕事できない
女は現実的、細やか、相手を思いやる気持ち、多くのことができる
男が優れている
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キーワードは知識と権力、そして表象といったところか。オリエンタリズムとは、西洋によるオリエントを見つめるときの思考の様式(オリエントを表し(表象)、説明する(言説)構造的な文化)を指す。その内容とは、例えば、オリエントは自分で自分を代表することができず誰かに代表してもらわなければならぬ(もの言わぬ他者であり、よって西洋がその役を担おう!)であったり、横たわるヌードの女性のような性的な魅力を放つ存在、あるいは幼稚で野蛮という複数の偏見が織り込まれている。しかし、この偏見・神話を指摘することが本書の目的ではない。オリエンタリズムがいかにして偏見・神話から「実体的な」存在であるオリエントを作りだし、それを抑圧していくか、これがとりあえずの主題と私は捉えた。オリエンタリズムは、古くはルネサンス期まで溯る歴史的背景があり、そこから「西洋」と「東洋(オリエント)」という心象地理が作られ、18世紀末の「文献学」、20世紀の「実証科学」から栄養を受け、確固たる学問分野の一つとなるに至る。この過程には(オリエントに関する)知識が(オリエントを抑圧する)権力を生み、その権力がさらなる知識を生むという円環がある。この円環に包囲されたオリエントは西洋の虚構から、支配される実体的な存在となる。この段階においてオリエンタリズムは「真理」となり、オリエントと、オリエンタリストと、西洋のオリエンタリズム「消費者」の三方向にわたって規律=訓練を課す。しかし、ここにおける「真理」を文字通りのそれではない。サイードはニーチェの述べた「真理」という意味でそれを用いている。
(そしてこちらが核となる主題であると私は思っているが)、オリエンタリズムがオリエントを(西洋に都合のいい、馴化されたオリエントへと)「オリエント化」する過程のなかに潜む「表象」という問題について、サイードは鋭い指摘をしている。それは、あらゆる表象というものが、表象であるがゆえに、その事物を表象しようとする言語や文化・制度・政治的環境の作用を受け、それらにはめ込まれているのではないか、ということである。つまり「表象とは、それが表象であればこそ、「真理」以外の実に多くの事柄に結びあわされ、からみあわされ、埋め込まれ、織り込まれているのであり、「真理」とはそれ自体、一つの表象」(下巻p165)ではないのかということになる。よって、オリエンタリズムがオリエントの誤った表象であるというよりは、表象とはそうゆうものであり、それが特定の歴史的・知的・経済的背景のなかで、在る傾向に従って、ある目的のために作用しているということ。そして「知識」とは、オリエンタリズムを例にとれば、表象の備わる属性によって分配され、再分配される。この部分は、オーウェル『1984』と通じるものがあるように思われる。(「真理は、権力によってつくられる」、オールドスピークからニュースピークへの言語の切り替え)
この著作は、オリエンタリズムの歴史・経済学に終始しているため、読み途中から感じていたある物足りなさは著者の認める通りである。しかし逆に、我々が、その物足りなさへの探求が読者に委ねられたと思うのなら、それはある意味著者の狙いどおり��あろう。「文明と野蛮」という自分の関心にばっちりあてはまるものだったし、なにより刺激的な作品だった。
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オリエントをめぐる著作家たちのことごとくが、オリエントを、西洋人によって注目され、再建され、さらには救済される必要のある地方とみなしていたのである。
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西洋(西欧)に対する「東洋(オリエント)」、と言ってもここでは中近東がメインで、せいぜいイギリス領となったインドが出てくるくらい、もっと東の中国・韓国・日本等はとりあえず言及されない。
近世あたりからヨーロッパではぐくまれた「オリエント」概念やそれへの言説の構造となりゆきを精細に描写した本書は、「オリエンタリズム」が他者としての「東洋」を神秘・野蛮・静的放逸として対置する反面で、逆に「西洋」たる自分たちの輪郭をも規定することになったと指摘している。
サイードの思考は鋭く「西洋」の批判となっており、彼の批判は20世紀後半の「西洋」およびそれに感化された諸言説にも向けられている。とりわけ「オリエンタリズム」の思考は、中東イスラム圏に対するかたよったイメージに結びついている。
サイードはどうやらミシェル・フーコーとりわけ『言葉と物』に多大な感銘を受けたらしく、本書ではフーコー的な視点で「言説」の様態を分析・描写している。したがって本書はかなり「構造主義的」な本である。
文学作品も含めた大量の文献が検討されており、読み応えは十二分にある。面白い。
さていまだこのような「オリエンタリズム」幻想(それは西洋人が作り上げた表象であるが、現実の東洋とまったく隔絶しているわけでもない。遠距離恋愛において相手のイメージを独り歩きさせてしまうようなものか。)が世界の大半にはびこっているとすれば、それは「グローバル」な均質化とどのような齟齬が生まれ、変容が立ち現れてくるのか。そういったことを、これから考えてみるのも楽しそうだ。
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下巻は、本編の締めくくりとともに、再考、分析、影響、訳者あとがき(日本のオリエンタリズムにも言及)、原注、索引と学術書としても大変に充実している。スタイル、テーマともに上巻のレビューで個人的には尽きている。
本質還元主義=所詮あれは~なのだから、という言説への鋭い分析。アクチュアルなパレスティナ問題にも切り込む。ブローデル、ウォーランステインとグラムシも読んでみよう。
・P298:それらの研究の全ての出発点にあるものは、かつて表象されることがなかったり、あるいは誤って表象されてきた人間集団が、日常的に自分たちを排除し、その意味し表象する機能を奪い取るべく、またその歴史的現実性を踏みにじるべく政治的・知的に定義された領域のなかで、自分たちを語り、自分たちを表象するという権利である。
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●本書は、「ヨーロッパのオリエントに対する物の見方・考え方を広く『オリエンタリズム』として捉え、そこに連綿として受け継がれてきた一貫した思考様式の構造と機能を分析すると同時に、そのような知のあり方に厳しい批判を加えた作品である」と杉田英明氏は解説しており、それらの解説によって何とか概要を理解できた。
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オリエンタリズムという言葉の定義を拡大し批判を投げかける。
下巻においてその矛先は近年の研究にも向けられ苛烈なまでの批判が行われる。
本書が優れている点は、出版されて以降本書に対して巻き起こった論争に対するサイードからの回答、
そしてさらにメタ的に第三者からの批評、指摘が収められていることだ。
そのため出版当時の状況を知らない世代でも概況を掴むことができ、この本をどう立体的に読み解くか新たな視点を得ることができる。
あとがきにもあるように、本書で通底して語られるオリエンタリズムが内包する課題というものは
我々日本人と世界の関わりに当てはめてみる必要がありそうだ。
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サイード 「オリエンタリズム」下巻。途中、西洋の東洋差別の繰り返し、イスラム哲学の難しさに 苦労したが、結びで、著者の伝えたいことが 理解できて よかった。
アメリカとイスラムの対立構造の中の アメリカの自意識の強さを 伝えたかったのだと思う
知識人の役割
*偏りがないこと
*共同体的な目的にかなう
*力の政治のなかで、支配的でも 強制的でもない知を 生み出す
そのためには
*専門分野の境界線を踏み越える
*政治的、方法論的、社会的、歴史的に 認識する
*支配体系を 政治的、方法論的に解体する
*コンテクストの定義、変換において、知識人の役割に対して 尖鋭な感覚を持つ
本編終了後の杉田英明「オリエンタリズムと私たち」や 訳者あとがきは、わかりやすく要約されている
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西洋における東洋に対する言説を「オリエントに対するヨーロッパの支配の様式」と示し、それまでの西洋における東洋研究、東洋学を鋭く批判した著名な大作。ただ非常に長く、全体を通して何を言っていたのかあまり覚えてない。(私の理解力が足りないだけであろうが...) 監修あとがきにおいて、サイードのオリエンタリズムは現代日本においても顕著に見られる現象であることが指摘されている。1978年に発表された著作であるにも関わらず、現在マスメディアや書籍で当たり前のようにサイードの指摘した言説があることに違和感を覚える。